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2010.11.05

白井晟一づくし

白井晟一展が東京の大学、群馬で開催され、ふたたび東京で来年あるそうだ。

ぼくはこの建築家が評価され、いわゆる白井神話ができた直後あたりから建築を勉強しはじめた。だから世代的課題なのかもしれない。とにかくぼくたちにとって、4年生の春休みの建築見学として、奈良京都はもちろんだが、九州へいって磯崎新と白井晟一はぜったいに見なければならないものであった。

そんなわけで白井本をぱらぱらめくって眺めてみる。

『《現代の建築家》白井晟一』SD編集部。1978年。磯崎新がマニエリスム/バロックの概念をつかって断片で構成された白井建築を解説している。当時はたいへんとがっていた論考だが、今日ではいちばんオーソドックスに見える。当時まともな美術史の概念から現代建築を解説できたのは、おそらく彼でなければ、ほとんどいなかったのではないか。大江宏が、伝統と近代に葛藤している自分自身を白井に投影しているのが印象的であった。

『無窓』復刻版。ぼくが白井建築で面白いのは「窓」である。なぜなら彼の建築は、空間のシークエンス性が面白いのだが、そのシークエンスを分節化しているのが、窓や、部屋から部屋へ移動するさいのアーチ状の開口部である。内部/外部の開口ではなく、内部/内部だから建築的には別物だが、ぼくには同じ意味を担っているように見える。彼の建築はシーンが重要だという。こうした開口部は、そのシーンを決めるという重要なことを担っている。ただ開口部という言葉では面白くない。彼が『無窓』というので、ぼくは「窓」といっている。

それはそうと『無窓』に収録されたエッセイも面白い。ただぼくの読みはひねくれている。「めし」「豆腐」はいわば美学であり文明論でもある。ただぼくの印象というか、読みは、白井晟一は寡筆なのではなく、その思想のコアをそのまま言葉にするという発想はなかった人ではなかったかと想像している(というかそっちのほうがおもしろい)。彼の文章は、思想というイデアの影なのであろう。作風がそうである。西洋風の重厚な石造りであったり、異様な和風であったりするが、既存の様式を継承しつつ洗練させるのではなく、かといって自由にもてあそぶのでもなく、しかし全体としてあるはっきりした統一感がある。ぼくはこのような「語ることのできないコア」のようなものを感じさせる建築家は好きである(ただし研究対象にはしずらい)。

d/sign, no.18「電子書籍のデザイン」。別の目的で買ったのだが、中谷礼仁さんが白井晟一の住宅にはトイレがないという伝説をコアにして書いている。晩年の自邸には、ぎゃくに、トイレが中心にきている、という物語をプランを紹介しつつ述べている。これは「神の子の家」という連載らしい。ぼくは怠惰で、彼の仕事をフォローしていなかったが、久しぶりに目にしたほうが、強い印象をもってしまうようだが、彼は『明治・国家・建築家』の行間を埋めるような仕事をずっとされているような印象である。それほど修論は重いものであったようである。

まだまだ目をとおすべき資料はある。

面白い批評ほど、客観的であることはむつかしく、批評家自身を語るものとなってしまう。白井晟一という対象もそうで、高みから、大きな枠組みで、彼を批評しようとしても、批評家は結局は自分自身を語ることになってしまう。32年前に大江宏が自覚したことから、ぼくたちもそれほど遠ざかってもいないようだ。

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