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2010年11月の9件の記事

2010.11.29

トニー・ガルニエ

海外出張でリヨンにきている。本務のかたわら、週末を利用して、多少は市内も郊外も観察する。

トニー・ガルニエが建設した「合衆国街」と名付けられた団地をみにいった。25年ぶりになる。かつては寂しい郊外の団地であった。今も基本的にはそうであるが、トラムで都心と接続され(ガルニエがプロジェクトのなかで予言していたことが最近実現されたのであった)、建築ミュージアムもあり、また窓のない壁面には建物いっぱいの壁画が描かれている。

もちろんこの建築家を知ったのは、ペヴスナーやバンハムの著作をとおしてであった。しかしこの近代建築史観にもとづく解釈は、当然のこと、かなり偏っている。新しいテクノロジーと、近代美術の原理の実現としての解釈である。間違ってはいない。しかしアングロ=サクソン的視点として相対化しなければならない。カタログなどをみると、もっと別な側面もみえてくるのである。

それは都市のイデアといったものである。ガルニエはローマ大賞を獲得してローマに留学したが、そこでは古典建築というよりは、古代都市そのものを研究していたように思える。共和制の社会において、アトリウム式の住居にすみ、芸術作品を自邸のそこかしこに並べる。フィジカルにはそのように想像される。

合衆国街についても、そういう都市のイデアが反映されている。もちろんそれは19世紀のフーリエ主義などが流れているし、社会主義市長エリオの考えもあるであろう。しかしそれらと古代都市のビジョンが融合している。

合衆国街は、リヨンというローマ都市を起源としいまや大リヨンとでも呼ばれうる大都市の、一部となって位置づけられる。ガルニエはリヨンのために、戦没者モニュメント(アクロポリスの上のパルテノン神殿のような)など、いろいろプロジェクトを構成していた。合衆国街の俯瞰パースには、それらがパンテオンラマ的に描かれている。理想都市としての産業都市=合衆国街=リヨン市、である。

リヨン市全体が壁画の町として演出されている。建物の壁面いっぱいにだまし絵的スーパーグラフィックを描くことはとりたてて珍しいことではない。リヨンではそれが都市そのもののウリとして位置づけられている。合衆国街の壁面も同じで、ユネスコの協賛がつき、外国アーティストが構想する理想都市が描かれている。

良き志があり、後世の人間がそれを誇りとし、すくなくともまちおこしの核にすえられることはよいことである。

それにしても寒い。

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2010.11.28

比較建築史読解003 (3)日本建築(史)後半

(前半からのつづき)

浜口隆一はさらに丹下健三や前川國男のコンペ案を評価するための論文『日本国民建築様式の問題』(Ryu?chi HAMAGUCHI, Le Problème des Styles Nationaux de l’Architecture Japonaise, 1944)のなかで、リーグルやヴェルフリンの理論を借用することで、日本建築における芸術意志ならぬ「建築意志 Bauwollen」は「空間」であると主張した。西洋の折衷主義においては(浜口は言及していないがあきらかに大陸的な建築においても)、建築意志は「彫塑的」である、すなわち、付加的な装飾や細部にむかって造形の意欲がはたらきかけられるのであるが、それとは異なって日本建築では、もっぱら空間を作ろうとする方向に意志がはたらく。

 伊東は、勾配屋根、瓦屋根、独特の木構造の装飾的表現、絵画や彫刻による装飾といった側面に日本建築の東洋的特質を見いだそうとしたのに対し、堀口や岸田や浜口にとっては構成、ザッハリヒカイト、空間といった近代美学と両立しうるもの、そして大陸的建築とは異なるもの、が日本的なのであった。

 そして日本建築とは、グローバルでもなく、ヘレニズム的でもなく、中国的でもなく、なにより日本的であるというトートロジーは、ひとつの抽象的な美学として構築された。

 こうした立場は日本建築史最大の碩学といっていい太田博太郎にも継承されている。その『日本建築史序説』(Ohta HITOTARO, Une introduction pour l’histoire de l’Architecture japonaise, 1947)はさまざまな研究の集大成であり、3部から構成されている。

(1)「序」では、堀口などに倣って、日本の伝統的建築の特質は、近代建築にきわめて類似していると、指摘している。空間、非シンメトリー、素材の率直な使用、一種の機能主義、などである。これは「美学」としてのサマリーである。
(2)本論の各章では、寺院、神社、城、住宅などがテーマごとに論じられ、それまでの多くの研究者の研究が体系的にまとめられている。これは「実証主義」にもとづくサマリーである。
(3)「付録」は参考文献であるが、改訂されるごとに最新の研究成果のリストが追加される。

 重要なのは美学(序)と実証主義(各章)の関係である。慎重に読めばわかるが、両者は完全な併置なのであって、有機的な関連づけははじめから放棄されている。そしてそのようなものとして、「日本建築」は固定されてしまったまま、今日にまできている。

 美学と実証主義の並立という構図から、さらに距離をとるために、歴史をひとつの「意識」の展開として叙述することがなされた。稲垣栄三の『日本の近代建築[その成立過程]』(Inagaki Eizo, L’Architecture moderne du Japon, le processus de sa formation, 1959)である。この包括的な叙述では、様式、技術、法制度、都市計画、職能などを指標として近代化が描かれているが、稲垣はそのなかで「建築運動」にたいして特別な地位を与えている。すなわち日本で最初の建築運動である「日本分離派」を建築家の自意識(conscience en soi)の誕生として、位置づけた。ニコラウス・ペブスナーらが描く近代建築史が基本的に建築運動の歴史であったことを知っており、その観点を日本に応用したのであった。稲垣は、前近代から近代への移行を、無意識から意識へ、という構図で述べた。なるほど近代人とは自意識のことかもしれない。しかしこの書はふたつの問題を残した。「自意識」とはもちろんメタファーにすぎないこと。そして戦争で説明を終えたこと。

 稲垣はその理由をごく簡単に述べている。戦後建築のあらゆる要素はすでに戦前に見られる、と。今日は晴れだ、というような口調でそう指摘した。しかしそれがあとの人びとを拘束する結果となる。新しい史実をも追記された藤森輝信の『日本の近代建築』(Terunobu FUJIMORI, L’Architecture moderne au Japon, 1993)も包括的な書でありながら、戦争をもって終わりとしている。戦後についてはまったく書かれなかった。戦後50年の時点においてさえ。こともあろうに稲垣が、戦後について書かれていないことを批判するありさまであった。

 稲垣の後継者ではないが、類似の枠組みと思われるのが八束はじめ『思想としての日本近代建築』(Hajime YATSUKA, Les Id?ologies dans l’Architecture moderne au Japon, 2005)である。思想とは、近代化、風景、近代建築運動の思想の移入、都市計画理論、植民地政策(日本にとって満州は、フランスにとってのアルジェリアであった)、政治的転向、そして近代建築の理論そのもの、が論じられている。政治的イデオロギーは直接には論じられていないが、そこに社会主義、ファシズム、植民地主義、ナショナリズムといった近代のイデオロギーの影が建築にどう投影されたかを一貫して追及されている。しかし八束もまた、戦後はまったく論じない。おそらく今度は、戦後は思想不在の時代という認識があるのであろう。

 八束は思想を論じた。藤森はある意味で非思想、無思想を論じた。しかし彼らは、稲垣の延長線上にある。つまり建築運動は自意識の誕生であり、自意識を所有する建築家だけが、思想を展開しうるのである。

 以上をまとめてみよう。「日本建築」とは100年ほどまえに探求されはじめたカテゴリーであった。最初それは文明圏のことと素朴に考えられたのちに、「美学」として構想された。大陸的なものとは異なるというのが美学的な定義であった。そののち「自意識」や「思想」としても論じられるようになった。

 こうした方法論では、なぜ戦前と戦後をひとつながりとして描けないのであろうか?

 ここでは仮説をひとつ述べる。日本の歴史家は、意図せずして、断絶をその歴史叙述のなかに持ち込んでしまうのである。

 「美学」は「非美学」との断絶のなかにおいて「美学」なのである。日本建築は、中国建築でないがゆえに、日本的である。あるいは美学をすてた日本建築は、すでに日本的ではない。美学は、伝統と近代を統合した。しかし統合の傍らで、意識されずに、分裂をつくった。だから戦後を歴史に接続して分析するためには、まったく有効ではなかった。

 稲垣のいう「自意識」は、それ以前の自意識不在の時期とは断絶しているからこそ「自意識」の誕生には意義がある。自意識の確立は基本的に不可逆なのであって、それ以前とは完全に分離されている。「思想」もまた「非思想」「無思想」との対比のなかで思想なのである。八束がいう「思想」もまた、彼が論じたい時代に固有のものであり、それ以前は無思想であり、それ以後は非思想なのである。

 そして美学、自意識、思想などにおける断絶はディアクロニク(通事的)なものである。以前/以後の完全な不連続をもたらす。ということは逆に言えば、普遍的な時間、数直線的な無限の時間というようなものがあって、その時間のなかに異質なものが同居しているyという構図は、日本建築史には内在されていない。「永遠」の不在、である。【つづく】
 

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2010.11.23

ウラ学園祭

週末前後、ぼくの大学は学園祭であった。その機会に仕事をたばねて出張する。神楽坂の某私大も学園祭であった。

神楽坂での会合。建築家、同窓の先輩教授、同級生教授といっしょにある企画の打合せをする。2時間とちょっと、ビール飲みながら議論。学会の支部をとおして、だれそれ経由で、こう話しをつけて、うんぬんで戦略をねった。一歩前進したぞ、という感触を共有した。それから話しはいろいろ脱線し、当世において建築論争がないのはたんに論争を組み立てないからだというご批評をいただいてそれもそうだと思ったり、電子メディア/紙メディアの話しをしたり、インド建築について興味をもっているのかとか、最近取り壊された有名建築家自邸の写真をみたり、最後は研究室や同窓生たちの昔話しやけっこう生々しい今話しなど、云々。それから飯田橋から西に向かって歩く。

故有名教授を偲ぶ会に出る。恩師ではあったが、研究室はちがっていたので、遠慮がちに記念シンポジウムを拝聴する。半世紀にわたるある学問史ダイジェストのようなものであった。学問は社会と連動してどんどん変化してゆく。よくぼくは学生に、学問や社会は10年から20年でまったく変わるから、学生のときに普遍的なことを勉強しなきゃいけないよと説教するのであるが、それはもちろんぼく自身への戒めでもある。それからロビーで歓談。25年ぶりの人が何人もいて、感慨深い。かわっていないなあ。

丸の内に移動して、三菱一号館のうらのビルへ。一号館ウラの中庭は小粋なカフェなどがあり、とてもおしゃれなデートコースといった感じ(そういえば東京駅の軸線にある大通りもペイブを改修して公園のようになっていて、成熟した印象であった)。2階のレストランで、建築家と編集者と夕食+ボジョレ・ヌーボー。業界的話題をひとしきり話し、非常勤講師の相談もする。目下の宿題である、建築論争、電子書籍、建築アーカイブ、建築写真などについていろいろ教えてもらう。仕上げは帝国ホテルのバー。業界話はつづく。

出張からもどると、大学はまだ学園祭であった。構内でゼミをする雰囲気ではない。そこで自宅に学生たちを呼んでゼミをする。ぼくの研究室は完全なる自由主義なのだが、問題は、自由にされた学生たちがかならずしもワクワク感をもって自分のテーマを発見できるわけではない、ということ。まあこれはある意味、永遠の問題でもあるのだが。それからいわゆる「研究」を始めた学生たちは変な日本語を使うことにいつも悩む。「本研究では・・・とするものとする」などという、いつの時代かもわからない文語体をどこで覚えてくるのかなあ。文系学会の学術論文のほうがよっぽど口語的でカジュアルである。だからぼくは「史学雑誌」の巻頭論文の最初の頁を音読したのであった。無駄のないよい文章であった。

いろんな人に会っていろんな話しをすると、バラバラのようで、共通点もあったりする。たとえば神代雄一郎の巨大建築批判と、コールハースのビッグネス論はもちろん、同じことを論じている。しかし議論の発展のさせかた、落としどころの計算は、まったく違う。論じることの難しさは、そこにあるのだろう。

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比較建築史読解002 (3)日本建築(史)前半

(3)日本建築(史)

 そもそもarchitectureが「建築」に翻訳されてから1世紀半もたっていない。同様に1900年ごろの時点で、「日本建築」という概念はなかった。この概念は20世紀前半、アジア建築や西洋建築との関係を検討するなかから生まれた。そしてこの歴史は「美学」、「自意識」、「思想」などという概念によって成立しているとともに、深い断絶を内包するものとなったた。

 日本で最初の建築史家である伊東忠太の仕事は、日本の国土の上にある建築を、世界あるいはアジアといった枠組みのなかにどう位置づけるかを検討することであった。彼の位置づけかたは時期によって変化した。とりわけ内在的な特質というより、外部との関係性から日本建築の定義が模索された。彼はまず論文『法隆寺建築論』(Chuta ITO, De l’Architecture du Temple Horyu-ji, 1893)において、法隆寺の柱には膨らみあり、その膨らみの起源がギリシア神殿の円柱にあると考えた。エンタシスがギリシアから中東、アジアを経由して日本に伝わってきた。すなわちそれはヘレニズムの一翼を担うものであり、グローバルな古代建築の一部であった。ちょうどフェノロサが、法隆寺の壁画はヘレニズム絵画の影響下にあると考え、極東においてギリシアを発見したように。彼にとってこのとき世界はひとつであった。

  つぎに伊東は論文『建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途』(Chuta ITO, L’avenir de l’architecture de notre pays selon l’évolutionnisme architectural, 1909)のなかでは、ヘレニズムという単純な原点は破棄し、世界を分節化したものとして考えている。すなわち世界建築は古代(エジプト、アッシリアなど)、ヨーロッパ(ギリシア、ローマ、ロマネスク、ゴシック)、アジア(イスラム、インド、中国)という3大文化圏からなる。さらに彼は「分離」すなわち近代化ということにまで視野を広げている。すなわち西洋ルネサンスという文化圏からアール・ヌーボー(すなわちヨーロッパ)とアメリカが分離しているのと同様に、アジア文化圏からは日本が分離しつつある。しかし分離とは完全な離脱を意味するのではなく、もともとの文化圏との関係は切断されていない。

 このように伊東は、日本建築は東洋というカテゴリーに属すると考えるようになった。この態度は、論文においても、また設計やコンペ審査活動において顕著であった。伊東は東京の築地本願寺をインドの仏教建築の様式で建設したのだし、また1930年代の建築コンペにおいて審査員をつとめ、「東洋趣味」で設計するように建築家たちに要求した。渡辺仁が設計した東京の帝室博物館はその一例である。

 伊東忠太は、まず日本建築はヘレニズム=世界建築の一部と考えたが、やがてそれは東洋建築に属すると考えるようになった。そして理論的には、日本建築の枠組みは日本であるという次の段階がある。このトートロジー的な論理を展開したのが堀口捨己であった。彼は同時代の「日本的なもの」に関する論考に触発されて、論文『建築における日本的なもの』(Sutemi HORIGUCHI, L’Architecture à la japonaise, 1932)を書き、日本建築の特質として、非左右相称(非シンメトリー)、掘立柱、檜皮葺(瓦ではなく)、記念碑性がないこと、空間をつよく意識していること、茶室がザッハリヒであり機能主義的でもあること、などをあげた。これらの指摘は今日では当たり前すぎる。しかし重要な点は、堀口にとって中国的でないものが日本的であった、という点である。つまり中国建築は、左右対称であり、礎石の上に柱を立てるのであり、瓦葺きであり、記念碑的であり、彫塑的であり、見かけの効果が計算されたものである・・・。彼は歴史をレビューしながら、古代や中世の日本建築、とくに寺院建築はむしろ、こうした大陸建築の直輸入であり、その意味で中国的であったと論じた。しかしそこから日本的なものが誕生し、成長し、拡散し、展開していったのであった。

 堀口にとって「日本的なもの」とは、近代芸術運動におけるいくつかの特性を日本の過去の遺産のなかから抽出したものであって、それは大陸的あるいは中国的な特性を反転させたものであった。すなわち日本建築は、中国的でないから、日本的なのであった。

 こうした観点は日本的モダンといえよう。そしてそれは戦後のある時期まで支配的であった。とりあえずそれを継承したのは岸田日出刀であった。みずから撮影した写真に論考を加えた『過去の構成』(Hideto KISHIDA, La composition du passé, 1938)において、彼は日本建築を「構成」として論じた。彼はモダン・アートの概念を学習したうえで、デスティル、バウハウス、構成主義などと親近性のあるひとつの美意識をいだきつつ、朝鮮神社や東大寺南大門などをみずから撮影していた。近代アートを認識している目で、日本建築を語っている。【つづく】

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2010.11.18

比較建築史読解001 (1)問題の所在(2)これまでの取り組み

すこしまえ国際シンポジウムにご招待いただいて、未熟な論考を発表させていただきました。それをもとにすこし書き直してどこかに発表させていただきました。それをシリーズもの的に再録します。建築史にご興味のあるかた、ご一読していただくとうれしく思います。

(1)問題の所在

 これまで日本建築は、1977年の《間》展や、1987年の《日本のアヴァンギャルド》展などでフランスに紹介されてきた。前者は、日本の「間」概念においては時間と空間が未分化であることが説明された。後者ではヨーロッパから学習したものとして日本で展開されたアヴァンギャルドの普遍性と特殊性が明らかにされた。いずれも日本と西洋の比較文化論としてきわめて生産的なものであった。

 本稿ではもうひとつの比較文化論を展開したい。つまり日本では建築史がどう叙述されたか。それはフランスにおけるフランス建築史学の発生や展開と、どう違うか、ということである。いいかえると歴史叙述として、日本建築史とフランス建築史はどのように同じでどのように異なっているか、を明らかにすることである。

 このアプローチは日本建築がかかえるある問題を召喚する。すなわち日本の戦後60年間をふくむより普遍的な枠組みの歴史はまだ書かれていない。個別的なテーマについてのモノグラフは多数書かれた。しかしそれらを包括し、さらに戦前や近代以前からの統一的なパースペクティヴのもとに書かれた文献はない。「現在」は、歴史から切り離されたまま、60年続いた。それを「歴史の不在」とよぶこともできよう。

 しかしなぜ歴史が書かれないかを直接問うことはきわめて難しい。性急に結論をもとめてはいけない。歴史が書かれる理由は明白かもしれないが、書かれない理由ははっきりとしない。だからひとつの方法として、歴史観そのものを問うまえに、日本建築の過去と現在を問うまえに、そもそも「日本建築」はどのような概念であったかを問うてもよい。すなわち「日本建築」なる概念は、いつ、なにを触媒として、どのように制作され構築されたか、というようなことを自問してみる。そして参考として「フランス建築」の意味と内容もどのように制作されたかを考察するのである。

 おそらく本稿はある問題に対するひとつの回答ではないであろう。そうではなく問題そのものをよりよく記述すること、よりよい「問いかけ」を設計することであろう。そしてよい問いかけは、よく整理された資料を伴っていなければならない。つまり建築史についての主要な研究、あるいは書かれたいくつかの文献、がどのような空間を構成しているか、その年表、地図、が作成されていなければならない。これは一種の探検となるであろう。初期の探検隊が作成した地図は、すこし不正確であっても有用である。そんな地図を作製できればよいであろう。

 このような意識から、以下では「日本建築」と「フランス建築」の比較文化論を試みてみるのである。

(2)これまでの取り組み

 この問題意識から、筆者はすでにオフィシャルな場で二度の論考を試みた。ひとつは短いエッセイ『20世紀日本建築の通史は書かれなかったという結末について』(「建築雑誌」2000年12月号 p.54 Vol.115 No.1463 (特集:行く世紀、来る世紀 1))(Journal of Architecture and Building Science, dec 2000, vol.115, no.1463, Yoshitake DOI, Du fait que l’histoire de l’architecture japonaise du XXème n’a pas été écrite)。ここでは欧米ではいくつか通史が書かれているが、日本にはそれがないことを指摘した。もうひとつは『特集:通史をどう書くか?』(「建築雑誌」2004年2月号(Vol.119、No.1514))(Journal of Architecture and Building Science, dec 2004, vol.119, no.1514, Numéro spécial; Comment écrire une histoire générale?)であった。ここでは特集の責任者として取り組んだ。結論としては、日本における通史の不可能性ということであった。なぜ建築史は通史として書かれることができないか。仮説はいくつか可能である。日本では「歴史」がまだ文化的な制度として確立されていない。つまりモノグラフを集積して全体を描くということが習慣化していない。建築のなかの党派性が強すぎて、個々の思想や利害をこえた視点が持ちにくい。そして時間を連続するものとしてみなすこそが少ない。日本建築史において、時間は、分断され、切れ切れであり、個々の異なる特性の場所がばらばらであるように、時間も分節化されすぎるのではないか。それが時間と空間が未分化であることの帰結のひとつなのではないか。【つづく】

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2010.11.07

『近代都市バルセロナの形成』

を読んだ。いちおう都市史に分類されるかもしれないが、西洋史学、経済学、社会史、建築史、美術史といった専門をたばねた多角的な論考におおいに期待するものがあった。さらに近年、西洋史では、グローバル化という情勢に反応して、交易ネットワークとしての西洋都市にかんする成果が多い。そういう趨勢のなかで書かれた文献である。

そういう文脈からいちばん面白かったのは、とくに18世紀、19世紀にアメリカ大陸やキューバとの貿易で巨万の富をあげたという点。「インディアーノス」と呼ばれる、アメリカ移住で成功したのち富をもって帰国した人びと。彼らのうちのあるものは、バルセロナで産業を興したり、セルダーの都市計画フレームのなかで土地投機をおこなったり、地域の名望家となってゆく過程がおもしろいし、西洋史的分析のコアである。貿易商人・産業家たちが富豪となって、産業革命をおこし、近代都市計画を支え、ガウディなどの建築家のパトロンとなり、カタルニアの近代芸術を開花させたというきわめてわかりやすいストーリーが描かれる。

バルセロナのグリッドプラン都市計画を策定したセルダーも、アメリカ新大陸でのスペイン植民地都市計画を理想化して考えていた点など、生々しい。

すこしまえまで日本では、西洋のユートピア思想は、産業社会論や労働者住宅論などと関連づけられて語られていたが、当然のこと、ユートピア=新大陸植民都市、はあってしかるべき軸である。大陸での都市計画が、戦後、日本国内に還元されたというような視点と同じである。つまりセルダーのグリッドプランは、たんに合理性とか社会性ということにとどまらず、世界交易における普遍的都市像というように考えると、逆植民都市的でもある。当時の支配層はひょっとしたら今日以上のたいへんグローバルな意識をもっていたであろう、そういう人びとの都市ビジョンとして考えると面白い。

それからバルセロナのみならず、21世紀の都市としてその手腕が注目されているのは、マルセイユであったり、ボルドーやナントであったり、つまり交易都市→産業都市→創造都市というように、産業構造の大転換をきわめて大胆におこなって、成功しているような都市である。

現地におけるセルダー再評価というのも最近らしいので、バルセロナにかんする日本語文献ではかならずそれがとりあげられる。ただそれはもういいのかもしれないし、動態で考えれば、大胆に構造転換してゆける資質がもし都市にそなわっているなら、それはなんであるか、を知りたいものである。それは地勢とか、ネットワークとか、コンパクトとか、クリエイティヴとか、手法を云々するまえにそもそも都市にそなわっているなにかであろう。

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2010.11.06

『クラウド時代と〈クール革命〉』と『d/sign, no.18 電子書籍のデザイン』

おやじ読書である。

角川歴彦著『クラウド時代と〈クール革命〉』は出たばかりのころに一読して、たいへん面白かったのだが、すぐ多忙な新学期がはじまったのでブログすることを忘れていた。この本にはいろいろ刺激的なことが書いてある。

とりあえず目前に想定されていのが、音楽、書籍、映像、ゲームがすべてデジタルコンテンツとしてフラットなものとなり、それらをすべて提供する統合ストアがあらわれる。この「クール革命」は2014年におこるらしい(P.129)。そこではアップル、アマゾン、グーグル、マイクロソフトなどが業界の主導権をめぐって情報世界最終戦争を繰り広げるそうな。それに既存の大型書店や、映画配給会社などもくわわるのかな。

それからもうすこし先の未来には、本格的なクラウドコンピューティングが成立する。それからグーグルが構想する世界図書館構想は、アレクサンドリアの古代図書館、バベルの塔の夢をとうとう実現してしまうものだ。人類史上、画期的なものとなるであろう。「所有から利用へ」。図書はクラウド上にあり、ぼくたちはその一部をもくもくと読んでゆく。それは便利でいいのだが、そしたらぼくたちが読書をするその履歴がそっくりAIに残されてしまう。アンダーライン、書き込み、感想、すべてが。そしたらぼくたちが自分の脳だけにあると思っていた、それゆえ個人的秘密とすることができていた、思考の痕跡や、あるいは思考そのものがクラウド上にのる。すると人類はひとつの脳で考えるといった事態になる。そこには新しい宗教が必要とされるであろう。

いっぽう『d/sign, no.18 電子書籍のデザイン』。卓越した職人的技能をもつ日本のデザイナーやIT専門家たちや書籍専門家?たちが、細やかなことを語っている。素人目には業界話のようなものであるが、業界の外から見たほうがこういう話しはほんとうに面白いものだ。おおまかには、紙の時代に培った、編集、校正、装丁、デザイン、は電子書籍の時代にも廃れることはないという。今では、紙本か電子本は、物理的な印刷直前まで同じで、最後のアウトプットが違うだけ。そうすると流通と販売こそが違ってくる。「書籍の産直」である。

余談だが、知らないあいだに映画批評も終わってしまったそうで、「六三年とあるのは六四年の誤り」(p.87)的な批判スタイルが多いのだそうだ。そんな誤りならぼくのブログにもいっぱいあるだろうね。昔のことなんか、記憶だけで書いているし。でも記憶が断片化しぐちゃぐちゃになって摩訶不思議なかたちで再構成されたりしたら(創作とはそんなことであろう)、クラウド的でなくて面白そう。

この社会には文字好きのひとは多いし、活字離れなど数十年まえからいわれ続けているが、ケータイが普及することはそれがウソであることを物語っている。書籍はふえつづける。個人出版はいろいろ難しいし、素人が全部をこなすことは無理だ。そこがわかっている半素人は、たまたま知っている出版関係の人にアドバイスをもとめ、人づてに校正の専門家を探して校正をたのみ、できあいのテンプレートに頼らずに、レイアウトや装丁を最近美大を出たけれど仕事がない才能ある若い人に頼んだりするであろう。契約としては(わずかな)収益の配分を決めておくくらいであろう。そういう共同作業のほうが、ひとり家でこもって仕事するより楽しかろうね。

個人クライアントをターゲットにしたアトリエなどあらわれるのかな。個人クライアント目当ての電子書籍アトリエが、やがて超有名アトリエに成長するなんて、住宅からはじめて公共建築を手がけるようになる日本の建築家成長物語りと同じだし。

地球規模の黙示録的なことにもなるし、アーツアンドクラフツ的な適切スケールの話しにもなるようである。すると日本語などという地域言語の世界をしっかり残すのも、たいへんよいことである。いっそのこと、絶滅しかけている言語を遺産としてうけとり、特定メンバーだけの共通言語にしてしまう?

そんなことを考えながらiPadにいろいろ仕込む。便利なんだけどPC同期に時間がかかりすぎ。どなたかいい方法を教えてください。

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2010.11.05

白井晟一づくし

白井晟一展が東京の大学、群馬で開催され、ふたたび東京で来年あるそうだ。

ぼくはこの建築家が評価され、いわゆる白井神話ができた直後あたりから建築を勉強しはじめた。だから世代的課題なのかもしれない。とにかくぼくたちにとって、4年生の春休みの建築見学として、奈良京都はもちろんだが、九州へいって磯崎新と白井晟一はぜったいに見なければならないものであった。

そんなわけで白井本をぱらぱらめくって眺めてみる。

『《現代の建築家》白井晟一』SD編集部。1978年。磯崎新がマニエリスム/バロックの概念をつかって断片で構成された白井建築を解説している。当時はたいへんとがっていた論考だが、今日ではいちばんオーソドックスに見える。当時まともな美術史の概念から現代建築を解説できたのは、おそらく彼でなければ、ほとんどいなかったのではないか。大江宏が、伝統と近代に葛藤している自分自身を白井に投影しているのが印象的であった。

『無窓』復刻版。ぼくが白井建築で面白いのは「窓」である。なぜなら彼の建築は、空間のシークエンス性が面白いのだが、そのシークエンスを分節化しているのが、窓や、部屋から部屋へ移動するさいのアーチ状の開口部である。内部/外部の開口ではなく、内部/内部だから建築的には別物だが、ぼくには同じ意味を担っているように見える。彼の建築はシーンが重要だという。こうした開口部は、そのシーンを決めるという重要なことを担っている。ただ開口部という言葉では面白くない。彼が『無窓』というので、ぼくは「窓」といっている。

それはそうと『無窓』に収録されたエッセイも面白い。ただぼくの読みはひねくれている。「めし」「豆腐」はいわば美学であり文明論でもある。ただぼくの印象というか、読みは、白井晟一は寡筆なのではなく、その思想のコアをそのまま言葉にするという発想はなかった人ではなかったかと想像している(というかそっちのほうがおもしろい)。彼の文章は、思想というイデアの影なのであろう。作風がそうである。西洋風の重厚な石造りであったり、異様な和風であったりするが、既存の様式を継承しつつ洗練させるのではなく、かといって自由にもてあそぶのでもなく、しかし全体としてあるはっきりした統一感がある。ぼくはこのような「語ることのできないコア」のようなものを感じさせる建築家は好きである(ただし研究対象にはしずらい)。

d/sign, no.18「電子書籍のデザイン」。別の目的で買ったのだが、中谷礼仁さんが白井晟一の住宅にはトイレがないという伝説をコアにして書いている。晩年の自邸には、ぎゃくに、トイレが中心にきている、という物語をプランを紹介しつつ述べている。これは「神の子の家」という連載らしい。ぼくは怠惰で、彼の仕事をフォローしていなかったが、久しぶりに目にしたほうが、強い印象をもってしまうようだが、彼は『明治・国家・建築家』の行間を埋めるような仕事をずっとされているような印象である。それほど修論は重いものであったようである。

まだまだ目をとおすべき資料はある。

面白い批評ほど、客観的であることはむつかしく、批評家自身を語るものとなってしまう。白井晟一という対象もそうで、高みから、大きな枠組みで、彼を批評しようとしても、批評家は結局は自分自身を語ることになってしまう。32年前に大江宏が自覚したことから、ぼくたちもそれほど遠ざかってもいないようだ。

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2010.11.02

お別れの会のこと

先日、新建築社元社長の吉田義男さんがなくなられて、お別れの会があった。招待していただいていたが、本務のほうが会議などでいそがしく、出席できなかった。代理出席した家人と電話で話したりして、すこし雰囲気がつたわってきた。

ぼくもこの出版社にはたいへんお世話になっていた。ありがとうございます。

この雑誌の第一号などをみると、むしろ同人誌のような素朴な装丁であったが、しだいに業界大手になるにしたがって、立派になる。それとともに内容もかわってくる。初期はむしろ啓蒙的であり批評性もあったが、しだいに中立的、報道的になった。画期となったのが1957年のそごう問題であった。その批評のありようで、経営者と編集者が対立し、編集者全員が辞職したとされるものである。これはぼくにとっても伝え聞くのみのことであり、微妙なところはわからない。しかし今になって再考すれば、個人的な信念の問題であったかもしれないが、それ以上に、社会の変化にともなってメディアの使命というものに大変動がおこっていたと考えられる。メディアもあるスケールを越える公器のようなものになると、その公器上での批評は、おのずから個人の責任という立場からの批評ではなくなる。50年代ではそれほどではなかったと思うが、やがてこの大手建築雑誌にとって、購読料とともに広告料はたいへん重要な部分となったことも考えあわせると、経営者としての判断は正しかった思う。経営の面だけでなく、メディアの立ち位置ということからいっても、そうであろう。

メディアといってももちろん完全にニュートラルではありえない。多くの建設関連企業などから広告料をもらって経営している建築雑誌が、むきだしの批評性はひかえ、報道的になるのは当然のことであろう。

ただメディアの存立基盤もさまざまである。建築関係では、ある特定の企業の広報誌から発展したものや、そういうわけで特定の一企業からのバックアップで存続しているところもある。まれに、そういう雑誌が、特定の建築家やはたまた特定の一書き手をバッシングすることもあった。そういうのはたいへんはしたないことだと思う。

「批評」というと、ほんらいは大きな物語や大思想を物差しとして、それで建築作品や建築家などを批評するのがオーソドックスであろう。たしかにそごう問題の当事者世代はそのようなものであったかもしれない。しかし現在ではそういう大思想を前提とすることはまれになっている。ぼく自身もそうであり、その意味ではぼくは批評家ではない。ぼくが批評的行為によって目指しているのは、ある建築などを題材として、あたらしい観点を発見したり、問題をすこし普遍化したりするというようなことで、けっして対象をおとしめることではない。だから常勤の批評家ではないと自称して、たとえば八束はじめさんを納得させられなかったことがある。まあそんな感じである。

すこし普遍化すると、オーソドックスな建築批評は「演繹法型」であり、マルクス主義、進化論といった大思想の観点から個々の事象を判断する。それとは逆に「帰納法型」もありえて、ここの雑多な個別例を観察して、そこから普遍化できるものを探し、論じてゆく。ぼくは後者の立場である。自己観察をすると、建築史をやっていることと無関係ではないだろう。しかしこのアプローチは歯切れがわるいし、どちらかというと不利である。

そういうぼくにも新建築社から執筆の機会を与えていただいたものであった。ただ電子出版元年とよばれるこの2010年は象徴的なものになるかもしれない。ぼくも電子書籍に関する文献を買い込んで勉強しているくらいである。いっぽうで1世紀ちかく建築を取材しつづけた新建築のストックはすでに国宝級の建築アーカイブなのであろう。いろんなことがおおきく変わろうとしている。

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