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2010.10.05

twitter考

人から教えられて知ったのだが、twitter上で、第三者どおしが、ぼくはtwitterをやっているのかいないのか、なんて交信していた。ふううむ。と考えてみた。

すこし考えて、ぼくはtwitter向きではないので、やらないなあ、という気持ちになっていた。もちろんtwitterに本質的に意味がないとか、有害だ、とかはいいません。それは利用者がクレバーに操作すればいいだけのことです。でもぼくはぼくなりに、人とは違った態度でtwitterに接していい。それだけのことです。

理由はふたつ。

(1)ぼくはときどき建築批評をする。世間からも、手厳しい、ラディカルな、かなり急進的な批評家と思われているようである。自分でそう思っているなどとかくと自信過剰と思われて、反感をかうであろう。そんなことを望んではいないので、ソフトに書きます。ようするに自分が自分で怖い。瞬間的に、かなりディープな反応をし、それはそれですこし妥当性があったとしても、人様にたいして過激なことをいう恐れがある。twitterはわりと瞬間反応的だから、自制しているようで自制していないことがある。そういうような意味で、ぼくは適性がないと自己判断しているのである。

(2)口語的/文語的。あきらかにHP、ブログは文語的です。それにたいしてtwitterは口語的です。今回気がついたのは、文字だから文語的ではないということ。twitterは文字なのだけれど、口語的。違いはどこか。HP・ブログ=文語的というのは、書き手の内部であるていど時間をかけて考察し、論を構築してから書き、発表する。twitter=口語的は、文字で表現されるのではあるが、他者にたいする即時的な反応にちかい、という意味では、書き言葉をできるだけ、口頭の会話に近づけようとすること。で、twitterで新しいのは、初対面とか、知らない人どおしでも、WEB上で知り合って、会話ができるということ。twitterそのものが、まだなされていない、しかし可能な、ありとあらゆる「個人と個人の出会い」を可能にし、即、対話を成り立たせていること。です。そこまでは理解できるけれど、だからこそぼく的ではない。なぜかというと、ぼくはいつも他人とは違うことを考えることを努めているからです。人によっては他者と理念を共有することを信念としている。むしろそういう人が多い。そういう人にはtwitterはよい、と理論的に理解できる。でもだから、ぼくには向かない。ぼくは他者とことなる理念をもつことを目標としているので、他者に語りかける場合も、自分の内部で理論を構築してから、メッセージをおくる。そういうへそ曲がりもゆるしていただける今の社会の鷹揚さだと思っていますが。

でもでも。そのうちコロっと気が変わって、twitterなんか始めるかもしれませんね。宣言して禁欲するなど意味ないし。などとかくと理論を構築して他者に伝えることになりませんね。

ロボットを製作することの意味は、人間がよくわかってくること、っていいます。ロボットは人間のダミーです。で、研究しているうちに、ロボットにフィードバックできるほど、人間のメカニズムはわかっていなかった、ということにわかるのだそうです(10年以上前に話題ですが)。だからロボットをよりよく造るために、人間をよりよく理解しなければならない、ということになる。

おそらく人間が人間に語りかける、その方法も、いままで知らなかっただけで、じつはたくさんの種類があるのでしょう。だから、HP、ブログ、twitter、SNS、facebookとさまざまな形式が考えられるのでしょう。ですので新しいメディアが、古いメディア、あるいは人が人に語りかけるという行為そのもの、を克服するのではないのでしょう。今まで気がつかなかった「語り方のさまざまな種類」をこれから発見するのでしょう。

そういうようなことなのかなあ。

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