« 『アーキテクチャとクラウド』 | トップページ | お別れの会のこと »

2010.10.31

『白井晟一 精神と空間』

作家のような日曜日であった(である)。朝5時半に目がさめた。9時半まで仕事。もくもくとキーボード入力。10時からフィットネス。お昼は、きのう買ったキスを焼く。魚屋の大将は「あまり」というが、あわくはかなく、なかなか美味である。午後は読書。最近の白井晟一展のカタログである。

謎の建築家と呼ばれていた白井晟一が評価されはじめたのが1970年前後である。

それまで評価されなかった理由も、急に評価されはじめて白井神話ができるのも、理由は同じであり、ひとつしかない。それは日本の建築批評がいわゆる「モダニズム」にもとづくものしかなかったからである。

白井は京都工業繊維大学の前身校で教育をうけたとはいえ、その建築家としての本質はほとんど独学で構築したようなものであり、そこには近代建築運動のドグマははいってきていない。しかしヨーロッパ留学中の経験と学習によるものがコアとなっている。そういう事情で、彼の建築は近代建築のドグマからは解釈できないのでそもそも批評の対象にならないので、人びとは気がつかなかった。ぎゃくに、近代批判がなされた1968年ころから、近代建築理論に依拠しないでさまざまな魅力に満ちた建築を創作する建築家として評価されようになる。

つまり無視も、評価も、神話も、もっぱら評価する側の事情(都合?)によるものである。

問題は、もし白井が近代パラダイムとは無縁なことに意義のある建築家であるとしたら、評価する側もまた近代建築とは無縁な評価パラダイムを所有するか、あるいはそれに近いものを組み立てなければならないのではないか、ということである。では、それはどのようにして可能なのであろうか。この問題はすこし時間をかけて考えたい。

そのほか気がついたことは、当たり前だが、白井晟一はいわゆる建築界にたいして徹底して孤高の人であったということである。孤独である。しかしそれは反転し、カタログの用語をつかうと「全体」に到達する。ぼく自身はむしろ「普遍」とか「神的なもの」ではないかと思うのだが。いずれにせよ「孤独の反転」という現象を記述するのがひとつの鍵であるようにおもう。つまり20世紀の近代建築であれ、21世紀のネット社会建築であれ、世界や社会から発せられるミッションをしっかりキャッチし、反応しているという点で、まったく同相であるし、後者は前者の正統な後継者である。だから個別のアプローチはしっかりと全体なり普遍につながっている。ただよくもわるくもそこには反転はない。個人的興味にすぎないが、そういう白井晟一的な「反転」はいかに可能だろうか、ということである。

個人的に彼の建築のなかで惹かれるのは「窓」である。別のひとなら、ロマネスク的であるとか、光と影の効果などというであろう。しかし彼の「窓」は、個人の意識や指向性が、方向づけられ、なにかに向かい、さらに別の広がりに参加してゆくような、そういう構図を象徴しているようにも思える。

さてそろそろティーブレイクである。家事もすこしはするし。さらに18時からは研究室OB+友人たちがきてワインでも飲むことになっている。よい日曜日になりそうである。

|

« 『アーキテクチャとクラウド』 | トップページ | お別れの会のこと »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/37470341

この記事へのトラックバック一覧です: 『白井晟一 精神と空間』:

« 『アーキテクチャとクラウド』 | トップページ | お別れの会のこと »