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2010.10.14

美術全集について

昨日は事務所訪問デーであった。

まず表参道の建築設計事務所を訪問。難波和彦先生にご報告。鵜飼先生を中心に福岡が盛り上がっているということなど。それからJABEE-UIAを含め、これからの建築設計界の動向などを教えてもらった。就職戦線も刻々と変化しているようだ。注意しないと気がつかないが、しかし確実に秒針も長針も短針も進んでいるというような印象であった。設計教育国際会議の記録本もいただいた。ありがとうございます。

それから代々木公園にあるデザイン事務所を訪問。前田麻名さんに、これからの美術全集のありかたなどを教えてもらった。

これは20年近くもまえにすこし執筆を担当させていただいた西洋美術大全集をデジタル版としてどう復活させるか、というような企画である。20年前、編集者が「紙媒体の美術全集はこれが最後ですね、つぎはレーザーディスクでしょうね」といっていたのが強く印象にのこっていた。もちろんいまやレーザーディスクも古くなってしまったが、デジタル化という点ではそのとおりになったわけである。

そこであらためて「全集」なるパッケージのありかたを考えてみた。もちろん古くさくなってしまった。いまではWEB上の美術サイトでは古今東西の名画が一瞬で検索できて鑑賞もできる。レゾリューションがいいと、カラープリントして名画で壁を飾ることも容易である。無数の美術作品からなる大海は、ランダムアクセスがむしろふさわしく、体系にこだわらなくても、いかようにも分節化され、嗜好の対象となりうる。

そんななかで「全集」とはひとつのパッケージ哲学の表明として、一種のメタアートとして位置づけられるであろう。もちろん本家のアメリカやヨーロッパと比して、日本はそもそも西洋美術のコレクションがすくないのだから、美術館やギャラリーは主流にはなれないから、それを補う意味で全集が必要となっている。つまり近代における西洋美術は本質的にメディア化された美術であった。考えてもみれば即物的なまでに当たり前のことなのだけれど。

だから「全集」とはいっても、選集なのである。しっかりした監修者が、執筆者と作品を厳選し、それで20数巻からなるひとつの体系を構築するのである。するとある時期の日本の、西洋美術理解をかなり反映したものになる。それ自体がひとつの作品と思ってもいいわけである。

もちろんヨーロッパではまた別の方向性があるようにみうけられる。専門ではないので断片的なことに気がついたまでだが、最近ではテーマ別の横断型の解説書がよくみられる。たとえばHazan社のものは西洋絵画にえがかれたさまざまな対象、たとえば聖人、食物・料理、王、権力の象徴、などごとに一巻を用意して、時代やスタイルをこえて、さまざまに解説してゆく。ある意味、絵画を情報に分解して、素人がとりあえず知的に理解できるようにする。ひとつのタブローからいくつも引き出し線がかかれ、たとえばこのハトはこれこれの象徴であり、などと解説される。そんな感じで1巻数百頁で10巻以上のシリーズとなる。その情報の厚みにも驚くのであるが、逆に、アートの情報化とはそのグローバル化、そしてある意味で大衆化でもある、というようなことに気がつく。絵画に描かれる対象は時代がかわっても、基本的にはおなじである。静物ならパン、果実、グラス、瓶、果物。肖像。聖人。風景。神話。・・・・すると辞書のなかで、単語の意味を箇条書きにし、その用例を紹介するように、時代と地域とスタイルを横断して絵画要素が解説されるのである。それがほんとうに美術の理解かどうかはさておき、ちがう流れがあちらにあることをうかがわせる。

ちなみに「飲食」巻をランダムに開くと、アレサンドロ・アロリがキリスを描いた作品において「卵は再生のシンボルかもしれない」とか「ブドウはテーブルに出された植物を意味するのみならず、ワインと関連し、さらにはキリストの血と受難にも言及している」などとある。ブリューゲルが大食漢をえがいた作品では、「卵は、殻からひよこの足がでており、3人の大食漢のどん欲さをひょうきんにえがいている。卵にはナイフがささっているが、彼らがどんよくに最後まで食べようとしたことを示している。孵化寸前のこの卵はたいへん古いものである」などとも解説がある(たまたま常識的な解説であったが)。卵づくしもおもしろいかな?ただ情報化も細部にいきすぎると面白くなくなる。そうではなく人類が自然界を描く集団表象は、結局のところ、どんなもんであるか、などと誰かが論じてくれると面白いのであろう。

教えてもらったなかでとくに面白かったのが、日本の色彩教育はなっていないというようなことで、初等あるいは中等教育レベルのことだと想像したが、美術教育のための色彩パレットというかいくつかの標準色というものがある時期に選択されたが、それは子供に創造性を与えるようなものではないにもかかわらず、今日にまで再検討されず採用されているというようなことだ。家政学における計量カップ、計量スプーンのことを思い出したりもした。ル・コルビュジエも色彩パレットを考案していたし。近代において、いろにろなことが標準化され、スタンダードが決められた。近代批判なるものが根底的になされたようで、じつはそういうものは頑固に残っているということのようである。

世田谷には個人美術館が多いとか、岡本太郎の話とか、いろいろ勉強になった。シカゴの建築ツアーのことまでご存じで感銘を受けたものであったが、日本ではブラタモリですかねえというオヤジ的オチになってしまった(もちろん東京の建築ツアーなどは知ってますよ)。

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