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2010.10.24

今の学生は「広告代理店的」か?

今週もいろいろであった。

水曜日は午後、会議。建築教育をいかに発展させるかの学内会議。なにしろ伸びしろというか、発展形を提案しないと、リストラ圧力が外部からどんどんかかってくるので、新規の方向性を考えねばならない。そもそも日本の建築教育がいかに国際化するかの大方針がまだ決めていただいていない。地方大学としてはそれを無視して独自路線を走ることはできないので、様子見ももちろんある。しかし準備はしておかねばならない。こういう会議で、普段はあまり会わない学内のメンバーと意思疎通をはかっておくのも、重要な準備なのである。

水曜夜、会食。同僚の先生と3人で。設計教育について、首都圏の状況を把握しつつ、自分の大学の独自性をどう発揮してゆくか、などという点について意見交換。それから最近の若手建築家たちをどう思うかについても。現代日本建築を海外にアピールするような圧倒的に個性的なタレントの活躍も大切なのであるが、技術や社会などにどうしっかり立脚するかも大切であり、かつ、過度に情報化されつつある首都圏の状況にたいして、ぎゃくに地方の立場が有利であるという指摘もあった。twitterの支配力もすごらしい。おやじ空間とはまったく違うようである。アメリカの設計が極端にIT化することでかえって創造性を失ったのに、地道な模型製作スタディに固執した日本にこそ若い才能が開花していったように、そういう対比がこんどは首都圏/地方で繰り返されるのであろうか?ぼくたちは硬派ですね、というのが同僚との合意点。

木曜日はM論中間発表会。ひとりひとりのテーマは、修論なのであるし、コンパクトであるのは当然だ。しかし大きな枠組みのなかに適切に位置づけられる小テーマでなければならない。自分がとりあえず取り組む小テーマが、はるかにスケールの大きいテーマのどの部位にあるのか、というはっきりしたイメージをもっておく必要がある。しかしそういうことに気づいている学生は少なかったように思える。午後4時間ちかくをつかって13名の発表を聞く。どれもそこそこいいのだが、問題提起がないということにつきる。今では若い学生にとって、環境保全も、まちづくりも、伝統も、なにもかも、すでに規定のプログラムであり、自分の課題がそのフォーマットにのっていれば、普通に走っていけると思い込んでいる。疑いがない、というのが、聞いていて怖い。

金曜日は1年生向けの導入講義。金沢21世紀美術館と、上野の法隆寺宝物殿を比較して論じる。前者は、正面性がなく全方位的、ランダムアクセス、ヒエラルキーがない、市民参加的、などなど。後者は、強い正面性、1つのはっきりした経路にそったリニアなアクセス、強いヒエラルキー、国宝的、などなど。ついでに森山邸を紹介。さらにさらに高過案(土の建物)、ハノーバー万博日本館(紙の建築)、神奈川工科大学KAIT工房(鉄の建築)、プラダ青山(ガラスの建築)と、現代建築もいろいろですよ~と紹介。

金曜夜はぼくンちで研究室コンパ+交換留学生歓迎コンパ。フランス人4名、アメリカ人1名、日本人12名?の総勢17名?で、夜11時までワインをいただく。3カ国語でなんだかんだ語りつづける。2年前に交換留学でアメリカからきていたジミーくんも旅行がてらきていた。長年の経験で、こういうアットホームな場所に案内すると外国時留学生はちゃんとなついてくれていろいろ楽であることを知っている。忙しかったりして交換会がないと、どうも教員と留学生は疎遠になる。飲み会は重要である。

これも毎度のことながら異文化理解、外国理解はどういうことか、ということ。日本人はどちらかというと心を理解しようとし、定性的な指標をたてる。ヨーロッパやアメリカからの留学生は、むしろ定量的、データ的であり、失業率はなん%、女性の平均収入は男性のなん%、などなど、まずはっきりした指標からはいる。最終的にどうとはいえないが、日本人がまず外国を理解しようとするしかたは、ずいぶん迂回的であり、思索的であり、まどろっこしいような気がする。というか、さすがに外国を見習ったほうがいい。

建築プロジェクトにおきかえると、ぼくは課題で、ある地方都市は20年前は1世帯6人であったが、今は1世帯2人であった、これは重要な指標である、と何度も強調するのである。しかし学生たちはまったく反応しない。こうしたはっきりした指標をもとにして、建築や都市のプロジェクトを提案しようとする学生は皆無である。むしろ学生は、やさしい、ふれあい、コミュニティ、創造的、などというキャッチがないと思考を組み立てられない。

かつての学生は「職人的」か「文化人的」であったように思う。それがよかったわけではない。しかし今の学生はつくづく「広告代理店的」である。明確ではっきりした指標というより、そつなく企画をつくって一丁上がりという感じである。教師はむしろアナクロニックにこれを矯正してバランスをとるべき立場であろう。

こうした思考法は、設計だけではなく、卒論や修論にまではいってきている。

さて当然のことながら、世代が違うのだからアプローチが違って当然であるし、こうした傾向は変えようもない与件なのであるが、そこで自分はどのように立ちふるまうかを考えると、小説家的にそうするのであろうか。やや唐突な結論だが、100手先を読んでいるつもりでそんなことを考えるのである。

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