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2010.09.08

「議論」はなりたつか?

最近、某雑誌から建築の「論争」についての原稿を依頼された。

建築論争。いろいろある。19世紀のゴシックかクラシックかという様式論争。ラスキン対ヴィオレ=ル=デュクの保存論争。ムテジウスとヴァン・ド・ヴェルドの標準化論争。シカゴトリビューン社社屋をめぐる論争。斜めの線が許されるかどうかというオランダのデステイルの論争。日本では、議院建築の様式、これからの日本の様式、合理主義か帝冠様式かの論争、戦後の伝統論争などなどである。

もちろんこれは危機感の反映である。ここ20~30年、建築を盛り上げるような論争はない。ここまではだれでも同意するであろう。問題は、現代がそういう時代なのか?建築がそういうものに変質したのか?建築だけではなく思想や哲学がそうなのか?そして私たちは論争をもう放棄してよいのか?

これがたんなる歴史的課題ではなく、まさにぼくが取り囲まれた生の問題であることを、先日、感じ入るにいたった。経緯を書こう。

1994年ころから地元で「学生デザイン・レビュー」(DR)という学生の設計課題をネタにして、建築の議論をしようということが始まった。地方にはメディアも論壇もないので、地方の建築家たちは議論に飢えていたのであった。これは成功し、現在も続いている。数えることもできなくなったが16年は続いているのではないか。

2003年から仙台にも飛び火して「卒計日本一」がはじまり、企画そのものが日本一の卒計展となった。ただこれはグランプリ主義、つまり一等を選ぶことを最終目的としており、もちろんプロセスにおいて議論はあるだろうが、DRとはまったく発想がちがう。

ところが仙台の大成功がこんどはデファクトスタンダードになっていて、DRもグランプリ主義になりつつある。とくに今年のものはそう感じた。だれが一番か、に関心が集中してしまっている。

個別のテーマを普遍化し、クリエイティブな議論をしましょう、というようなことを建築関係者の飲み会で話した。ところがぼくはまったく浮いてしまい、年寄りの戯言をいってしまった者の気分になってしまった。

たしかし現代において議論しましょうとかましてや論争などということはダサすぎる。これはtwitterに象徴的に示される。twitterでは論争はできない。基本的にそれは、仲良しグループの絆をさらに暖めるためのものである。twitterが支配している時代では、若い世代はもはや議論をしようとか論争をしようとか考えないのである。

だから合同卒計展なるものも一線から身を引かなければならない気分になってきている。しかし去る前によき思い出を書いておこう。

16年前、ひとつひとつが違う学生プロジェクトを合同で評して、ほんとうに議論がかみ合うかという心配があった。しかしこれは杞憂であった。ちがう課題であってもなんらかの共通の基盤はかならず見つかるし、かみ合う議論はできるのであった。さらにいえばエントリーした100以上の全部違うプロジェクトを一日がかりで観察し議論しているうちに、個々のものを超越して、学生たちが総力を結集してとりくんでいる時代の課題というものが、もちろんメタレベルであるが、見えてくる。なにか限界を突破して俯瞰的な視点がとつぜん確保される瞬間が訪れるのである。

ぼくの個人的な体験でいうと、この種のハイな体験はジュリイに伊東豊雄さんがいるときにはかならず起こった。たとえば「都市の見えないエッジ」という共通テーマが、論じているうちに、事後的に、きゅうに浮上してきた、という体験をした。それだけでなく、今年はどうもレベルが低いからなんとかしよう、ということをお昼休みに話しているとき、ぼくは「トーナメントにしましょう」などと突然発想がわいて提案したりしたのも、伊東さんがいたときであった。ちなみに全国の卒計展でしばしばなされる「トーナメント」制は、ぼくが発案者なのである(エッヘン)。伊東さんは、やさしい言葉でとても普遍的な議論をし、そのことでまわりにとてつもないパワーを与える類稀な建築家であると思う。そこも傑出していると思う。ま、これもすでに美しい思い出である。

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