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2010.09.10

グランプリ主義?

昨晩、知人と(いまどき古風にも)電話ではなしていて、卒計展の話題にもなった。

もちろん「議論すること」を中心にすえた15年前の合同卒計展DRは古いのであって、一等を選ぶことを最終目標とする仙台のいさぎよさがいまどきである。福岡も仙台も結局のことろ、後見人たちは友達同士なのだから、そのくらいは知っている。2003年前後はそういう意味で、小さな画期であったのであろう。

歴史的位置づけもしてみよう。

「グランプリ主義」という言葉が浮かんできた。建築設計教育では、17世紀末期にフランスで生まれ、19世紀のいわゆる「ボザール」教育のコアとなった。すなわち卒業設計を競い、一等賞がえればれ、それがグランプリ=大賞と呼ばれ、ご褒美に留学させてもらえる。カリキュラム内にいろいろ賞が用意されていて、卒計に関するものがいちばん重要なので「大賞」となるのである。

いまの合同卒計展において復活しているのが「グランプリ主義」である。

もちろん悪い意味で使っているのではない。それは変な勝利至上主義でもない。大賞の選定はながい激しい議論の末になされる。ただ「一等賞を選ぶこと」が最終目的、というシステムはかわらない。

そしてルネサンス以降の建築教育においてはこのグランプリ方式の時代こそが支配的であり一般的であった。しかしこの方式はひとにぎりのエリートを生むだけという批判もあって、水準以上のレベルに達した建築学生にたいして資格をあたえるという「プロフェッション」方式が19世紀半ばから整備されていった。また権威ある建築学校の価値観のみから判断されることを嫌って、直接社会にたいして信を問うというマニフェストや展覧会などをメディアとする「アヴァン=ギャルド」方式も20世紀初頭にさかんに採用された。

こういういろんな試行をへて現代日本のデファクトスタンダードは(そして学生がみずから求めているのが)このグランプリ方式である、というように整理されるであろう。

基本的にそれは個人の闘いである。しかし19世紀フランスにおいてアトリエ/スクールという二重構造のなかで大賞があらそわれたように、現代日本では大学をこえた表彰の場というように、二重構造があえて求められているというような整理もできよう。スクールにおける大賞選定は、アトリエにとっては外部のより普遍的な枠組みなのである。もっとも「外部評価」「格付け」といった難儀なトレンドとも同期していることは疑う余地がない。

もしグランプリ主義とでもよべるようなものが、現代の建築設計教育の基底にあるとしよう。それはなにを意味するか、は19世紀フランスとの比較であるていど判明しよう。いろいろあるとおもうが、すぐ思いつくのが、それほどまでに日本の大学の先生や建築家たちが権威をもっているということである。もちろん自分の真上の先生はいやだから斜め上の先生に見てもらう、などの魂胆はずっとあったが、それでも大学人・建築家にたいして与えられる権威の総量はかなり増加している。(幸いなことにかつてのボザールのようにどこかに権威が集中するわけではないが)。そしてグランプリ主義の背景には、一般的には、社会の良くも悪くも安定とか、そこそこの教育ノウハウや教育人材などの蓄積がある。そういう意味では19世紀と21世紀は似かよったものになるかもしれない。ときどきいっていることだけど。

福岡→仙台の流れでいうと、学生たちの嗜好もすっかりかわったようだし、そろそろ「dr」という看板も再考したほうがいいだろう。なにしろ「レビュー」とは論評するという意味なのであるが、そういうことを律儀になそうとすると、時代遅れだというようにそれこそ論評されるらしい。そもそも「トーナメント」制を考えたのがぼくだって論評主義でありかつ競争主義でもある。ならば「学生設計グランプリ」かな。まあ19世紀的ではあります。

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