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2010年9月の8件の記事

2010.09.29

メガネが戻ってきました

ほぼ2カ月前、ぼくの課題のジュリイがあった。松岡先生、頴原先生におこしいただいて、さらに鵜飼先生にとびいり参加していただいて、充実したジュリイになった。

ところがそこでぼくはメガネを置きっぱなしにしたままであった。なにしろ講評は集中しなければならない。無意識にメガネをつけたりはずしたりする。ぼくはどこかテーブルの上に置いたまま、つぎの作業に移ってしまっていた。

ないことに気がついたのは数日のちであった。なにしろぼくは数種類のメガネをもっていて、気分やTPOにあわせて変えている。パソコン専用、会議専用、などいろいろである。だからしばらく気がつかなかったのである。

なくなったことに気がついてから、過去の自分の行動経歴を整理整頓するのにかなり時間がかかった。2日ほどして、どうも、かのジュリイの時かな、そのあとの飲み会の時かな、と絞り込んでいった。製図室もあちこちさがした。かの飲み屋(ワインの立ち飲みバー)にも探しにいった。でもなかった。

ぼくはそれから後悔と自虐の日々をえんえんと過ごした。

そして2カ月がたった。

後学期まえということで、研究室大掃除をしていた。コーヒーブレークで学生たちと雑談していた。そのとき3年生があらわれて「これ先生のですよね?」といって研究室に届けてくれた。人生には降ってわいた災難もあれば、予期せぬ喜びもある。ぼくは、まるで受験勉強が終わったかのように、ほっと安堵したのであった。

ところが物語はここで終わらない。

かの学生はtwitterでその顛末を書いていたので、家人がそれを発見してしまい、ぼくがメガネをなくしていたことに気がついてしまったのであった。このメガネは、デザインがいいからという理由だけで買ったもので、ぼくにしてはとても高額なものである。ic! Berlinなのである。ヒンジもとても合理的でおもしろい。そんな思い入れたっぷりで、お願いして買ってもらったものなのである。それだけに、言い訳をえんえんとしたのであった。でも戻ってきたのだから、よかったのである。

だからぼくはtwitterが嫌いである(でもみつけてくれて、ありがとうね)。

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2010.09.21

残暑だから『序説』だのヴェネツィアだの・・・

いまごろだが、残暑お見舞い申し上げます。

ぼくもいちおう夏バテしていた。猛暑や熱帯夜というより、コーヒー飲みすぎが原因であった。前科は多いが懲りない。でも一日に十数杯も飲んではいけないなあ。寝れないし、疲れもとれない。

土・日・月は3連休であったので、家にこもって執筆に集中するつもりであった。PCのヴィデオボードが突然壊れて、ディスプレイが真っ黒になった。予備のPCをつかい、アマゾンで新しいVBを購入した。翌日着いたので、組み立てると、無事PCは稼働した。時間は損したがもとに戻った。なのでぼくのスクリーンセーバでは「windows7」ではなく「禁コーヒー」の文字がくるくる回りつづけている。

暑いので、とりとめもないことを思い出す。とぼとぼと道をあるいていると、またまた太田博太郎先生の『日本建築史序説』を思い出す。なんどか意見を述べる機会はあったのだが。ようするにこの文献では「美学」と「実証」が分離している。これは意図して分断したのだ。太田先生はこれら両者を架橋することなど徒労であるとおもっていたのだ。

なぜ架橋するのは徒労なのであろうか?

それは『序説』の「美学」的部分は、ようするに西洋的な美学なのであり、まったくの観念論であり、そうした論が日本人によって構築されたとしても、基本的にそれは西洋人の目からみたものである。

『序説』の「実証」的部分は、もちろん日本人的な観察なのであり、事実主義にすぎないという批判があるとはいえ、これなくして日本建築史は成立しない。

そして美学/実証という切断は、戦前の堀口捨己などにおいては克服されたかのごとくであった。でもそれは彼が茶室研究者にして建築家でもあったことによる。戦後、建築史家はよりプロパーな研究者となると、おおむね実証のほうにいってしまう。

ただ、おそらく、日本建築と呼ばれているものもじつは多様なのであろうし、多様で分散しかねないものにある種の枠組みをあたえるという役割を美学ははたしていた。これからはどうなるのであろう。美学に頓着しないで研究は進む。ある日気がつくと、美学と思えたものはじつはたんなる歴史的与件となっていた。そして今有効な美学は不在であることに気がつく・・・。

1937年のパリ万国博では坂倉順三の日本館がグランプリを受賞した。これは日本的美学の勝利であった。ただ美学の勝利はながくは続かないようでもある。

ヴェネツィア・ビエンナーレでもヴェルサイユでも日本勢が活躍していてたいへん結構なことである。ただ日本的スノビズム、社会性の不在といった批判もあるようではある。これもまた73年ぶりの、日本的美学の勝利なのであろう。

しかし上記の日本的理由から、美学における突出は、実証が置き去りにされることを意味している。ただまあ、もういちど融合しましょうとか、両立とか、矛盾の統一などといったことは、もちろん昨今の現状においてはすこしむなしいマッチョイズムなのではある。

イギリスの建築サイトでは、people meet in architectureというコンセプトはチームXを回想させる、といった批評が書かれていた。むこうはむこうで違う引き出しがあるようである。

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2010.09.14

安藤忠雄先生特別講義in大橋キャンパス

鵜飼先生プロデュースであった。学生を中心に300人はきていたように思う。

事前に挨拶をした。「最近書いてませんね」「はい、これからがんばります」と檄をもらう。

挨拶・紹介をまかされたぼくは「建築の力」について小話をした。

ついでに1970年代を思い出してみると、「住吉の長屋」がなぜ当時の人びとに、ついでにいえば大学3年生であったぼくに衝撃的であったかということ。部屋から部屋にゆくのにいちど傘をさすという挑発的プランニングとか、ミニマリズム的造形であるとかというだけではない。住宅をとおして都市に介入するときのある種の決意のかたさのようなもの、が衝撃的であった。安藤さん自身は当時それを「都市ゲリラ」というようないいかたをしていた。生身のひとりの人間がひとつの建物つくることで、それをとおして都市に介入しているのだ、ということの意味の大きさである。自分は公務員かな企業人かなと漠然とかんがえていた学生にとって、それはとても新鮮なことであった。

講演のそものは、人生とキャリアの紹介、世相や日本のこれから、作品解説の三位一体。インド洋上の甲板上の光景などが面白かった。

それとともに学生がどういうところで反応しているかが面白かった。ひとつは世間や大人の世界のほころびがみえるようなお話し。もうひとつはストレートに、設計する喜び、デザインする喜びが伝わってくるようなお話し。そういうのがうける。そういう意味では、教師としてのぼくたちの話し方は色気がないのは確かだとおもいつつ、でも学生たちはしごくまっとうなのである。

後援に付随していくつかの小イベント、最後は記念撮影で締めくくり。安藤さんは夜も後援会にご出席とのことであった。お疲れ様です。

建築史家のエクササイズとして、しかじかの建築家は後世、歴史叙述のなかにどのように位置づけられるか、とか、どのような建築家像として描けるか、などと問答することがある。安藤さんについてこのエクササイズをやろうとしたが、いまだにはっきりした結論は出していない。ただ20世紀前半は巨匠の実験の時代であるとすれば、安藤さんは成熟というフェーズに位置づけられることは確かであろう。彼が若手から中堅・巨匠になるにしたがって、安藤論を書く専門家が内外にあらわれた。それとパラレルに、安藤さん自身は、すこしずつ自分の作品について専門家的な建築論をプレゼンすることを少なくしているように感じられる。今日の学生への話しかたも、自邸の居間に案内して接待、というより、遠くにいる人に玄関をあけて手招きしているようなスタンスである。それでいいのだ、ということをかなり初期にわかったのであろう(と推察する)。しかし素人向きにしているようで、なるほど、このほうが建築と社会の関係がよりストレートに伝わってくるのも確かである。

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2010.09.10

グランプリ主義?

昨晩、知人と(いまどき古風にも)電話ではなしていて、卒計展の話題にもなった。

もちろん「議論すること」を中心にすえた15年前の合同卒計展DRは古いのであって、一等を選ぶことを最終目標とする仙台のいさぎよさがいまどきである。福岡も仙台も結局のことろ、後見人たちは友達同士なのだから、そのくらいは知っている。2003年前後はそういう意味で、小さな画期であったのであろう。

歴史的位置づけもしてみよう。

「グランプリ主義」という言葉が浮かんできた。建築設計教育では、17世紀末期にフランスで生まれ、19世紀のいわゆる「ボザール」教育のコアとなった。すなわち卒業設計を競い、一等賞がえればれ、それがグランプリ=大賞と呼ばれ、ご褒美に留学させてもらえる。カリキュラム内にいろいろ賞が用意されていて、卒計に関するものがいちばん重要なので「大賞」となるのである。

いまの合同卒計展において復活しているのが「グランプリ主義」である。

もちろん悪い意味で使っているのではない。それは変な勝利至上主義でもない。大賞の選定はながい激しい議論の末になされる。ただ「一等賞を選ぶこと」が最終目的、というシステムはかわらない。

そしてルネサンス以降の建築教育においてはこのグランプリ方式の時代こそが支配的であり一般的であった。しかしこの方式はひとにぎりのエリートを生むだけという批判もあって、水準以上のレベルに達した建築学生にたいして資格をあたえるという「プロフェッション」方式が19世紀半ばから整備されていった。また権威ある建築学校の価値観のみから判断されることを嫌って、直接社会にたいして信を問うというマニフェストや展覧会などをメディアとする「アヴァン=ギャルド」方式も20世紀初頭にさかんに採用された。

こういういろんな試行をへて現代日本のデファクトスタンダードは(そして学生がみずから求めているのが)このグランプリ方式である、というように整理されるであろう。

基本的にそれは個人の闘いである。しかし19世紀フランスにおいてアトリエ/スクールという二重構造のなかで大賞があらそわれたように、現代日本では大学をこえた表彰の場というように、二重構造があえて求められているというような整理もできよう。スクールにおける大賞選定は、アトリエにとっては外部のより普遍的な枠組みなのである。もっとも「外部評価」「格付け」といった難儀なトレンドとも同期していることは疑う余地がない。

もしグランプリ主義とでもよべるようなものが、現代の建築設計教育の基底にあるとしよう。それはなにを意味するか、は19世紀フランスとの比較であるていど判明しよう。いろいろあるとおもうが、すぐ思いつくのが、それほどまでに日本の大学の先生や建築家たちが権威をもっているということである。もちろん自分の真上の先生はいやだから斜め上の先生に見てもらう、などの魂胆はずっとあったが、それでも大学人・建築家にたいして与えられる権威の総量はかなり増加している。(幸いなことにかつてのボザールのようにどこかに権威が集中するわけではないが)。そしてグランプリ主義の背景には、一般的には、社会の良くも悪くも安定とか、そこそこの教育ノウハウや教育人材などの蓄積がある。そういう意味では19世紀と21世紀は似かよったものになるかもしれない。ときどきいっていることだけど。

福岡→仙台の流れでいうと、学生たちの嗜好もすっかりかわったようだし、そろそろ「dr」という看板も再考したほうがいいだろう。なにしろ「レビュー」とは論評するという意味なのであるが、そういうことを律儀になそうとすると、時代遅れだというようにそれこそ論評されるらしい。そもそも「トーナメント」制を考えたのがぼくだって論評主義でありかつ競争主義でもある。ならば「学生設計グランプリ」かな。まあ19世紀的ではあります。

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2010.09.08

「議論」はなりたつか?

最近、某雑誌から建築の「論争」についての原稿を依頼された。

建築論争。いろいろある。19世紀のゴシックかクラシックかという様式論争。ラスキン対ヴィオレ=ル=デュクの保存論争。ムテジウスとヴァン・ド・ヴェルドの標準化論争。シカゴトリビューン社社屋をめぐる論争。斜めの線が許されるかどうかというオランダのデステイルの論争。日本では、議院建築の様式、これからの日本の様式、合理主義か帝冠様式かの論争、戦後の伝統論争などなどである。

もちろんこれは危機感の反映である。ここ20~30年、建築を盛り上げるような論争はない。ここまではだれでも同意するであろう。問題は、現代がそういう時代なのか?建築がそういうものに変質したのか?建築だけではなく思想や哲学がそうなのか?そして私たちは論争をもう放棄してよいのか?

これがたんなる歴史的課題ではなく、まさにぼくが取り囲まれた生の問題であることを、先日、感じ入るにいたった。経緯を書こう。

1994年ころから地元で「学生デザイン・レビュー」(DR)という学生の設計課題をネタにして、建築の議論をしようということが始まった。地方にはメディアも論壇もないので、地方の建築家たちは議論に飢えていたのであった。これは成功し、現在も続いている。数えることもできなくなったが16年は続いているのではないか。

2003年から仙台にも飛び火して「卒計日本一」がはじまり、企画そのものが日本一の卒計展となった。ただこれはグランプリ主義、つまり一等を選ぶことを最終目的としており、もちろんプロセスにおいて議論はあるだろうが、DRとはまったく発想がちがう。

ところが仙台の大成功がこんどはデファクトスタンダードになっていて、DRもグランプリ主義になりつつある。とくに今年のものはそう感じた。だれが一番か、に関心が集中してしまっている。

個別のテーマを普遍化し、クリエイティブな議論をしましょう、というようなことを建築関係者の飲み会で話した。ところがぼくはまったく浮いてしまい、年寄りの戯言をいってしまった者の気分になってしまった。

たしかし現代において議論しましょうとかましてや論争などということはダサすぎる。これはtwitterに象徴的に示される。twitterでは論争はできない。基本的にそれは、仲良しグループの絆をさらに暖めるためのものである。twitterが支配している時代では、若い世代はもはや議論をしようとか論争をしようとか考えないのである。

だから合同卒計展なるものも一線から身を引かなければならない気分になってきている。しかし去る前によき思い出を書いておこう。

16年前、ひとつひとつが違う学生プロジェクトを合同で評して、ほんとうに議論がかみ合うかという心配があった。しかしこれは杞憂であった。ちがう課題であってもなんらかの共通の基盤はかならず見つかるし、かみ合う議論はできるのであった。さらにいえばエントリーした100以上の全部違うプロジェクトを一日がかりで観察し議論しているうちに、個々のものを超越して、学生たちが総力を結集してとりくんでいる時代の課題というものが、もちろんメタレベルであるが、見えてくる。なにか限界を突破して俯瞰的な視点がとつぜん確保される瞬間が訪れるのである。

ぼくの個人的な体験でいうと、この種のハイな体験はジュリイに伊東豊雄さんがいるときにはかならず起こった。たとえば「都市の見えないエッジ」という共通テーマが、論じているうちに、事後的に、きゅうに浮上してきた、という体験をした。それだけでなく、今年はどうもレベルが低いからなんとかしよう、ということをお昼休みに話しているとき、ぼくは「トーナメントにしましょう」などと突然発想がわいて提案したりしたのも、伊東さんがいたときであった。ちなみに全国の卒計展でしばしばなされる「トーナメント」制は、ぼくが発案者なのである(エッヘン)。伊東さんは、やさしい言葉でとても普遍的な議論をし、そのことでまわりにとてつもないパワーを与える類稀な建築家であると思う。そこも傑出していると思う。ま、これもすでに美しい思い出である。

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新建築創刊1000号

図書館にあったのでちらちらながめた。

創刊85周年でもあり、1925年創刊である。

1925年という年は重要である。かつてこのブログで指摘したが、1920年代と30年代こそ近代化の時期といえると思うからである。つまりRCの普及、建築の科学化、都市計画法や市街地建築物法(建築基準法)、それから教育体系の普遍化といった指標で考えると、まさにこの時期である。そして学会の建築雑誌は別にして、「新建築」などの雑誌メディアが登場することも重要な指標である。創刊1000号の歴史的意味のひとつである。

だれも相手にしてくれない議論だが、ようするに明治維新前後の時期は、政治的・国際関係的に意味をもつのであって、世界建築史のなかではとくに画期ではない。だからそれをそのまま日本建築史上の切れ目とすると、世界建築史との折り合いがつかなくなる。(国ごとに事情はちがうからしかたないが)。

だから1860年代以降は西洋化、1920年代以降は近代化とするとすっきりする。つまり西洋化と近代化をわけて考えるのである。

ところが日本の建築史では、1860年代以降のあるものを近代建築(モダンアーキテクチュア)と呼ぶことが定式化しているため、1920年代以降のものをあらためて「モダニズム」建築とすることで、区別しなければならなくなってしまった。

いろいろ事情があることはわかりますが、日本では「モダン」は二階建てである、ということです。二階建てということでダジャレすると、1925年創刊の新建築はその2階への階段かハシゴ、ということになる。

さて「新建築」誌ではオンライン書店を経由して、電子書籍を販売し始めるという。PCでも読めるし、iPadを利用して電車のなかでも読める。

さて紙/電子のパラレル関係はいつまでつづくのであろうか。最初は紙がオリジナルで、電子はそのダブル、といった感じで読者は読むはずである。しかし電子版は、資源や在庫管理や返本などのことがないし、コンテンツもつめこみやすい。だから理念だけではなく、市場原理によって、電子が紙を凌駕し、電子版のほうがオリジナルで、紙版はある特殊な用途向け、などといった逆転現象はあらわれてくるであろう。いつごろ、どのように、について興味がわく。

ところで「書籍」という形式はなくならないだろうし、なくなってはこまると思う。つまり書籍は、編集であり、審査であり、どちらも蓄積されたノウハウがいる。つまり建築家の業績算定装置でもあって、アカデミーもその点ではかなりお世話になっているからである。建築雑誌は情報フローのほかに、情報アーカイブと作品審査機構というふたつの重要な機能をもっているといえるからである。

歴史的には「紙の85年」といういいかたができる。そのあと「電子の200年」なんかがあったら、ちがったふうに見えるかもしれない。

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2010.09.04

新しい博多駅ビルにちなんで

先日、酒の席でくだらないことをしゃべったら、誰も相手にしなかったのでグズグズ書いてみる。

駅である。

というのは九州新幹線が全面開通まぢかである。駅ビルも遠目にはできている(内装はしらない)。ハンキュウとトウキュウが両雄並び立つというすごいことになっている。

もちろんぼくはてっちゃんでもなく、鉄雄くんでもないので、間違っていたらごめんなさい。

明治のはじめ、はじめて鉄道が建設されたころ、英語の"station"からそのままステーションと呼ばれたり、それから停車場とも呼ばれた。それからすこしたって「駅」という言葉が定着していった。

通説では「駅」は、江戸時代の宿駅制度からきていることになっている。ところがそもそもの起源は、中国で律令制度ができて官道が整備されたことによる。馬で移動するのだが、その馬の休息所、乗り換え所であった。日本でも律令制度ができたころ、この駅制度も導入された、と文献には書いてある。

これもまあ普請、造家、建築というターミノロジーと同じようなのかもしれない。つまり近代化によって西洋文明を導入するとき、単純に洋→和とするのではなく、洋→漢とし、それから漢→和とするのである。これなども専門家がいろいろいっていることである。要は日本における言葉の普遍化手続きのようなものであろう。

それはそうなのだが、建築の興味からすると、駅舎である。建築てっちゃんという造語はないが、しかし駅舎についてはモノグラフもけっこうあるし、建築史のたちばから専門的に研究もされている(もちろん建設主体は別種のまさに専門的な研究をしているわけだが)。

で、そうした研究では、ターミナル駅か通過駅か、ホームと駅舎が平行なのか垂直なのか、いくつかタイポロジーも提案されている。

しかしぼく的にはもっとシンプルに考えて「駅舎らしい駅舎」と「駅舎らしくない駅舎」にわかれるとおもう。過去2世紀の多くの建築事例のなかで自然に定まってきた流れである。

「駅舎らしい駅舎」。これはかなり偏見だが、ヨーロッパや中国ではいまでも駅をひとつのモニュメントとして建設しようという意識が残っているように思える。たとえばユーラリール駅。かなりチープな材を使いながらも駅らしさを表そうとしている。上海駅もそう。古い話ではNYのセントラル駅。東京駅は日本での典型。内藤さんは駅舎らしい駅舎を意識してがんばってつくっている現代の建築家である。

「駅舎らしくない駅舎」。小林一三の発明かどうかぼく自身は確認していないが、日本風ターミナル駅というか駅ビルは日本的といっていいかもしれない。日本の駅舎はほとんどがこの類型にはいるであろう。

今ではどうか知らないが、10年前パリの建築学校に遊びに行って、むこうの設計演習のお手伝いをしたとき、駅と一体となったおおきな商業ビルがあり、そこにデパートやら高級ブティックやレストラン街やらいろいろつまっていて・・・というようなことがむこうの学生たちはどうも理解できない。というか理解しようとしない心理的逆バネが働いているようであった。

べつの視点からいうと「駅舎らしい駅舎」はアーキテクト的、「駅舎らしくない駅舎」はデベロッパー的、といえる。

そろそろ完成する駅ビルがどちらかは、すでにみなさんご存じである。歴史家的には「九州は福岡へ一極集中」という1970年代からの既定路線がいよいよ完成するのであるから、それなりに注視すべきなのかもしれないし、それなりの感慨があるかもしれない。大学コンソーシアム、建築コミュニティの再構築なども、やる気があればできるであろう。そのときぼくたちは、古代駅伝制の馬のように、そこで水分補給し、エサを食らい、ついでに買い物をしたり仕事をしたりするのであろう。

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2010.09.03

スローな建築ガイドツアーにしてくれ

地元企画の反省会が昨晩あった。お酒を飲んでいると、いろいろ昔を思い出した。

オープン・ハウス的なものは最近だが、類例の幅を広げるといろいろ昔からある。

パリに留学していたころ、旅行代理店の企画する日帰りバスツアーの広告をよく目にした。ロワール川古城巡りとか、今なら文化遺産ツアーなどというのであろうか。

それとはべつに学生福利厚生機構のようなものが企画する、教育目的をかねたツアーもいろいろあった。お金がなかったぼくは、古城巡りに参加したことがある。なかには現代建築ツアーもあって、ボフィールの集合住宅ツアーにも参加したことがあった。解説者はけっこう物知りな人であって、ボランティア的であったかもしれないが、けっして素人ではなかったと思う。参加者のなかには高校生のグループもいて、彼らははしゃぐはしゃぐ。・・・遠い、昔話である。

ロンドンやパリでは「文化遺産の日」に悉皆的なオープンハウスをやっている。9月の第二週か第三週あたりであるから、もうすぐだ。残念ながら今年は行けませんが。これまでに2回ほど遭遇したことがあるが、町中がハイテンションで、狂おしいほどの雰囲気であったことが印象的であった。大統領官邸まで公開された年があったと記憶している。長蛇の列ができていたのであっさりあきらめたのであった。

いつだったか忘れたが、ギーズ市にアンドレ・ゴダンが建設した労働者集合住宅ファミリエステールも見に行ったさいも、施設のほとんどは公営住宅であるが、1~2ユニットが公開されていて、ガイドツアーが企画されている。それにも参加したことがあった。建設当初の逸話もきくことができて面白かった。近代化の常で、工場労働者はもともとは農民である。彼らは近代的な集合住宅に移り住んでも、鶏や豚など家畜といっしょに住むことをなかなかやめなかったそうである。

ちょうど10年前、アメリカを観光旅行した。どこにいってもすでに、建築見学にはボランティア解説員のいる見学ツアーというものが定式化していた。ボランティア活動の活発さ、マニュアル的、システマティック、云々でとてもアメリカ的だなあと思った。

シカゴ建築協会が企画する見学ツアーにも参加し、オークパークのロビー邸もみた。元高校教師といったかんじの女性がなにかとても説教口調で解説していた。でも自由時間はたっぷりとってくれて、いろいろ見れた。

ピッツバーグから車で落水邸をみにいった。見学センターのようなものができていて、そこからデッキで落水邸にゆく。ガイドがひとり、見学者が10名ほどであった。ぼくたちのグループのガイドは、女子学生であった。彼女はいかにも暗記したマニュアルを発声するという感じで、やや機械的に、朗々と、でもとても真摯に説明した。見学者の老女性が声をかけていた。あなたどこから来たの?テキサス?大学が夏休みなのですきなフランク・ロイド・ライトの建築解説のボランティアをやっているの?えらいわねえ。・・・ぼくはライトの建築よりも、こういうボランティアのあり方のほうがよっぽど関心がわいた。なにしろ落水邸そのものは、一目見てああ観光地だ、と思ってしまったものだから・・・。

ラホヤのソーク研究所は、LAから車で3時間ほど南下して見に行った。ここも見学ガイドツアーがあったので、申し込んで見に行った。さすがに参加者は少なく、5名ていどの小グループであった。やはりボランティア解説者がとてもよく勉強していて、いろんなことを解説してくれた。設備フロアと一般フロアが交互にあることもよくわかったし、ツアーならではで、その設備フロアもきっちりのぞけたことはよかった。でもぼくはRC壁の目地ですが、普通ならひっこんでいるのに、なぜでているのですか、などとつい質問してしまい、あとでさすがに大人げないなあと反省したものであった。

こういう建築見学ツアーはやりかたはいろいろであろう。営利なのか教育なのか。公的機構なのかNPOなのか。解説者は専門家なのかボランティアなのか教育的配慮のもとでの学生なのか。

でも「建築」見学ツアーは基本的にはスローであるべきである。建築はとても総合的で多面的なものであるから、時間をかけて見るべきだし、反芻する時間も必要だ。だから1日1物件、2時間ほど、であろう。まあついでにもう一件、はありえるだろう。

ぼく自身はバックパッカー時代にイタリアの建築などを見学していたころ、午前4物件、午後6物件など一級品を見学してとても充実したのであるが、夕刻へろへろになるころには、その日午前中になにを見てどう感銘をうけたか、などすっかり忘れてしまっていたのであったから。

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