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2010年8月の3件の記事

2010.08.28

♪ヤミでも光でもなく

夏休み。

それは本質的にレトロスペクティヴなもの。すべては過去である。過去という海のなかで、「今」が難破船のように浮き沈みしている。それが夏休み。

♪君の優しさが 僕の胸の中で冷たく息をしている

という懐メロはたとえば40年前でもよかったのだろう。時空がねじれる。

世間では夏休みだから、ぼくもそうなのであろう。それは学生のころ立川のデパートで買った大きめのバッグ。トートでも、ショルダーでも、ピギーでも、ボストンでもない、不定形のもの。それに旅行に必要はいろんなグッズをつめこむ。そのうちバッグは、なにか人格を帯びてくる。なにしろ1週間の生活を成り立たせるものだから。でもバッグをひっくりかえしてバラバラにすれば輪郭はふたたびなくなる。

平戸。過疎化が進行している。ここ20年で人口が三分の一までおちんこんだとしよう。しかし驚くべきことに、世帯数はほとんど変わらない。1世帯あたりの家族数が、たとえば6人から2人になった。これは家族の崩壊であり、国内で普遍的な減少だ。しかし家族はほんとうに崩壊したのだろうか?家族は、東京や福岡に分散しているのだ。なにかの再構築という発想ではやっていけない。そしてこんな重要な与件に反応できない若者たち。

パリ。17世紀のフランス建築の文献を訳す。ずっとやっている。なにしろ30年前にBNからマイクロフィッシュを送ってもらった文献である。しかし取り組んでいるさなかは翻訳できないと思う。達観に達したいまだからこそ、訳せるのであろう。

WEB。暑いさなか、ボーとしてサーフしていると、某石井教授のスロトレにであう。これはよさそうである。

四国。気がつくと石材店のお兄さんと業界的な話しをしていた。埋葬は、仏式、神式、キリスト教式という大別はさほど実態ではなく、地方ごとの慣習がまったく違うのだという。だから西洋式の公園式墓地が成り立つところと、まったくなりたたないところがでてくる。「土に戻る」という解釈の違いが、儀式の違い、そして墓石の違いになってあらわれる。業者的安全策と、地元的因習との相乗作用で、個人的な発意などまったくなくなる。

地元。定期試験、入試試験、全国機構の某審査、学内機構の某審査・・・。歳になったので、役割として、人様を評価したり審査したりすることが続く。ぼくの八月はこうあるべきではないのだが。理性の狡知によって学習させられているのだろう。たしかに評価技術は向上するのではあるが。試験であったり、審査であったりするから当然だが、これらは徹底して匿名である。匿名の評価というのは、人間ではなく、神のごとき評価であり、もし評価基準が明示されなければほとんどご神託である。

iPad。まわりにもユーザーはすこしずつふえてきた。感想を一言。これは情報端末というより、購買端末、集金端末である。そのうち文化端末、宗教端末にもなったりするのであろう。その狂おしい世界もいちどは体験すべきなのではあろう。ネットワークはやがて自立し、神のごとき存在となるであろう。

そんなさなか、学生3名ほどにいろいろ相談をうける。理由はさまざま。しかし相談するということは、指針を求めているという点では同じである。若者は、当惑ということ、腑に落ちることの難しさ、を抱えている。マンツーマンで語っているぼくは、神ではなく生身の人間なのであって、ご神託はできない。アメリカのゴーストタウンの話しなどをする。日本という地主社会のことも。でも自分を決めかねるのは、世界の了解ができていないからなのである。よくもわるくも日本の現代社会は「世界の了解」がないことがスタートラインなのである。

自治体の人と、産業界の人と、ミーティング。ぼくは大学代表。最近の大学生が留学意欲をなくしていることを危機感をもって説明した。メディアで報道されている以上の風速を感じる。しかしどうも行政や産業の人たちは危機感がない。ぼくは日本の大学が国家主導でできた出自をもついじょう、文科省の政策もいたしかたないのかもしれない。でも自分たちが学生であったころの経験はまったく役立たない状況であるのも事実だ。今が今であるゆえんである。

暑い。意識はいまここに集中してくる。すると過去は薄くなると思いがちだが、なぜか、それに反比例して、過去が洪水のように押し寄せる。時間のバランスが崩れ、非対称となる。

♪きっと ぼくらの明日なんて ヤミでも光でもなく

八月というバッグ。詰まっていたものを、ひっくりかえして、フロアにばらまいてみる。

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2010.08.12

カーネギー美術館の「建築の間」

ピッツバーグについでである。

2000年夏にアメリカを観光したときによった。カーネギー美術館である。「ザ・カーネギー」と正式にはいうとおもう。展示はなかなか面白くて、アートもあれば、まるで本物のように挙動する恐竜の実物大モデルもあって、すごい迫力であった。

そこには「建築の間」もあった。

カーネギーさんはスコットランド出身で、アメリカに渡り、製鉄会社をおこして鉄鋼王となった。アメリカンドリームである。彼は富を墓場にまでもってゆくのは恥と考え、1901年から慈善事業を始めた。そのなかのひとつが美術館であった。そのなかの「建築の間」なのである。

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アメリカの産業都市ピッツバーグで、110年前に、こんなしゃれた建築ミュージアムができていたのですね。ぼくはアメリカのことなどたいして気にしていなかったから、けっこう驚いた。もちろんこれをみて偉大な建築家になった人を知っているのではないし、建築史の中では傍系に扱われるミュージアムである。でもけっこう、これはすごいことではないか?

つまり伊東忠太が世界旅行をするのが1902年から1905年までである。しかしそれ以前に、建築にはまったく素人なのに世界的視点から見ようとした人物がいたのである。

念のためにウィキペディア英語版でカーネギーさんのことを調べたら、いちおうパリのシャイオ宮にある中世建築コレクションも見ていたうようだし、ブリティッシュ・ミュージアムも見ていたらしい。とくに前者は、最近コレクションを大改編して近代建築もとりいれて、中世から近代までのフランス建築の特質を表現しているという建築帝国主義の権化のようなところであるし、その前身は1870年代ころにヴィオレ=ル=デュクが提案した建築ミュージアム構想とその部分的実現なのであった。

つまり19世紀においてすでに西洋では世界建築の見取り図ができあがりつつあったのであって、新興経済大国アメリカから見学に来たカーネギーさんはその啓蒙的価値を即座に理解して、自分の都市ピッツバーグにそのミニチュア版を実現したのであった。そしてちょうどそのころ、日本ではやっと、世界的枠組みとそのなかでの日本の位置づけを探求しようということが始まるわけである。この探求は、ある意味、猛スピードで達成される。ぼくたちの先輩たちが猛烈に優秀であったのと、それからOSはすでにできあがっていたからなのだ。

ぼくとしては、伊東忠太さんが日本的後進性のなかで奮闘していたことの大変さは理解するが、日本における建築史学の出自として理解するのはどうかな、と思う。別に輸入学問であってもいいのだ。オリジナルなものは、普遍的なOSの上にだって構築できるのだから。

というわけでちょうど10年前の夏、ピッツバーグのカーネギー美術館でこの建築コレクションをみたとき、いろんなことがどーでもよくなって、じつにさわやかな気分になったものであった。

日本建築なるものは想像の共同体のようなものである。それは「日本的なるもの」をコアにした美学的な構築物である。べつにいけなくはない。だって、そう意図して構築したのだから。

だから、前項の続きでいうと、それなりに盛り上がろうとしている日本の地方都市も、「意図して構築」しようと思えばわりと簡単に構築できそうなのである。

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2010.08.11

ポストモダン都市としてのピッツバーグ?

なぜピッツバーグか?話せば長いことながら・・・。

今年の夏もMAT Fukuokaという企画に動員されて、講演をした。MATは去年から始まった現代建築見学ツアーである。東京/福岡/海外で三元的に活躍している松岡さんが、シカゴの建築ツアーを参考にしたものである。ぼくも10年前にシカゴの建築ツアーで、ライトのロビー邸やなんかを見学したことがある。だから去年から全面協力である。

お題は「ポストモダン都市」である。ジェンクスの「ポストモダン建築」にちなんでいるのだが、現在ではむしろ思想界の言葉となってしまったものを、ふたたび建築の目で見てみよう。ぼくの理解では、いわゆる近代建築(モダンアーキテクチュア)の弊害が顕著になったので、それを乗り越えるべく提出された概念が、これである。しかも当初は、ポスト「モダンアーキテクチュア」(Post-Modern Architecture)であった。近代建築のあと、なのであった。それがしだいに、建築のみならず、社会、思想、文化の領域で一般化された。この一般化される過程で「近代建築」というひとつながりの概念が分断され、「近代/建築」となり、「近代」と「ポスト」が一緒になって「ポストモダン」概念が自律する。とともにいわゆる「モダン」にたいする「ポストモダン」が、ひとつの様式概念となって再登場する。

しかしこの「ポストモダン」概念たるや、建築へとブーメラン的に適用されると、19世紀的な様式概念とほとんど同じレベルのものとなる。つまり「ネオグレコ」や「ネオゴシック」とほとんど同じような「ポストモダン」。

ぼくの講演では独立概念となった「ポストモダン」を「都市」にくっつける。そしてピッツバーグを回想してみる。

ぼくは2000年夏にアメリカを観光旅行した。そのとににピッツバーグで4泊ぐらいした。とりあえずいろいろみた。

ぼくはそれまでこの都市といえばピッツバーグ・パイレーツしかしらなかった。しかしいろいろ面白いものを発見した。ここはもともと産業都市であった。カーネギーが鉄鋼王となり、USスチール社をつくった。ガラス産業、製鉄産業、食品産業もある。ハインツがそのお代表である。この都市はダイナミックな産業都市として発展したが、1940年代から公害に苦しんだ。1980年から産業構造を大転換させ、第二次産業から第三次産業の都市となって大成功した。現在では全米の住みたい都市ベスト10内にランキングされているという。

アメリカ的視点からみると、事態はきわめて単純明快である。第二次産業=モダン都市、第三次産業=ポストモダン都市、なのである。アメリカの建築をいろいろ見ながら考えると、ポストモダンは無理なく実在するし、アメリカの1980年代を考えるうえでは、ほんとうに本質的な言葉だと思う。1980年代というと、日本的目線からすると自動車に代表されるように過剰輸出にたいしてアメリカが怒っていた印象ばかりつよいが、それと平行して、アメリカでは産業構造の大転換をやっていた。それがポストモダンとして現れたのであった。

ダウンタウンの建築にそれを読み取ることは容易だ。フィリップ・ジョンソンのPPGプレイスである。PPGとはピッツバーグ板ガラス会社のことで、この建物はその本社ビルである。PPGは1980年代の構造転換のなかで、生産ラインは都市の外に大胆に移転しながら、ヘッドクオーター機能は残し、さらにPPGプレイスをいわばガラス産業の象徴的中心とする。すなわちこの建物は、ガラスで覆われた、ゴシック様式の、新社屋である。ガラスのゴシック大聖堂。機能よりも、ガラスというあられもない表出、ゴシックという過去の偉大な様式の復活。それがアメリカ建築モードを支配するジョンソンにより建設される。

アメリカというのはほんとうに直截な国である。前述のUSスチールは、鉄鋼のH鋼がむき出しになったデザインである。名前は忘れたがアルミ会社の本社ビルは、完全にアルミで外装された超高層である。そしてがらガラス会社はガラスで覆われる。その単純明快さは、とても空疎であり、あっけらかんとしており、ストレートであり、むなしささえ感じさせながら、でもある種の力をそこに感じざるをえないような、類のものである。

なので現在のピッツバーグの都市スケープは、ガラス、スチール、アルミなどという巨大産業が、その巨大な抜け殻を都市のなかに痕跡として残したような、そんな摩訶不思議な景観である(といってもオフィス機能はあるので完全なボイドではないが)。そういう意味で、ポストモダン都市なのである。

ピッツバーグと比較して福岡はどうか?ここは充実した産業都市であった時期はなく、歴史的にもともと貿易都市、交易都市なのであって、「産業=モダン」が欠落している。現在でも都市GDPの90%から95%は第三次産業が生んでいる。日本の大都市のなかでもこの数字はダントツらしい。だからここは「ポストモダン都市」であるべく宿命づけられている、といえる。

だから1980年代90年代福岡は、マイケル・グレイブス、アルド・ロッシ、シーザ・ペリ、ジョン・ジャーディ、はたまたレム・コールハース、ポルツァンパルク、マーク・マック、スティーヴン・ホールらが仕事をする場所となった。それを「外タレ」として意識の外に置いてしまうのも不毛なことである。

ということでいろいろ役者はそろっている。ぼくは地元の若い人びとが、本気で、本格的な地元の建築史・都市史を描くべきだと思っている。地元らしい建築があるはずだ、ではすまさせない。地域の文化的アイデンティティがあるとしても、それはどこかに本質が隠されていて、それを単純に発見すればいい、ということではない。そんなものはどこにも隠されていないし、存在しない。そうではなく、担おうとする人間が、意図して、ときには悪魔的に、戦略的に、継続的な意志と努力によって、作り上げてゆくものなのである。たとえば姉妹都市ボルドーは、人口規模からいえば福岡の三分の一しかないが、それでもボルドー都市史・建築史がしっかりえがかれているし、出版されている。そういうものである。

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