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2010.07.08

諸国民の富

必要があってジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』をひさしぶりに読み返していた。何十年ぶりかもしれない。学生のころの印象としては、無機的な近代都市計画にたいする批判のようなもので、いかにもデモクラシーの国アメリカらしいグラスルーツの発想のように思えたし、市民運動のバイブルのようなものであろうというような、感じであった。ところが今回、再読してみると印象が違う。理論よりも具体的な記述が中心で、むしろジェイコブズはほんとうに理想的都市像を心のなかにつよく描いていたという印象が優った。

それから翻訳が出版された当時はうかつにも見過ごしていたが『都市と諸国民の富 Cities and the Wealth of Nations』もざっと目をとおしてみた。邦訳のタイトルは「都市の経済学」となっていて、とくに悪い役ではないが、なんか気になった。

そこでWEBを検索していたりするうちにアダム・スミスの『国富論』にいきついた。これは「富」がどうやって生み出されるか、ということの書である。まず「労働」が富を生み出す。それまでは交易や貿易が生み出すと考えられたが、そうではない。それから「国家」が経済単位となる。おりしも国民国家の形成期なのであった。

ここで「国富論」とはまさに妙訳で、明治以来の富国強兵政策の残滓がつよく残っているのだが、正確には『諸国民の富』なのである。つまりthe Wealth of Nationsなのである。そうするとどういうことか。

ジェイコブズは『都市と諸国民の富』を書きながらアダム・スミスの『諸国民の富』に張り合っていたのであろう(とっくにだれかがどこかで指摘していたようなことなのであろうが)。

だからジェイコブズが反スミスとするとよく見えてくる。富の単位はもはや「国家」ではなく「都市」である。それから労働といっても、国家がしいる苦役ではなく、イタリアのフィレンツェやミラノといった創意工夫の中小企業があつまる都市における、創造的な活動である。

昨今はやりのリチャード・フロリダ流「クリエイティブ・シティ」論や「ナレッジ・リージョンズ」論にも、ジェイコブズの思想が流れていることはよく指摘されている。

するとこういうことであろう。

西洋ではアダム・スミスの『諸国民の富』いらい、人間の能産的な活動がもたらす「富」について問い続けてきたのではないか。スミスとジェイコブズの間に、サン=シモン、フーリエ、マルクス、ケインズなどを並べてみると、そう思いたくもなる。

そうすると「富」はすでに現世的な、いわゆる金銭などといったものではなく、そのさらに上位にある形而上学的なものなのであろう。最上位に「富」があり、そのことは自明であるようだ。それにいたる道筋を、国家だ、大量生産だ、創造企業だ、などとさまざまに論じてきた。だから今、「クリエイティブ・シティ」であり「ナレッジ・リージョンズ」なのであろう。

しかし日本的な視野のなかでは、これらは日替わりメニューのようにうつる。その上位に「富」があることには気づかないようである。しかし、西洋でいうこういう「富」は現世的なものではなくすでに宗教的なもののようでもある。

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