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2010.07.01

ぼくは建築の神さまを信じます

ドネルモ(donner le mot)という地元学生のネットワークがあって、そこから依頼されて講演をした。同僚の鵜飼先生とご一緒した。

お題は「ナレッジリージョンズ」である。都市計画が専門ではないぼくは、すこし距離をとって異分野的に解釈することとなる。

トフラーの『第三の波』的枠組みをつかい、農業革命、産業革命、「知識革命」(今回の造語)が都市をどのように変えていったか、を概説した。それぞれの革命がおこってから、現実の都市がそれに対応するには1世紀以上かかっている。たとえば産業革命は18世紀後半におこったが、では歴史概念として「産業革命」が確定するのはなんと20世紀初頭なのである。つまり1世紀以上たって、「ああ、あれは産業革命だったんだ」と遡及的に理解するのである。ちなみにトニー・ガルニエが『工業都市』プロジェクトを提案するのも20世紀初頭である。

情報化、脱産業社会化、第三次産業化というような流れはアメリカでは戦後すぐはっきりするし、日本でも1970年代には顕著になる。そして現在では日本のGDPのうち70%はサービス業が占め、製造業は20%でしかない。知識革命はすでに完了している。しかしそれに適合した都市の形態はまだ考案されていないのではないか。とはいえ、まだ形態が現実に追いついていないのは、なにも悪いことではなく、まだまだのびしろがあるということであって、ぼくたちの仕事はけっこうあるのではないか。

それから思想史的・都市論的に考えても面白い。

ようするにこんな流れを考えた。アダム・スミスが『諸国民の富』を書き、「富」は「労働」からうまれるという画期的な洞察をおこなった。富は、商業あるいは交換からではなく、労働あるいは製造から生まれるのである。ジェイン・ジェイコブズは1960年代に『アメリカ大都市の死と生』において近代都市計画を批判し、さらに『都市と諸国民の富』のなかでイタリア中規模都市において職人企業の創意あふれるアクティビティを賞賛するのだが、この議論は、近代都市計画は無機的だなどという単純な人間化論ではなく、スミスと比肩されるような、「富」の根源をとうようなものではないか。つまり富の源泉が労働であるにしても、それは創造的な労働なのである。

このあたりの議論がリチャード・フロリダに引き継がれて『創造的階級の勃興』となるし、アーティストや文化人たちをコアにすえたクリエイティブ・シティ論となる。

おなじような論考を、大学や研究機関や高度な研究をする企業などを中心にすえると「ナレッジ・リージョンズ」になるのである。理論そのものは知識経営学や、知識経済学、ナレジマネジメント論などとしてすでに経済学や経営学のなかでは確立されている。しかしそれを反映した、都市や地域空間をどのように考えていくかは、まだまだ定見がないといえるし、そこにのびしろがあると思われる。

感想としては、アダム・スミス/ジェイコブズ/フロリダという強引な系譜づけをしていると、そこには「富とはなにか」という、超越的なものへの問いかけが一貫してあるように思える。現実にある目前のプロジェクトは、具体的なことやら卑近なことやらいろいろ考えねばならない。しかしこの超越的レベルぬきにして都市は論じられないと思うのである。

ぼくは、Q大学Hキャンパスを仮想敷地にして、5分で書いたポンチ絵をぼく的プロジェクトとして紹介した。アートや高度研究機関などが混在している現代の城下町(鍛冶屋町、紺屋町、など専門町がぎっしりつまっているイメージ)を構想した。そのなかに「神社」をおいた。近世でも近代でも神社はコミュニティのコアであるし、なによりも、上記のように、人間の高度なアクティビティはつねになにか超越的なものとかかわっている。それを「神社」というようなかたちで具現化したのである。

ぼくには意外であったがオーディエンスとくに学生たちはこの「神社」にひときわ興味をもっていただいたようである。質問がそこに集まったし、二次会でも三次会でもえんえんと議論することとなった。

こんなことを考えて説明した。人と人のコミュニケーション。それは水平に、無媒介になされるのではない。人は、神を媒介として他者とコミュニケートするのである。アート、文学、建築、を論じあえるのは、上位の神がいるからである。アート、読書、建築、創作、論文執筆、なんでもいいが没頭してなにか新しいひらめきがおこるときは、神が降臨しているのである。ネット社会もそう。ブログに書き込めば、誰が読むかはもうわからないし、その情報は決して消えないし、いつだれがどのように判断するかは、それこそ神のみが知る。そう考えると、WEBに書き込むのは、神と交信しているようなものである。そう考えるとそこに倫理が必然的に発生する。WEB炎上は、まだまだ日本のネット社会がムラ的であることを物語っている(ていた)。

このあたりで、ふたまわりも歳がちがう若い世代と想定外の共感がうまれてしまった。そこで、東京ではないこの地方でなにをすべきか自問自答する若者たちにエールを送る。

自分たちを率直にありのまま表現すればよいのです。なぜなら若者といっても、すでに社会の一部であり、若者たちが日々感じていることは、そのまま社会の現実なのである。だからもっと自信をもとう。もちろん「そのまま表現」とはいっても、じつは手練手管やテクニックは必要ではある。しかしそれは経験者に聴けばよいくらいである。要は、自分を語れば社会を語ったことにある、くらいのプライドといい意味でエリート意識をもつことなのだ。東京のような素人の乱ではないが、それなりに等身大の主張をしてみる。しかし等身大であることによって、社会を忠実に反映し、そのことによって社会を動かしううるのである。

おじさんになってしまったぼくは、このように若い人びとにいじられて、すこし幸せであった。気がつくと、禁断であったはずの屋台ラーメンを食してしまっていた。だからこの点についてだけは懺悔するのである。・・・・建築の神様、メタボ料理を食べてしまったこの罪深いぼくをお許しください。

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