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2010.06.12

『村野藤吾研究』

第一号を送っていただきました。石田潤一郎先生ありがとうございます。

これは京都工芸繊維大学にある村野藤吾アーカイブ(図面など5万点あまりという)をベースにしたもので、すでに研究会組織が立ち上げられているし、展覧会も開催された。今度は刊行物である。

毎度のことながら建築力の差をかんじる。建築も文化として蓄積されることとなると、地域の建築力は歴史力でもある。地域の卓越した建築家がその地域で活躍する、その蓄積が遺産と成る。わかりやすい指標は建築学科の存在であって、明治から建築学科があった地域、戦前からの地域、戦後やっと建築学科ができた地域、では蓄積された遺産としての「建築力」はまるで違う。おそらく経済力の自乗か3乗くらい違うのではないだろうか。

自分の地域にある建築遺産を語ることで、普遍的に建築を語ることが可能になった地域は、建築文化においてテイクオフしている。それは東京と関西くらいであろう。地方が参加するのはおそらくもう50年か100年待たねばならない。

・・・などと、わかりきったことだが、羨望のまなざしでページをめくったものであった。

《日本聖公会大阪聖ヤコブ教会》(1931竣工)は、アンビルトではなく、未発表なのだそうだ。こういう新発見も多いらしい。

当初案では四角い塔のうえに十字架がある。これは広島の《世界平和記念聖堂》につながるデザインであることは明らかだ。

実現案ではこの塔はできていない。1937年以降の建材統制のゆえである。教会堂そのものは単廊式というか簡素なホールのような空間となっているが、内陣だけは教会らしく半円形平面のニッチのような形態である。そこ窓が3基穿たれていて、ロマネスクな気分をかもしだしている。

半円型にふくれたボリュームはそのまま外に露出されていて、教会であることを能弁に物語っている。

解説によれば、教会堂の施主は製銅会社の社長であり、この会社は戦争でたいそう金をもうけたという。その先代社長の遺志をうけついだものらしい。さらにこの施主は、戦中期における村野の数少ない施主のひとりであったという。

そしてつらつら考えてみるに、村野藤吾研究とは、なにが村野らしいかを知る探求というより、村野をフィルターとして時代を知るためのそれなのであろう。村野らしさとは媒体であるかもしれないが、逆にいえば、媒体であることが村野らしさなのではないか、といった。

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