« 阿部大輔『バルセロナ 旧市街の再生戦略』 | トップページ | ぼくは建築の神さまを信じます »

2010.06.29

毛利嘉孝『ストリートの思想』

夕方、時間があったので読んでみた。

時代のレビュー的解説としても読めて、80年代のニューアカ、バブル、90年代のカルチュラル・スタディーズ、00年代のマルティチュード論などと平明に解説している。

ぼく自身は90年代と00年代はひきこもり的生活を送っていたので、こういう現場の空気を伝えてくれる本は面白かった。

90年代のイギリスにおける大学の状況などはなかなか切迫感があって、大学の独立採算制や民営化などといった大ナタによって、一種の輸出産業としてカルチュラル・スタディーズがプロジェクト化された経緯や、留学生大募集作戦や、経営のために留学生からは高い学費をとるといった政策が紹介されている。

周知のとおりアメリカやオランダの大学なども、同じようなことをすでにやっている。日本だけが、G30というようなことをやろうとしている。高い学費をはらえばいたれりつくせりの大学教育を提供しましょうという国際教育サービスを展開する機会はすでに過ぎ去っているのではあるが、ほんとうにどうなのであろうか。外貨獲得という点はさておき、しっかりした教育コンテンツを提供できるかどうかである。

ストリート思想の表現として、90年代以降の「帝国」論、おもに首都圏におけるいのけん、だめ連、ブリコラージュ的アプローチ、素人の乱などが紹介されている。

ぼくの印象としては、著者自身の思想はこれら一連の出来事の構図のなかに描かれているようで、キーワードを抽出しようとするとけっこうすくない。しかしそのなかで「感情」とは違う「情動」(他者との接触や相互作用によって身体的に触発された感情の動き、p.182)や「愛」という言葉はキーワードであろう。

というのはフーリエの思想のなかに「情念」というやつがあるが、ぼくもそれと同じように理解できるのではないかと思ったことがある。つまり人間は他者にさまざまな情念を抱くのであるが、それが人間と人間の関係を、そして社会を構成するのである。つまり古い階級社会が崩壊し市民社会ができたと思えた19世紀に、新しい社会の構成原理が求められる。そのとき「情念」を鍵としようというわけである。

この書は80年代以降の状況をパノラマ的にみせながら、最後はフォーディズム的/ポスト・フォーディズム的という対比で括ろうとしている。ストリート思想の立役者はミュージシャンやアーティストたちなのであるが、いまや若い世代はポスト・フォーディズム的なミュージシャンにようなものになるべく宿命づけられている、という。さらに70年代に産業構造の変化があり、製造業からサービス業へと変化したのであって、文化産業が支配的になったこととパラレルである、という指摘があった。

この最後の指摘はいくぶん弱さを感じる。というのはクリエイティブ・シティやナレッジリージョンズといった最近の都市論も、第二次産業から第三次産業へという変化が都市をどうかえるかという視点にたったうえで、諸国民の富を問うているからである。文化産業を重要視する点も同じである。

「情動」に還元するような発想は、もっと展開を読んでみたいような気がする。アーティスト化という方向性は、保守的な支配的論考と同じようなことなので、どうかな、とも思う。いずれにせよ、19世紀のユートピアンたちを思い出すのであるが、19世紀の人びとだけでなく21世紀の人びとも、空想的なのではなく、具体的で切実なのである。

|

« 阿部大輔『バルセロナ 旧市街の再生戦略』 | トップページ | ぼくは建築の神さまを信じます »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/35572799

この記事へのトラックバック一覧です: 毛利嘉孝『ストリートの思想』:

« 阿部大輔『バルセロナ 旧市街の再生戦略』 | トップページ | ぼくは建築の神さまを信じます »