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2010.06.13

隈研吾+三浦展『三低主義』

面白くて当然の文献であって、そもそも読むのが遅すぎるのだが、読んだ。

戦後の消費社会のあとにくるものが三低主義(低リスク、低依存、低姿勢)とされ、こうした若者がこれからの社会の主役になってゆく段階で「かわいい都市」となる。そのあり方が語られる。レビュー的に、アメリカの持ち家政策、ニューアーバニズム、コンパクトシティなどが整理され、地方都市の疲弊、R企画、若者の旅行離れ、住宅政策のありかた、孤独死、郊外批判なども語られる。

ラドバーンやレッチワースの現状などが具体的に語られていて、一気に251ページまで読ませてしまうスピード感が印象的であった。おふたりの語りには、近代の古今東西の都市のありようをともかくも一望に把握しているというバランス感覚と、それらをあるテーマにそって迅速にスキャンするというスピード感に満ちている。その信頼感がスピードにつながっている。

読了のあと、金曜日のプロジェクト演習のことなどを思い出した。過疎化が進む人口数万人のある地方都市をサイトとして、そこをどうするかという課題である。その頭出しの集中講義ということで3コマもしゃべりにしゃべったばかりであった。

自分の演習課題とこの三低主義はまったく関係ないようなことだが、やっぱりひとつながりの大陸のどこかなのである。もちろん町並みが崩れつつある歴史的町並みをどうこうするということに、隈さんや三浦さんの知見はとても役に立つであろう。でも結局のところ、問題はなにか?というようなことを自問自答するとどのようなことになるか。

自分の演習課題について考えよう。「ランドスケープ」という切り口からアプローチするのであるが、昨今の景観をいかしたまちづくりとか、文化財遺産の活用、などはぼくはそれほど信じない。というか、日本における「課題の設定」そのものの産出メカニズムを信用していない。つまり高度経済成長の時代は、日本の都市の非近代性・非効率性が克服されるべきであった。そのあと伝統への回帰がさけばれた。そして現代では「景観」のなのもとに、ある意味で、地域のさまざまな潜在的なものがマルチスキャンにかけられ、自治体が報告書を書いている。

社会がこのようにたいへん明確な目標を設定しているいっぽうで、学生たち、しかもよく学習する優秀な学生ほど「なにを課題(問題)にしていいのでしょうか?」という迷いを見せる。ここで良い教育者は、この「迷い」を学生の未熟さゆえとせずに、それもある与件であって、なにか社会の本質を反映したメッセージだと解釈するのである。ぼくなりに拡大解釈すると、この学生の迷いは、たとえば首相が交代して内閣支持率がいっきに3倍になるが、しかし本質的なことはかわっていないのではないか、という状況に似ている。

ぼくはなにをいいたいのであろうか?

つまり景観重視という今の政策が、造りすぎて景観を破壊した時代への反省であっても、それこそ歴史的にレビューすると首相の交代のようなドタバタにみえはしないか、ということである。なるほど前政策の悪い点は批判して改めねばならない。しかしそれだけが現政策の意義だとするのは不十分であって、「それで?」という印象を若い世代はもってしまうのである。

カビがはえたような表現だが「人生いかに生きるべきか?」なんてゆう問いかけがあったとしよう。20世紀における庶民の経験によれば(当然のことだが)、持ち家政策も、消費社会も、この問題には答えようとしなかった。幻想を与えただけであった。いや本質論は回避すべきであるという確信犯的信念こそがまさに近代的なのである。だから伝統回帰、景観尊重、などといった政策もそうなのであろう。最終的な回答などというものはありえない。それは人間が神に到達することができないように、そうなのである。造りすぎ政策がダメだから今は景観なんですよ、などという説得そのものが限界を露呈している。

隈さんや三浦さんは、弱い個人であっても社会や都市のからくりをしっかりと把握すれば、個人が信条において破綻することがないのだよ、とアドバイスしてくれているのである。つまり俯瞰的意識のレベルに達することで、瞬間的には神の目線にちかづき、そのことで救済を得るのである。そして等身大の自分にもどる。自分自身からいちど離れて外部から自分自身を見て、ふたたび回帰するという、近代的な自意識でもある。

人生は長くなってしまったので、産業勃興サイクル(20年とされている)、学問パラダイムサイクル(やはり20年ほどか?)、政策交代、を何回も体験せざるをえなくなると、人生の根拠をその政策や学問や産業などにはおけなくなっているのである。学生たちは、無自覚のまま、それをはっきり見抜いているのである。だから当然のこと自分が産業や学問や政策にとりくむには、外部の根拠が必要である。「人生いかに生きるべきか?」という問いがとてつもなくドンキホーテ的に感じられるのは、そういうことである。

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