太田博太郎『日本建築史序説』
・・・についてふれる機会があった。建築学会のある集まりが九重(くじゅう)であったのである。
この書はもっともコンパクトでかつ高密度に書かれた日本建築史の通史であり、初版の出版後ほぼ半世紀が経過したにもかかわらず、いまだに乗り越えられていない。
しかし優れた文献であるがゆえに、逆説的に、もたらす問題も大きい。
その序「日本建築の特質」はもっぱら「美学」の観点から日本建築を論じている。素材の率直な使用、機能に忠実であること、左右非対称性、非記念碑性、などがその特徴であるとされる。それは近代建築運動の価値観であり、近代美術史とくにウィーン学派の美学を導入したものである。それは日本建築が20世紀初頭のモダンアートの美学により説明されていると同時に、日本建築はとりもなおさず中国建築とは逆の特性をもつものとして定義されている。20世紀初頭は東洋建築というカテゴリーが考察されたし、80年代以降は中国建築やアジア建築との関連で日本建築を論じることが積極的になされており、そういう点では日本固有性に閉じこもろうとする太田理論は問題が多いし、なによりそれに依拠しなければならない現代の私たちの立ち位置も問題なのである。
いっぽうで各章は、時代やビルディングタイプごとの事実主義的なあるいは実証主義的な諸研究を構成した、バランスの良い各論である。そこには基本的には戦前の成果が中心であるとはいえ、いまなを諸外国の研究レベルを凌駕する質の高さがある。
しかし、それぞれすぐれているがゆえに、逆に問題なのが、この「美学」と「実証」がまったく関連していないことである。それらはあたかも同時には論じられないものとして、唐突にかつ即物的に、並置されているのみである。ひとつの文献の書き方として、このような編集のしかたはまったく失敗である。しかし太田博太郎への信頼感によって、その無関係の並置は、まったくの信頼感をもって認められている。しかし素朴によめば、それらはまったくの別物なのである。
つまり日本建築を論じるにあたって「美学」と「事実」は無関係なのである。そういう論じ方があるのであろうか?
もちろんこうした問題は、ぼくがはじめて指摘したのではない。学生時代にも先輩たちは似たような問題提起をしていた。しかしそれから長い年月がたっても、この問題はいっこうに解消されないし、なにより中国建築やアジア建築の研究が飛躍的に進み、日本が閉鎖的になる必要がなくなった今でも、太田先生的枠組みを越えるようなものはないのである。
他大学の先生たちのディスカッションのなかで、ヨーロッパにおける19世紀実証主義と20世紀観念論との関係、中国における建築史学のありよう(歴史とは古代・中世と同義でかつ古代建築には日本建築の研究により充足されているなど)、日本・韓国・中国における比較論がどのようなレベルで成立しうるか、など建設的な議論ができた。
時代はもはや本質論を求めていないような気もする。しかしぼくとしては、最後の10年間くらいはこうした本質論に回帰したいなあとも思った。ぼくの最後の夢である。
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