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2010.05.03

「建築はどこにあるの?」展/伊東豊雄と福沢一郎

休日なので竹橋の近代美術館にいった。

まず建築展である。

個性あふれるなんにんかの建築家の展覧会。ひとりひとり展示の仕方が工夫されていて、建築をギャラリーで展示することそのものに挑戦しようという意気込みがうかがえた。もはや図面+模型、ではない。模型とモックアップを並立させたもの。模型の縮尺にあわせて壁+図面まで縮小したもの。模型の周囲をカメラが旋回し、そのカメラが撮影したものをスクリーンに投影することで、リアルなスケールに近づけるというもの。はたまたレーザービームによる空間スキャンまで。

とりわけ伊東豊雄のものが印象深かった。とてもストレートであった。ほぐれたグリッド、湾曲したアーチ壁、ボイドとソリドが反転する立体シェル構造、6角形のグリッド、球面の一部で覆われたボリューム、といった、実際のプロジェクトで展開された方法論がさらに発展され、それらを普遍的なフレームとして世界を記述してみれば(世界を埋め尽くしてみれば)どうなるか、ということが示されている。合理主義的世界観によれば世界は立体格子で記述されているし、その枠組みでドライブされている。しかし伊東は、立体グリッドにかえて、べつの空間組織を代替することを考える。かれの具体的なプロジェクトはその普遍的世界の一部なのだ、というようなことがプレゼされている。

伊東は世界を描き変えようとしている。その1点で、まだまだ他の建築家たちを凌駕している。普遍性への視野がそこにある。

自分がかかわる建物は、ひとつの建物にすぎない。しかしそれは世界を支えている普遍的な仕組みの一部である。建築を建築たらしめているのは、この仕組みである。

常設展では福沢一郎のものがはいったというので、見にいった。

《人》が印象的であった。あたかも陶器のように描かれた人は、輪郭をまだまだ保ちながら、一部は割れ、崩れ、穴があき、破片が地上に落ちている。1936年という時代からその意図は明らかである。人間を砕こうとする力の存在を描いたものである。手法としてはシュールレアリズムであり、その時点ではかなり遅いものであって、理論的あるいは手法的な新しさはそこにはない。

しかし福沢一郎は、シュルレアリズムを探求しながら、つねに古典主義を感じさせるものがある。それはデッサンがしっかりしているとか、理想的人間像を感じさせるとかいうのではなく、どことなく神話的であり、有限な人間を超えた永遠性を感じさせるものであった。

《牛》という題材もそうで、この動物も神話的であり時間を超越していて、その意味で普遍的である。

彼が描く「人」は、内部が空洞である。輪郭しかない。その輪郭がある力によって壊される。その瞬間、人間の輪郭を輪郭たらしめているものが、意識される。画家が守らねばならないと思ったなにかである。

伊東豊雄と福沢一郎とのあいだにはなんの関連もない。ただその瞬間、ぼくの内部で緊密に結びついてしまったのも事実のようであった。

「建築はどこにあるの?」

世界のほころびそのものの狭間から、その世界の輪郭が垣間見えたと思えるその場所に。

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