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2010.05.02

ミクローシュ・ペレーニの無伴奏チェロ

・・を聞きにいった。

民間と自治体が共同経営しているホールであり、コンテンツはすばらしい。

ただインテリアはいただけない。安っぽい結婚式場といった感じである。深みがない。アコースティックな音にふさわしくしようと思えば、新建材は厳禁である。化粧石材もぴかぴかに磨いてしまっては、反射光がまぶしいし、逆効果である。

全体のデザインはどうみても教会堂風であった。しかもゴシックを意識した内装である。そのあたりが魂胆みえみえでよろしくないのである。ひょっとしたらパイプオルガンを入れたかったかもしれない、と思わせる壁の仕上げでもあった。

・・・などと考えたのは、教会もどきのこのホールで無伴奏チェロかあ、と感じ入ったからである。音楽は素人なので文句をいってはいけないが、観客と演奏者の距離というのはけっこうたいじははずである、

バッハの無伴奏チェロ・第6番ニ長調 BWV1012は定番なので、(ぼくでもという意味で)安心してきけた。 ヨー・ヨー・マの演奏はとくにコメントしない。ビルスマも記憶にのこっているが、その演奏はシンプルに語りかけるようである。しかしペレーニの演奏はもっと語彙も多くかつ饒舌でありながら、全体にいやみもしつこさもない、パランスの良さが残るようなものであった。

ブリテンの無伴奏チェロ組曲第2番Op.80。ペレーニは違うチェロをかかえてきた。あきらかに音量が違う。低音がよく響く。ブリテンのこの曲はとても構築的で、モダン音楽的であった。ロシア構成主義の建築プロジェクトを見ているような気がした。調べてみるとブリテンはあまり前衛的ではなかったというが。これを聞きながら構成主義やデステイルの作品などを思い出してしまう。それらは21世紀の目からするととてもレトロスペクティブに感じられる。複雑な気分になる。

コダーイの無伴奏チェロ・ソナタOp.8。最初の音で、すでに魂をわしづかみにされてしまった。なんの文句もございません。ピッツィカート、重音奏法、トレモロのテクニックはすごかったなあ。違う楽器でるように聞こえる。楽器のさまざまな可能性を試しているかのようでもある。重音奏法などというと潤いがないのだが、ここでは音は繊維である。繊維どうしは寄り合わせ、紐になり、ほどけたり、ふたたび布のように広がり、また消滅する。

これはコダーイがハンガリーの民族舞踏にもとづいて作曲したのだそうである。そこのとじたいは当時らしい。するとこれは舞踏か肉声を楽器化したということなのだろうか。ちょうど木造の建築を石化したのが古典主義建築であるように?

ここで朝読んだベンヤミン『写真小史』を思い出した。絵画はバイオリンのようなもので、写真はピアノのようなものだ。前者は身体によって音を探すわけだが、後者はメカニカルに音が出る。どちらがいいかなどと比べるほうがどうかしている。この比喩を逆転させて、ピアノは写真のようなものだが、チェロは絵画のようなものだ、ともいえる。コダーイは、遠近法により遠景と近景が描き分けられた絵画ではなく、さまざまな色や輪郭がおなじレイヤーのなかに描かれたがいに浸透しあい、それでいて別な意味の深みを生じさせているように感じられた。

現実にあるハンガリーの伝承音楽の世界。それを絵の具をつかってカンバスに描く、ということなのであろうか。そこには同じ青でもさまざまなニュアンスの青があるように、同じ音程の音でも無限の色があるのであろう。

そこにはもともと身振りであったかもしれないものの、肉声であったかもしれない音の、亡霊のような身体性がかすかに感じられる瞬間がある。それは音の谷間に、なにかとても繊細で、すぐに失われてしまうかもしれないものを聞き分け、救出し、そのことによって聞く者自身が救出されるような、音楽の体験なのであろう。響いては消えてゆく音の繊維たちは、その編み目の模様のなかに、瞬間的に、過去や遠方へのリンクを示すのである。

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