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2010年5月の9件の記事

2010.05.30

狩野重信《竹に芥子図屏風》

土曜日は週末らしいことをしようと思った。

地元の市美で「美しきアジアの玉手箱」展が開催されているので見にいった。サントリー美を皮切りに全国をまわっている巡回展である。シアトル美術館にある、フラー家の東洋美術コレクションをもってきたものである。天気はよく、O壕公園を久しぶりに散歩したが、スタバがあったのに驚いたが、もっともだとも感心した。

目玉的な扱いの《二河白道図》は、現世から極楽へいたる道の困難さを描いている。図録表紙を飾る《烏図》も、金地に烏=黒という明快な構成である。一羽一羽のカラスは羽や目や表情が克明に描かれた写実的なものでありながら、全体としては金地に黒の抽象画となっている。

狩野重信《竹に芥子図屏風》がとくに気に入った。《二河白道図》のような黙示録的な重苦しい空気もない。カラスを描くというのは、つまり通常は「地」である「黒」を、金地のうえの「図」として描こうとするような逆説というか屈折である。そんな苦しさも、ない。

《竹に芥子》は知的でありながら、カラッと明るい。金地に緑=「メダケ」、白=芥子の白い花びら、赤=芥子の赤い花びら、緑=芥子の茎と葉、が描かれる。素人目にも明らかだし、図録の解説にもあったが、これらの竹や芥子は、観察にもとづいた写実的なものである。山水画の岩や滝などは、中世の風景画における岩山にように、記号化された抽象度の高いものである。しかしここでは写実的に正確に描かれている。ちょうど《プリマベーラ》の草花がそうであるように。

しかし別の次元ではとても抽象的だ。つまり全体としては矩形の金地の大きな広がりのなかに、青=竹の葉がいかに分散的に、集合と離散をもって、その分布が描かれているか、ということに気がつくと、とても計算ずくであることがわかる。さらにやはり同じ金地のなかに、白=芥子の花と、赤=芥子の花、がいかなる集合のしかたをしているかを注目すると、絵師のバランス感覚が読めるような気がする。

さらいいえば、金地は最深層のレイヤーであり、緑はつぎのレイヤーであり、白はその次、赤はもっとも手前のレイヤーであると感じられる。

具象性と抽象性を両立している屏風であり、さらにえば、絵画であること自体をテーマとする絵画なのである。

それは日本の現代建築における良質のある側面とも似通っているようにも感じられた。

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2010.05.27

ヨーロッパがフランスの建築家ディプロマを承認

ひさしぶりの投稿である。

私事で帰省していて、しばらく別モードになっていると、仕事場には復帰していても、ブログ投稿モードにはなかなか復帰できない。いままでなら合間の15分くらいでちょこちょこと書いていたものがやけに大仕事にも思えてしまうものである。

さらに昨日は昨日で10時から20時まで昼食以外は切れ目なく会議がつづいた。こういうときは「教授会なう」「なんとか委員会なう」とかつぶやくのであろうか?

さすがに疲れたので、夜はフィットネスで汗を流したものであった。

5月26日付のWEB版ル・モニトゥール紙の記事によると、「ヨーロッパがフランスの建築家ディプロマを承認」ということであった。

5月19日付のEU官報には、医師、歯科医、調剤師などといったプロフェッション(職能)のリストのなかに建築家もあげられていて、これらはフランス国内で認定されているものであるが、以降は、自動的に全ヨーロッパ内で手続きなしで承認される、というものである。

その官報もちらっと見たが、承認された建築大学のリストまであった。ぼくが交換留学の相手役をやっているボルドー建築大学、パリ=ラ=ヴィレット建築大学もあった。あたりまえのことだが、よかったよかった。

さらに記事によると。文化・通信省はこの「刊行を喜ぶ。」「この承認は、フランスにおいて2005年よりなされてきた建築教育の改革を完成するものである。ヨーロッパ内の高等教育は、学部、マスター、ドクターの3サイクルでなされているが、それにあわせるためにこの改革をやってきたのだ。これが承認されたことで、2万人の建築学生がヨーロッパ内で交換留学などをするために移動しやすくなり、建築家もヨーロッパ内で仕事がしやすくなる。」

云々である。UIAだけでは足りないのである。

ところで、2~3カ月まえまでは、ぼくはLe Moniteurのサイトをときどきかってに見ていただけであった。しかしあるときLe Moniteurからメールが来て、ニューズレターを受信しますか?ときいてきた。フィッシングか?とも思ったがURLなどを調べたら本物だったのでOKした。だからフランス建築情報はむこうからつぎつぎに送られてくるようになった。みなさんもそうされていると思いますけど。ぼくが留学したり奉職したころはメールもHPもなかった。隔世の感どころか、まさに隔世である。

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2010.05.14

《テルマエ・ロマエ》

・・・というマンガを読んだ。なんかで評判を聞いたことがあって、それでぼくの研究室の学生にもってないかと訪ねたら、もっていた。読ませろといって読んだ。

古代ローマの公共浴場スペシャリストの建築家ルキウス。その彼が、現代日本の温泉やら湯治場などにワープしてくる。

おもしろい。古代ローマ人が征服者的な自文明中心主義者であったりする点がである。またハドリアヌス帝という美術を愛した征服と悦楽の人物の時代が選ばれている点でもなかなかである。

文明の中心にいることを自負している古代ローマ人が、奴隷たちと思っている日本人の風呂にワープして、その中心/辺境図式をかき乱されるというのがこのマンガの笑いの原理である。そう考えると意外と古典的なのかもしれない。

おもしろいだけに考証しだいでは大化けするのではないかとも思った。たとえばルキウスはウィトルウィウス建築書を読んでいたり。そのなかの公共建築の建設法などをちらちら引用したり。兵役時代にいろんな泉源を研究していたり。

塩野七生の『ローマ人の物語』では、街道、戦艦、水道、浴場などインフラについての記述が具体的であった。《テルマエ・ロマエ》はそれを絵で描かねばならない点で仕事が増えるわけであるが、柱や、石積みや、道路舗装、建築オーダーなどの絵をみれば建築的知識はないことがわかる。しかし公衆トイレはそのとおりで、よく勉強されていて、感心した。ようするに勉強そのものが建築的ではないが、これはしかたないことである。

こういうマンガはとことんディテールにこだわると風刺性もうまれ、面白くなると思う。本当に古代ローマ人が日本にワープしたら、銭湯はむしろコミュニティ施設として機能していない点を鋭く指摘するであろうし、娯楽施設としては不十分と思うであろうし、二重壁でも二重床でもないからお湯はでても建物そのものは冷たいことに不満をのべるであろうし、現代日本の衛生器具会社にワープしてくれば風呂を個人化することで社会的絆を破壊する敵性企業と思うかもしれない。

あまり関係ないが《のだめカンタービレ》がなぜかうちにあったので読んでみた。求道的ではない成長ストーリーであった。ところで音楽マンガやグルメマンガは、聴覚や味覚そのものを描けない不利はあるが、それを表情とストーリーで描く。そういうマンガでも楽しめるし、映画やTVの原作にもなる。ならば建築マンガはよっぽど可能性があり、問題は受け手の層の厚みである。

建築雑誌では建築マンガ、建築家マンガがすこしずつ登場しているが、そのうち本格的な建築マンガ、アーキテクト・マンガがでてくるとおもしろいなあ。

「本格的」とは2種類の意味があって、(1)ストーリーを物語のプロが考える本格性と、(2)建築考証を建築プロがしっかりやる本格性、である。もちろん両方を満たすようなマンガがあるとおもしろい。

ル・コルビュジエ物語やライト物語はすぐできそうだが、それはちと陳腐であろう。

架空の若手建築家がすこしずつ仕事をとり、いろいろ学習し、やがて大規模建築を受注する、といったストーリー。そのなかで展開されるプロジェクトが、ほんとうにこれまでどこにもなかった独創的なオリジナルのものであったとしたら?マンガのコマが、ユートピア的建築プロジェクトで占められるわけである。これは才能があるのにたまたま仕事に恵まれない若手建築家がやっていいようなことになったりして。

で、実際、ルネサンスの建築書というのは、まさに《テルマエ・ロマエ》のように古代と現代(ルネサンス)をワープしながら建築を考察しつつ、著者=建築家としてそのような自己プロモートをするためにメディアであったのですから。だから建築自己プロモート・マンガがあってもいいかな、と。ぼくは支持しますけれど。

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2010.05.13

坂茂さんのポンピドゥ・センター・メス

メス市にあるポンピドゥ・センター分館が完成したようで、WEB版ル・モニトゥール誌に記事がでていた。

5月12日オープニングだそうである。

http://www.lemoniteur.fr/157-realisations/dossiers-actualites/703202-tout-savoir-sur-le-centre-pompidou-de-metz

写真もたくさんでていたし、インタビューもある。

建物は、大規模作品が展示できる地上レベルの大ホールと、80メートル×15メートル平面の展示室が3部屋、湾曲した大屋根などからなる。

展示室はカテドラルなど歴史的記念碑を望めるよう方向が定められている。

大屋根は、木造のレースのような構造であり、それを膜が覆っている。昼間は湾曲した曲面がみえるし、夜は木造の巨大レースが浮かび上がり、とても美しい。

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屋根の形は、坂さんが1999年のある日、サンジェルマン=デ=プレを歩いているときに見つけた、中国の帽子からきているらしい。記事では、ハンカチを景観のなかにそっとおいたよう、などとポエティックに評価している。発想は詩的であり、それを軽い構造で実現するときはたいへんロジカルであり、というようなことが指摘されている。

そのほか記事では、紙管、イマージャンシーハウスなど、ひととおりの紹介がなされている。

坂さんの建築はとても挑戦的だが美しく魅力的である。なぜだろうと考えてみると、レギュラー/イレギュラーの弁証法がいつもあって、それがエレガントに昇華されているからなのであろう。

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2010.05.09

もはや保存建築家は絶対ではない?

フランスではフランス建物建築家(ABF:保存建築家のようなもの)の権限を制限する方向で、法制が整備されている。環境法を優先するためであるというから、皮肉なものである。

WEB版ルモンド紙の記事(2010年5月7日16時33分)では・・・。

5月6日、下院では「グルネル2」法案を審議しているなかで、フランス建物建築家の同意を得なければならないということを廃止した。この点については、まず政府による法案ではABFはたんに諮問される(avis consultatif)のみであった。つぎに上院では、やはりABFの「合意は義務」とされて、それがなければ保護区域での建設許可はおりないことになっていた。しかし下院では、このABFが「グリーン」建設技術の足かせになっているとして、全面的な改訂がなされた。「グルネル2」法案では建築・文化遺産を活用する領域が全面的に改定されるようで、現状のZPPAUP(建築・都市・ランドスケープ遺産保護区域)は新しい制度にとってかわられるようである。ABFの意見は、建築許可にとっては単に意見を述べるだけになる。市長など自治体のトップと意見が一致しない場合は、地方圏長が決める。ミシェル・ピロンは「絶対権力ではなくなり相対的権限となるが、最終的には国家の発言力が勝る」となる。審議はもう最終段階だそうだ。

・・・どうなるのであろうか?

とはいえABFはもともと、建築プロパーというより、都市計画分野の人材である。保存対象となる建築をコアにしてその地域の保護と活用に指針を与える立場である。フランスの優れたところであるが、それがオールマイティでなくなるということは、やはり拒否権的な権限のありかたが問題であったのであろう。

これで建築保存が失地するということではないと思うのだが。

WEB版ル・モニトゥール誌の記事(2010年5月7日10時50分)では、その件に関連して、屋根にソーラーパネルが設置される場合、まさにABFの立場と、エコの立場が矛盾することに触れている。

現行の法制度における、政府(省)見解である。保護地区内で屋根にソーラーパネルをとりつけようとする計画があったとする。ABFが反対の意見を述べた場合、ABFの意見は、建設許可を発行する機関を拘束するものとなる。

また保護区域の内外でどうだとか、ソーラーパネルの取扱いについては、まだフランス国内で統一的システムがあるとはいえないようで、省庁横断的な議論がなされているようである。

文化/環境が対立する構図となるフランス。対岸からみると一種の思想実験である。

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2010.05.08

ヴェネツィア・ビエンナーレ

今年は妹島和世さんが総合ディレクターであるのは周知であるが、海外メディアでその情報が流れていた。

http://www.lemoniteur.fr/159-culture/article/actualite/703047-la-biennale-de-venise-2010-invite-le-public-a-rencontrer-l-architecture

では、妹島さんが5月7日、パリ・イタリア文化センターで「People meet in architecture」をテーマとする旨の説明をした、とあった。招待された44人の建築家・芸術家・ペイザジストが44のパヴィリオンでめいめいの展示をする。彼らは自分たちの解釈で、全体テーマを展開する。中国代表のWangue Shuは、竹構造を観客に体験させる。インドのムンバイ・スタジオは建築アトリエの日常を再発見させる。日本のアトリエ・バウワウは東京のバーチャル街路に模型を展示しそここを歩かせる、オランダのランドスケープアーキテクトであるピエト・オウドルフは出会いの庭園のなかで休息させる・・・。などなど。

具体的なことはわからないが、展示者と観客の距離がかなり小さいようなことを想像する。妹島さんは展示/鑑賞の距離を根本的に変えようとしているとみうけられた。金沢でのご経験もあるに違いない、と推測する。

ビエンナーレのHPも見よ、とあったのでそちらものぞく。

http://www.labiennale.org/en/architecture/exhibition/iae/

People mett in architecture:では参加者はみずからをキュレートするので、多くの視点が提供される、と妹島さんが説明している。

Architecture Saturdays:という企画。毎土曜日に講演会・討論会が開催されて、これまでのそして今年のディレクターが、35年にわたるビエンナーレのレビューもかねて、いろいろ議論するらしい。

Destination Biennale di Venezia. Universities meet in architecture:というのはビエンナーレと大学の協定のようなもので、ようするに大学もビエンナーレ見学をゼミや演習のようなものに活用して、学生に単位を与えられるようにするらしい。2時間のセミナー(会場内のどこか)をふくむ3日間の見学、というから、1日5コマとして、全部で15コマ。なるほど成り立つな。

この大学との協定であるが、イタリア国内ではすでに30大学と80学部に提案し、15の前向き回答を得ているし、国外では300大学にコンタクトをとって25の前向き回答を得ているらしい。

パオロ・バラッタのコメント:「新しいビエンナーレの誕生ですね。参加する外国館がホストとなり、いろんな大学がビジターになる。建築や関連分野という名のもとにあたらしい連盟がうまれ、同時に、あらたに建築ビエンナーレは教師や学生にとって巡礼地となるという新しい刺激がもたらされます」ということです。

・・・記事をひろい読みしていると、高階秀爾先生がおっしゃていたことを思い出した。ポンピドゥ・センターをつくることで、フランスは現代アートの中心をアメリカからいくぶん奪い返したが、アートの大衆化をもおしすすめることとなった。

パリの建築・遺産都市はコンテンツの充実もさることながら、見学者の全世代化が印象的である。多くの子供たちも熱心に見ているのが、つよく印象に残っている。さらにヨーロッパ内では建築ミュージアム戦争があるようで、ビエンナーレもそのあたりは意識しているであろう。

先日見た「建築はどこにあるの?」展は、中身そのものもそうだが、誰がみるのであろうか、という点が興味深い。建築関係者しか見ないのでは世界の時流とはすこし違うが、子供もたくさん来るのであれば、日本における建築展も新時代をむかえたといえるであろう。

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2010.05.03

「建築はどこにあるの?」展/伊東豊雄と福沢一郎

休日なので竹橋の近代美術館にいった。

まず建築展である。

個性あふれるなんにんかの建築家の展覧会。ひとりひとり展示の仕方が工夫されていて、建築をギャラリーで展示することそのものに挑戦しようという意気込みがうかがえた。もはや図面+模型、ではない。模型とモックアップを並立させたもの。模型の縮尺にあわせて壁+図面まで縮小したもの。模型の周囲をカメラが旋回し、そのカメラが撮影したものをスクリーンに投影することで、リアルなスケールに近づけるというもの。はたまたレーザービームによる空間スキャンまで。

とりわけ伊東豊雄のものが印象深かった。とてもストレートであった。ほぐれたグリッド、湾曲したアーチ壁、ボイドとソリドが反転する立体シェル構造、6角形のグリッド、球面の一部で覆われたボリューム、といった、実際のプロジェクトで展開された方法論がさらに発展され、それらを普遍的なフレームとして世界を記述してみれば(世界を埋め尽くしてみれば)どうなるか、ということが示されている。合理主義的世界観によれば世界は立体格子で記述されているし、その枠組みでドライブされている。しかし伊東は、立体グリッドにかえて、べつの空間組織を代替することを考える。かれの具体的なプロジェクトはその普遍的世界の一部なのだ、というようなことがプレゼされている。

伊東は世界を描き変えようとしている。その1点で、まだまだ他の建築家たちを凌駕している。普遍性への視野がそこにある。

自分がかかわる建物は、ひとつの建物にすぎない。しかしそれは世界を支えている普遍的な仕組みの一部である。建築を建築たらしめているのは、この仕組みである。

常設展では福沢一郎のものがはいったというので、見にいった。

《人》が印象的であった。あたかも陶器のように描かれた人は、輪郭をまだまだ保ちながら、一部は割れ、崩れ、穴があき、破片が地上に落ちている。1936年という時代からその意図は明らかである。人間を砕こうとする力の存在を描いたものである。手法としてはシュールレアリズムであり、その時点ではかなり遅いものであって、理論的あるいは手法的な新しさはそこにはない。

しかし福沢一郎は、シュルレアリズムを探求しながら、つねに古典主義を感じさせるものがある。それはデッサンがしっかりしているとか、理想的人間像を感じさせるとかいうのではなく、どことなく神話的であり、有限な人間を超えた永遠性を感じさせるものであった。

《牛》という題材もそうで、この動物も神話的であり時間を超越していて、その意味で普遍的である。

彼が描く「人」は、内部が空洞である。輪郭しかない。その輪郭がある力によって壊される。その瞬間、人間の輪郭を輪郭たらしめているものが、意識される。画家が守らねばならないと思ったなにかである。

伊東豊雄と福沢一郎とのあいだにはなんの関連もない。ただその瞬間、ぼくの内部で緊密に結びついてしまったのも事実のようであった。

「建築はどこにあるの?」

世界のほころびそのものの狭間から、その世界の輪郭が垣間見えたと思えるその場所に。

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2010.05.02

ミクローシュ・ペレーニの無伴奏チェロ

・・を聞きにいった。

民間と自治体が共同経営しているホールであり、コンテンツはすばらしい。

ただインテリアはいただけない。安っぽい結婚式場といった感じである。深みがない。アコースティックな音にふさわしくしようと思えば、新建材は厳禁である。化粧石材もぴかぴかに磨いてしまっては、反射光がまぶしいし、逆効果である。

全体のデザインはどうみても教会堂風であった。しかもゴシックを意識した内装である。そのあたりが魂胆みえみえでよろしくないのである。ひょっとしたらパイプオルガンを入れたかったかもしれない、と思わせる壁の仕上げでもあった。

・・・などと考えたのは、教会もどきのこのホールで無伴奏チェロかあ、と感じ入ったからである。音楽は素人なので文句をいってはいけないが、観客と演奏者の距離というのはけっこうたいじははずである、

バッハの無伴奏チェロ・第6番ニ長調 BWV1012は定番なので、(ぼくでもという意味で)安心してきけた。 ヨー・ヨー・マの演奏はとくにコメントしない。ビルスマも記憶にのこっているが、その演奏はシンプルに語りかけるようである。しかしペレーニの演奏はもっと語彙も多くかつ饒舌でありながら、全体にいやみもしつこさもない、パランスの良さが残るようなものであった。

ブリテンの無伴奏チェロ組曲第2番Op.80。ペレーニは違うチェロをかかえてきた。あきらかに音量が違う。低音がよく響く。ブリテンのこの曲はとても構築的で、モダン音楽的であった。ロシア構成主義の建築プロジェクトを見ているような気がした。調べてみるとブリテンはあまり前衛的ではなかったというが。これを聞きながら構成主義やデステイルの作品などを思い出してしまう。それらは21世紀の目からするととてもレトロスペクティブに感じられる。複雑な気分になる。

コダーイの無伴奏チェロ・ソナタOp.8。最初の音で、すでに魂をわしづかみにされてしまった。なんの文句もございません。ピッツィカート、重音奏法、トレモロのテクニックはすごかったなあ。違う楽器でるように聞こえる。楽器のさまざまな可能性を試しているかのようでもある。重音奏法などというと潤いがないのだが、ここでは音は繊維である。繊維どうしは寄り合わせ、紐になり、ほどけたり、ふたたび布のように広がり、また消滅する。

これはコダーイがハンガリーの民族舞踏にもとづいて作曲したのだそうである。そこのとじたいは当時らしい。するとこれは舞踏か肉声を楽器化したということなのだろうか。ちょうど木造の建築を石化したのが古典主義建築であるように?

ここで朝読んだベンヤミン『写真小史』を思い出した。絵画はバイオリンのようなもので、写真はピアノのようなものだ。前者は身体によって音を探すわけだが、後者はメカニカルに音が出る。どちらがいいかなどと比べるほうがどうかしている。この比喩を逆転させて、ピアノは写真のようなものだが、チェロは絵画のようなものだ、ともいえる。コダーイは、遠近法により遠景と近景が描き分けられた絵画ではなく、さまざまな色や輪郭がおなじレイヤーのなかに描かれたがいに浸透しあい、それでいて別な意味の深みを生じさせているように感じられた。

現実にあるハンガリーの伝承音楽の世界。それを絵の具をつかってカンバスに描く、ということなのであろうか。そこには同じ青でもさまざまなニュアンスの青があるように、同じ音程の音でも無限の色があるのであろう。

そこにはもともと身振りであったかもしれないものの、肉声であったかもしれない音の、亡霊のような身体性がかすかに感じられる瞬間がある。それは音の谷間に、なにかとても繊細で、すぐに失われてしまうかもしれないものを聞き分け、救出し、そのことによって聞く者自身が救出されるような、音楽の体験なのであろう。響いては消えてゆく音の繊維たちは、その編み目の模様のなかに、瞬間的に、過去や遠方へのリンクを示すのである。

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2010.05.01

ヴァルター・ベンヤミン『写真小史』とウジェーヌ・アジェ

ぼくの本棚のなかから救出した?本である。いつ買ったか覚えていないし、買った事実も忘れてしまっていたが、読んでみると、なぜ読まなかったか、われながら不思議になる文献である(あたりまえか)。ごめんねヴァルター。

ソンタグ、多木浩二、飯沢耕太郎、伊藤俊治のはるか以前の写真論なのである。が、すごく平明で、複製技術時代の本よりもとてもなじみやすい。ベンヤミンもこんな文章を書くんだという驚きもある。

とくに興味をもって読んだのは19世紀末から20世紀のパリという都市を撮りつづけたアジェについての章である。

ウジェーヌ・アジェは、ベンヤミンによれば、役者をやめて写真家に転向したということになっている。現実はそれよりやや錯綜していたようだ。演劇を学び、役者として身をたてようとしたが果たせず、絵画・素描・写真を学んだ。それから画家も挫折したが、画家や建築家などは記録写真を必要としていることに気がついて、写真に専念するようになった。

100年ほど前のパリの写真をとっているので、今では大きな書店にはかならずアジェ関係の文献や写真集はおいてある、パリでは定番のテーマである。

ベンヤミンはアジェを、シュルレアリスムの先駆者、アウラからの解放者、新即物主義的な先駆者、であると評価する。彼が演劇を捨てたことにひっかけて、メイキャップであること、都市が舞台装置のようであること、をあえて無視した写真家であり、被写体をその一回性において活かそうとした、という解釈をする。「そうした景観や建築物には、アジェに舞台や書き割りや背景を思い出させたのかもしれない。書き割りや背景には、もううんざりしていたのだ。」(p.155)

ベンヤミンの写真論は、すくなくともこの文献の段階では、わかりやすいものであった。当時の、絵画/写真論争を念頭において、絵画は楽器でいえばチェロのようなもの、写真はピアノのようなもの、ピアノはあえてメカニカルにしてあるのであって、身体性をつよく反映しているチェロと比べることじたいがおかしい、というようなことを指摘している。

それはベンヤミンの理論というより彼自身の好みなのであろう。絵画より写真を好んだというよりは、視覚と対象との新しい関係の可能性を、写真のなかに期待したのであった。より即物的に、より一回的であり、そのことでより普遍的に・・・。

アジェの写真にもどると、彼は室内、ショウウインドウ、職人たち、諸職業の人間、中庭、民家、などを、ほとんどきまったアングルで、雑音(雑景観?)をできるだけ廃してとり続けた。そこには近景、中景、遠景などない。都市は複合的でいろんなものが融合しているのであるが、その融合や全体性を拒否して、要素を抽出する。

ベンヤミンによれば、アジェの写真が犯罪の現場写真のようである。そこまでいわなくとも、すくなくとも絵画的ではないし、肖像画的ではないし、たしかに劇場的でもないし、建築的でも景観的でもない。

ぼくならば、融合のなかから要素を抽出する、のではなく救出する、といいたい。同様に、永遠性のなかから一回性を救出する、景観のなかから個別のものを救出する、といいたい。たしかに都市という小宇宙のなかではすべては流転し、融合と離反を繰り返し、なんの切れ目もなくシームレスにすべては繋がっているし、都市の劇場性というのもそうしたものの反映なのであろう。個別のものは全体とのあるいは背景との関係で存在するし意味をもつ。

しかしアジェは、その全体からあえて個別なものを切り離した。そして切り離された孤立したものもまた、ひとつの世界なのであった。彼はそのことを発見した。そして写真に記録した。彼自身がそのような個別者であった。そしてそのことに気がついはベンヤミンは、無防備とも思えるほどの率直さでアジェ頌を書いた。

ぼくなら、アジェの写真はアーカイブ的なのである、といおう。同時代の前衛芸術的でもあろうが、その前にアーカイブ的なのである。フランスに独特のアーカイブへの無意識的信頼、個別のものの集積がやがてひとつの、そして別の、全体にいたるのであろうという無意識的な理念があるのは確実のようである。

アジェは1927年に亡くなった。その前後、マン・レイがその作品を再発見したということになっている(ベンヤミンによれば、アメリカ人アボットのおかげである)。そのせいでシュルレアリスム的再評価がなされた。また当時できたパリ歴史ミュージアム(マレ地区にありマンサールによる17世紀の古典主義建築である)にコレクションが収蔵された。ぼくからみると、経済的には不遇であっても当時から知る人ぞ知るような存在であったし、亡くなると公的ミュージアムがごっそり買い付けたことをみると、さすが芸術の国は作戦がうまいような気がする、などというのはうがった見方であろうか?

さらにはベンヤミンのアジェ論そのものも、没後すぐに出版された写真集の序なのであるから、けっこうあわただしい時代の流れがあったことがわかる。ベンヤミン自身も1933年にパリに渡り、そして1940年にスペイン国境ちかくで命を絶つのであった。

アジェがずっと住んでいた通り。『勝手にしやがれ』の最後のシーンがここである。

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