« ヘルツォーク&ド・ムーロン《ヴィトラ・ハウス》 | トップページ | オスカー・ニーマイヤー《ミナスジェライス州政府庁舎》 »

2010.03.08

中沢新一『純粋な自然の贈与』

初版は1996年。2009年の文庫本を読んだ。「贈与」と「等価交換」との違いをやさしく解説してくれるだけでなく、その射程のおおきな違いまでも明らかにしてくれる。

等価交換は、たとえば貨幣で商品を購入することである。デジタルで、論理的で、機械的で、合理的な世界である。計量的、あるいは情報的な世界だともいえる。

ところが等価交換でできる合理的なプロセスだけでは、資本が拡大再生産するといったことは説明できない。贈与は、捕鯨、ゴダールのマリア、剰余価値論、バルトーク、などの背景に流れる真理なのである。

さて思索としてみると、「建築」がある意味で「贈与」である、贈与であるかのようにみえることは平板すぎるほどの真実であるようだ。

新しい建物が目の前に出現することは、神からの贈与であるように感じられることがある。施主と、資金繰りと、施工業者にかんする情報を知っていたとしても、面前にある巨大な物的秩序は、軽い奇跡のように感じられるであろう。

図書館や学校といった公共建築を使う者は、やはりそこに贈与性を感じるであろう。たとえ納税者意識が合理的な説明をすることがあっても、すくなくとも金銭と等価交換をしたはずだという意識は襲ってこないであろう。

サステイナブルな建築は、前の世代からの贈与であろう。

というのは建築は等価交換という合理性からはかなり遠いのではないか。土地を購入する、建材を購入する、労働力を調達する、月いくらで貸すといった個々の行為はすべて等価交換的であり、計量的である。しかしピラミッドも大聖堂もつねに観光客が支払う旅費という価値を生み続けるのであり、それは建設時には予測できなかったものである。だから建物の収支決算は、けっして予測できるものではない。だから建物は、等価交換では決してないのである。

建物は、等価交換では決してない。一個の建物の両側には、得をしたひとと損をしたひとがいる。だから損をした人は、得をした人に贈与をしていることになる。すべての人に得を与えた建築もあるかもしれない。

建築は、本質的にそして必然的に、市場原理を超越している、なんてことにならないかな。だれかそういう理論を構築してください。

そうなると建築は、これまた必然的に、霊的なもの、オーラを帯びたものとなる。建築を物語ること、鑑賞すること、思索することは霊的なものに触れようとすることにならないか。

|

« ヘルツォーク&ド・ムーロン《ヴィトラ・ハウス》 | トップページ | オスカー・ニーマイヤー《ミナスジェライス州政府庁舎》 »

建築論」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/33689323

この記事へのトラックバック一覧です: 中沢新一『純粋な自然の贈与』:

« ヘルツォーク&ド・ムーロン《ヴィトラ・ハウス》 | トップページ | オスカー・ニーマイヤー《ミナスジェライス州政府庁舎》 »