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2010.03.26

隠居ハウス

卒業式のあとの祝賀会で、普段はあまりつきあいのない他学科の先生がたと世間話をする。その話題が「隠居ハウス」であった。それも自分たちが住むと想定したハウスである。

今すぐではなく近未来のプロジェクトである。でもまあ、それが現実感をもつような年齢になったのである。

なにしろ定年退職のあとも20年から30年の生活がある。やりようによっては人生でもっとも多産で創造的な時期にもできるかもしれない。そう考えるとけっこう前向きにとりくんでもいい。

ある先生は、戸建ての平屋がご希望。RCでもいい。簡素でいい。でも生活を考えたらマンションかな。などなど。

ある先生はすでに自宅を建設した。いちおう建築家物件である。しかし本大学に転勤となったので貸してある。いまは宿舎ずまいである。せっかくつくったのに。でもこの場合はすでに隠居ハウスは確保されている。

ただ隠居ハウスは、メンテコストも、ランニングコストも、エネルギーコストもひくく抑えなければならない。

うちにもどって参考文献として宮脇檀『日本の住宅設計』(しぶいね)などぱらぱらめくる。すると、戦前のミニマルハウス的思想の継続のもとに構想された、戦争直後の簡素で本質的な住宅を、21世紀の仕様で建てるのがいちばんいいかな、なんて思ったものであった。

《清家清自邸》なんかそうとうよくて、内部と外部の浸透がとても鮮烈だ。広瀬鎌二の《SH-1》も小規模だが、収納たっぷり、でもそこはかとなく土間/床の二元論が保存されている。吉坂隆正の《ヴィラ・ククー》も、階段をのぼられる間でなら最高かな。

ぎゃくに菊竹清訓の《スカイハウス》は、これは邸宅あるいは戸建てのプロトタイプであって、集合住宅ではないことがすぐわかる。

いわゆる「近代住宅」と決定的にちがうのが「家族」を前提としなくていい点である。その点ではスカイハウスですら不徹底といえる。とはいっても「個人」に還元されるというものでもないだろう。

ぼくはフーリエの「情念」はこういう文脈でも結構意義深いと思う。つまりいわゆる家族論では、大家族から個人までの家族形態を、たかだか数パターンのみに類型化するしかないような前提である。しかし「情念」を、人間が他者へいだく指向性というようなものと解釈すれば、人間と人間の関係は、それこそ人間の数だけあると思えるし、設計の指針としては創造的なものとなるであろう。

でもまあ住宅そのものだけでもないだろう。低収入の弱者なのだから、街にうまく寄生することが大切であろう。そういう意味では、商店街、スーパーマーケット、図書館、フィットネスに歩いて行けるところに小さな住まいをかまえたいものだが、すると戸建ては無理で、やはりマンションであろうね。

団塊の世代のひとびとは、帰農したり、自給自足したりするのが理想であるが、これはこれでけっこう大規模な投資と回収の構図である。ぼくたちの世代はちと違うであろう。徹底して省コスト型であるが、豊かさの指標を変えることで、生産的であろうとする。

これからの日本は情けないいろんなことがおこるであろうが、そのなかで豊かな小宇宙もたくさんできるであろう。それが隠居ハウスに期待されるものなのかなあ?

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