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2010.03.29

妹島さん西沢さんのプリツカー賞

受賞おめでとうございます。

妹島さんにはかつていろいろお世話になっていて、地元若手建築家の有志グループで招待して勉強会の講師になっていただいたり、大学の非常勤できていただいたりした。もう10年以上前のはなしになってしまったが。

いまではYOUTUBEごしに拝見する存在となられた。自信あふれる語りが印象的であった。

SANAA建築の特質を考えてみる。

(1)二元論の乗り越え

以前書いたことであるが、それまでの建築は領域を内部/外部、プライベート/パブリックなどと二元論で処理するのが普通であった。しかし妹島さんは3つの領域に区分したり、従来のロジックに従っていない。

(2)身体性の感覚

時代は軽さや透明性や反射性をもとめていたころ、建築家たちがそれに建築で答えようとしていたころ、妹島さんたちはより高度な身体性で答えていたよう思う。岐阜のメディアセンターの回廊を巡って歩いたとき、その回廊の幅のスケールそのものに感嘆したことがある。それは計画学的に、便利/不便、圧迫感/開放感という論理をはるかに越えているように感じられた。

梅林の家にあるように、壁をとことん薄くしたときに、壁のむこうがわにいる人間との距離感が変わってしまうことに、気づかされる。それは距離がこれこれ、厚さがこれこれといったフィジカルな距離ではなく、まさに人と人との人間的距離である。それそのものを感じ取り、設計しているような、超濃密な設計をしているのである。

この身体性の感覚は、住宅から海外の大学の学習センターというほとんどランドスケープ的なスケールにまで、及んでいる。

妹島さんは自分の身体感覚を、主観的なものとするのではなく、設計の指標としてきわめて客観的に使用しているのではないか。そうおもえてしまう。

(3)ヒエラルキーの排除

それは最初は、オランダの劇場コンペ案にあらわれたが、金沢21世紀美術館で具体化した。デジタル時代にふさわしい、ランダムアクセスの美術館である。それまでの近代的美術館は、スタイル、時代区分といった知の枠組みにしたがって空間をしつらえ、展示するのであって、この場合は美術的ヒエラルキーそのものが美術館をして美術館たらしめる。

しかし金沢21世紀美術館は、GOOGLEのような、ハードディスク内の個人アーカイブのような、ランダムアクセスの空間なのである。しかし金沢には逆説がある。ランダムといってもカオティックな空間となるのではなく、ランダムを発生させる空間はそれとして静謐な秩序をもっているのである。建築の否定ではなく、あくまで建築としてある。

おなじことは森山邸のような住宅にも適用されうるものとして、普遍的であることが証明されている。

(4)建築不滅則?

《建築》は時代やテクノロジーのいろいろなの変化によって、滅亡し、解体され、消滅するであろうと思われていた。しかしそうはならなかった。

考えてみれば不思議なもので、日本の建築は、1920年代から30年代に、法規、技術、社会政策などとの関連において真に近代化したのであった。それから50年もしないうちに、それらへの根底的な批判がなされた。それが滅亡・解体・消滅である。

さらにそれから50年もしないうちに、ラディカルに建築を肯定する、つまり保守的ではなく根底的に肯定するというしかないような、ひとびとが登場しはじめたということなのであろうか。

かつてルイス・マンフォードは「都市不滅則」を唱えた。妹島さん西沢さんは「建築不滅則」を唱える資格があるのかもしれない。

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