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2010年3月の13件の記事

2010.03.29

妹島さん西沢さんのプリツカー賞

受賞おめでとうございます。

妹島さんにはかつていろいろお世話になっていて、地元若手建築家の有志グループで招待して勉強会の講師になっていただいたり、大学の非常勤できていただいたりした。もう10年以上前のはなしになってしまったが。

いまではYOUTUBEごしに拝見する存在となられた。自信あふれる語りが印象的であった。

SANAA建築の特質を考えてみる。

(1)二元論の乗り越え

以前書いたことであるが、それまでの建築は領域を内部/外部、プライベート/パブリックなどと二元論で処理するのが普通であった。しかし妹島さんは3つの領域に区分したり、従来のロジックに従っていない。

(2)身体性の感覚

時代は軽さや透明性や反射性をもとめていたころ、建築家たちがそれに建築で答えようとしていたころ、妹島さんたちはより高度な身体性で答えていたよう思う。岐阜のメディアセンターの回廊を巡って歩いたとき、その回廊の幅のスケールそのものに感嘆したことがある。それは計画学的に、便利/不便、圧迫感/開放感という論理をはるかに越えているように感じられた。

梅林の家にあるように、壁をとことん薄くしたときに、壁のむこうがわにいる人間との距離感が変わってしまうことに、気づかされる。それは距離がこれこれ、厚さがこれこれといったフィジカルな距離ではなく、まさに人と人との人間的距離である。それそのものを感じ取り、設計しているような、超濃密な設計をしているのである。

この身体性の感覚は、住宅から海外の大学の学習センターというほとんどランドスケープ的なスケールにまで、及んでいる。

妹島さんは自分の身体感覚を、主観的なものとするのではなく、設計の指標としてきわめて客観的に使用しているのではないか。そうおもえてしまう。

(3)ヒエラルキーの排除

それは最初は、オランダの劇場コンペ案にあらわれたが、金沢21世紀美術館で具体化した。デジタル時代にふさわしい、ランダムアクセスの美術館である。それまでの近代的美術館は、スタイル、時代区分といった知の枠組みにしたがって空間をしつらえ、展示するのであって、この場合は美術的ヒエラルキーそのものが美術館をして美術館たらしめる。

しかし金沢21世紀美術館は、GOOGLEのような、ハードディスク内の個人アーカイブのような、ランダムアクセスの空間なのである。しかし金沢には逆説がある。ランダムといってもカオティックな空間となるのではなく、ランダムを発生させる空間はそれとして静謐な秩序をもっているのである。建築の否定ではなく、あくまで建築としてある。

おなじことは森山邸のような住宅にも適用されうるものとして、普遍的であることが証明されている。

(4)建築不滅則?

《建築》は時代やテクノロジーのいろいろなの変化によって、滅亡し、解体され、消滅するであろうと思われていた。しかしそうはならなかった。

考えてみれば不思議なもので、日本の建築は、1920年代から30年代に、法規、技術、社会政策などとの関連において真に近代化したのであった。それから50年もしないうちに、それらへの根底的な批判がなされた。それが滅亡・解体・消滅である。

さらにそれから50年もしないうちに、ラディカルに建築を肯定する、つまり保守的ではなく根底的に肯定するというしかないような、ひとびとが登場しはじめたということなのであろうか。

かつてルイス・マンフォードは「都市不滅則」を唱えた。妹島さん西沢さんは「建築不滅則」を唱える資格があるのかもしれない。

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2010.03.28

小林重敬『都市計画はどう変わるか』

小林先生から賜った。ありがとうございます。

Y-GSAでごいっしょして、ぼくはあいかわらず言いたい放題なのであったが、小林先生からはいろいろアドバイスをいただいたのであった。

グローバル/ローカル、マーケット/コミュニティ、まちづくり三法など制度・政策の専門家から教えていただくのはたいへん参考になる。

それ以上に興味深かったのは、彼の論考もしっかりした歴史観にもとづいているという点であった。19世紀末のドイツ都市法などを原型として20世紀のそれが形成された。20世紀の近代都市計画は、新中間階層をターゲットにしているのであり、それがあるので各国でバリエーションがあるとはいえ、共通の戦略というものを比較することができる。

反面、グローバル化などが作用して都市計画がまったく違うフェーズに突入していることはあきらななのに、次世代の都市計画を支える階層の姿がはっきりみえてこないことが問題であるという。

都市計画についての歴史観とはどんなものか?それはいわゆる都市史とどう違うか?などを考察することはよいことである。

ヨーロッパではルネサンス以降、都市はひとつの法人格なのであるから、王(宮廷)や国家と、都市は、上下の関係とはいえことなる法人格として交渉し、対話をしていた。だから王の命令による、都市のプロジェクトは、きわめて特徴的であり輪郭のはっきりしたものとして、異彩をはなつものとなった。

19世紀、オスマンのパリ大改造などは、いわば国が指導してブルジョワの都市空間投機をあおったようなものであった。このとき行政は土地収用を恣意的にすることができた。しかも近代的な都市計画法などなかった。都市計画法はない状態で、都市開発行為がなされた。それはブルジョワ都市の形成であった。このとき産業化、都市化の勢いで、「労働者」階級が、そして労働者街区が生産された。つまりブルジョワが突出することで反射的に労働者階級が生産されたのであった。階級闘争はまさに都市スペース内闘争としてきわめてリアルに発生する。それが2月革命でありパリ=コミューンであった。

20世紀はこの階級闘争を調停しようとして、普遍的市民というあらたなイメージを確立しようとする。象徴的なことが「労働者住宅」という概念そのものである。ヨーロッパ内でも国によって異なるようであるが、すくなくともフランスでは、労働者住宅という概念そのものをなくし、それにかわって低廉住宅、適正価格住宅という概念がうまれる。CIAMはそれを最小限住宅と読み替える。そして20世紀末にはアフォーダブルなどという言葉まで生まれる。

CIAMの最小限住宅とは面積最小限ということだけではないと思われる。バストイレ、台所などの住宅設備がすくなくとも備わっているというような意味である。20世紀初頭のその時代、8時間労働、社会保障、選挙権、バカンス法など、いわゆる普遍的市民の社会的存在を規定する法制度が整備されたことを忘れてはならない。法制度によって社会的に規定された普遍的市民、それにあてがわれたのが最小限住宅なのであった。それはブルジョワ/労働者という切断をないことにし、労働者住宅というカテゴリーをなくすことに戦略的な意義があったのであった。

日本国内でも同様な経緯がある。たとえば1930年代における建築学会の検討のなかで、「長屋」といった前近代的な類型用語はあっさり抹殺されたのであった。戦後も浜口ミホが住宅の封建制を批判するのであるが、それはむしろ、普遍的住宅という20世紀イデオロギーを強化することとなった。

このことに象徴されるように、20世紀都市計画は抽象的市民を念頭においたし、山本理顕さん流にいえばまさにそのような抽象的市民を生産したのであった。

21世紀の都市計画はどんな階層を念頭におくか?・・・などぼくにわかるわけがない。ただ住宅を指標にして、さらに20世紀の大テーマ、サニタリーや情報のパーソナル化などを考えると、これらが19世紀にまで逆行するなどとは考えられない。すると考えられるのは、住宅が指標であった20世紀にたいして、同様な住宅が供給されつつも別の指標によってドライブされる21世紀ということなのかな?まあ現実の推移から学ばさせていただきましょう。(というわけでこれからサカナ焼きます)

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2010.03.27

山本理顕『地域社会圏モデル』

INAX出版の高田さんから賜りました。ありがとうございます。

卒業式の祝賀会で、同僚たちと「隠居ハウス」について激論したあと、教員室に戻ると机のうえにこの本が置いてあった。このまえ山本さんとあったのでだいたいの内容は察しがつくのではあるが、シンクロの妙というか、隠居のあとは地域社会圏、待ち構えたようなテーマである。こういう符合はよくおこる。建築の神様はどこかにいる。

翌土曜日の朝、シリアルとコーヒーをいただいてから、さっそく読む。「建築のちから」シリーズは、プロジェクト構築型の企画であり、方向性がはっきりして読者としても迷わない。

読了。フィットネスにゆく。土曜の午前中はいつもそう。エアロバイクをこぎながら、ふと昨晩のことを思い出した。同僚の先生たちと謝恩会の二次会の席できいたことだが、某先生は毎週、自転車で100キロ程度のロードワークをする。しかも平坦な道ではなく、峠越えまでする。ときにはパンクしほとんど遭難する。しかし達成感はたまらない、という。そうか。負けてはいられない。ぼくも通常は12分のエアロバイクを今日は15分する。すこしは対抗できたかなあ。

うちにもどってブリを焼きながら、『地域社会圏モデル』についてあれこれ考える。

これはヨーロッパでいえば19世紀的ユートピア構想の復活なのであろう。当時も資本主義の暴走によって、そして古い社会の解体によってひとびとはアトム化し、無防備のままほうっておかれた。だからあたらしい社会像が構築されようとした。

それらはとても多様なプロジェクトとなってあらわれた。企業家がいわゆる福利施設的に居住などさまざまなサービスを提供するタイプ。農業共同体にもどろうとするタイプ(「ネスティング・イン・フィレスト」はそのバージョンアップ的なもの)。産業共同体(「新宿山」は産業ではなくエネルギーをコアにしたもの、「ローマ2.0」は21世紀型産業タウン)。ブルジョワ的な家族形態を労働者たちにも適用しようというもの(「1家族=1住宅」はそれに相当する)。ある街をひとつのテーマ(たとえば芸術)にそって形成しようというもの。一見すると投資家による土地投機としての街区形成ではあるがそこになにがしらの理想像のようなものが感じられるもの。

つまり20世紀は資本主義であれ社会主義であれ、普遍的市民像(=近代家族のメンバー)を前提として、画一化をめざした(住宅産業か公営住宅かは左右対照的に違うが同じものなのであった)。真の多様性は19世紀にあるように思える。

19世紀のさまざまなユートピアにしろ、20世紀の産業都市にせよ、結局、産業としてうまくいったものが、コミュニティ、地域、都市としても成功している。ミュールーズには自動車産業があったし、ギーズにも暖炉やバスタブの産業があった。ちなみにレッチワースにはコルセット工場とオートバイ産業があった。だからそこのユートピアはある期間は成功した。さまざまな社会の形態があるとはいえ、再生産できない社会はけっきょく衰退するし、再生産できるユートピアはうまくいった。

若手の建築家たちはそのリアリティをしっかり考えている。長谷川豪さんの「プラズマゴミ処理施設」、藤村龍至さんの「ユビキタス可能な産業」や中村拓志さんの「六次産業」(農業、工業、サービス業をコンパクトに一体化したもの)などは重要なアプローチである。

理論構築軸としての山本理顕さんは、「1家族=1住宅」批判であるから、つまり20世紀住宅を批判しつつ、住宅概念を拡大することをしている。彼のアプローチは継続的であり一貫している。そしてぶれないことが、彼をして、建築知のインフラあるいはOSとしている。

その結果『地域社会圏モデル』は、「住宅×産業」というコンプレクスの新しい形態の模索として読める。新しい産業のありかたが鍵であろう。それは人間が、なにを思考しているか、なにに欲求を感じているか、いかにどの方向にむけて能産的でありうるか、いかに能力を発揮しうるかのかたちである。フーリエはそれを「情念」とよんだのではなかったか。そして、それらはひとつのかたちに収れんするのではなく、さまざまなプロジェクトとして提案されるようなものなのであろう。

前例がまったくないわけではない。20世紀初頭日本の「企業城下町」もまた、産業×都市の一体的形成であった。100年たったいま、産業も、技術も、そして建築として空間を編集してゆく方法も、それぞれ格段に進歩しソフィストケートされている。新しい融合というものを、新しい世代の建築家たちが提案していっても、歴史的にはよさそうなものだ、と思う。歴史家の直感としては、そろそろリアルなハードコアが登場してもよさそうな時期なのである。

よく焼けた美味なるブリをつっつきながら、そう思ったものであった。

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2010.03.26

隠居ハウス

卒業式のあとの祝賀会で、普段はあまりつきあいのない他学科の先生がたと世間話をする。その話題が「隠居ハウス」であった。それも自分たちが住むと想定したハウスである。

今すぐではなく近未来のプロジェクトである。でもまあ、それが現実感をもつような年齢になったのである。

なにしろ定年退職のあとも20年から30年の生活がある。やりようによっては人生でもっとも多産で創造的な時期にもできるかもしれない。そう考えるとけっこう前向きにとりくんでもいい。

ある先生は、戸建ての平屋がご希望。RCでもいい。簡素でいい。でも生活を考えたらマンションかな。などなど。

ある先生はすでに自宅を建設した。いちおう建築家物件である。しかし本大学に転勤となったので貸してある。いまは宿舎ずまいである。せっかくつくったのに。でもこの場合はすでに隠居ハウスは確保されている。

ただ隠居ハウスは、メンテコストも、ランニングコストも、エネルギーコストもひくく抑えなければならない。

うちにもどって参考文献として宮脇檀『日本の住宅設計』(しぶいね)などぱらぱらめくる。すると、戦前のミニマルハウス的思想の継続のもとに構想された、戦争直後の簡素で本質的な住宅を、21世紀の仕様で建てるのがいちばんいいかな、なんて思ったものであった。

《清家清自邸》なんかそうとうよくて、内部と外部の浸透がとても鮮烈だ。広瀬鎌二の《SH-1》も小規模だが、収納たっぷり、でもそこはかとなく土間/床の二元論が保存されている。吉坂隆正の《ヴィラ・ククー》も、階段をのぼられる間でなら最高かな。

ぎゃくに菊竹清訓の《スカイハウス》は、これは邸宅あるいは戸建てのプロトタイプであって、集合住宅ではないことがすぐわかる。

いわゆる「近代住宅」と決定的にちがうのが「家族」を前提としなくていい点である。その点ではスカイハウスですら不徹底といえる。とはいっても「個人」に還元されるというものでもないだろう。

ぼくはフーリエの「情念」はこういう文脈でも結構意義深いと思う。つまりいわゆる家族論では、大家族から個人までの家族形態を、たかだか数パターンのみに類型化するしかないような前提である。しかし「情念」を、人間が他者へいだく指向性というようなものと解釈すれば、人間と人間の関係は、それこそ人間の数だけあると思えるし、設計の指針としては創造的なものとなるであろう。

でもまあ住宅そのものだけでもないだろう。低収入の弱者なのだから、街にうまく寄生することが大切であろう。そういう意味では、商店街、スーパーマーケット、図書館、フィットネスに歩いて行けるところに小さな住まいをかまえたいものだが、すると戸建ては無理で、やはりマンションであろうね。

団塊の世代のひとびとは、帰農したり、自給自足したりするのが理想であるが、これはこれでけっこう大規模な投資と回収の構図である。ぼくたちの世代はちと違うであろう。徹底して省コスト型であるが、豊かさの指標を変えることで、生産的であろうとする。

これからの日本は情けないいろんなことがおこるであろうが、そのなかで豊かな小宇宙もたくさんできるであろう。それが隠居ハウスに期待されるものなのかなあ?

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2010.03.23

デザインレビュー2010

日曜日と休日、伊東豊雄さんが設計した「ぐりんぐりん」で開催された。せんだいメディアテークとともに、卒計展は伊東建築でもっている?

今年はエントリーが殺到して200近くいったのでしめきったそうである。システムそのものを遮断したとのこと。とりあえずほおっておいてどこまで増えるか見守るという手もあったと思うが。ともかくそんな熱意を反映して面白い作品が多かった。

テーマは全部違うが、1時間ですべての学生作品をチェックし、20ほどに絞り込み、さらに2時間でインタビューして内容を知る。するとバラバラであるもののなかから、最初はぼんやりと、でもしだいにはっきりと、あるイメージがぼくの脳裏に浮かんでくる。

総評のなかでも話したが、教師としてつきあう学生は、ひとりひとりはボキャ貧だったり、理解が足りなかったり、センスがなかったり、誤解していたり、とても頼りないが、でも学生がたとえば世代的なある集合を形成したとき、その集合的思考とでもいえるものは絶対的に正しい。・・・そんなことに喩えられるだろうか。その「あるイメージ」は。それは「ニッチ」というタームで括られる。

デパートといった都市建築の本質は立体グリッドであるが、その構造はたもったまま、肉厚を変えたりして密度の分布を不均質にして、機能の混在をはかろうというプロジェクトは、キュービックな空間のひとつひとつが微妙に異なっている、都市のニッチになるのである。

道路も幅員1メートルしかない超高密度住宅街のなかに、居間のような広場のような共同空間をつくろうというプロジェクトは個人生活という海のなかの近隣的なニッチである。

無人島にいわゆるパラパラ(森山邸のような建築)の葬祭施設を建設するプロジェクトは風景のなかのニッチである。

葦の生い茂った川原にミステリーサークルをつくって、その身体的スケールを計測して、ミステリーサークルもどきの劇場空間をつくろうというもの。

穀物サイロをあたかも縦坑の地下空間によにして、その迷路のなかに小さいニッチ空間や浴場をセットして癒しの空間をつくろうというもの。

お城の本丸跡地に、部屋=ハコを積み上げ、その隙間を採光や通路などにして、高密度な錯綜したあんどん部屋集合体をつくろうというもの。窓のそとには1メートル先に隣人の壁がある。そこに反射したわずかな光が室内にはいってくる。

農村集落のなかに小さな小屋をいくつかつくって、ミニ書庫、共同レストラン、などさまざまな共同施設をつくろうというもの。村落空間のなかにちいさなニッチをたくさんつくろうというもの。

・・・これらのニッチは、ローマの地下墓地にも、象徴的な棺にも、あるいは秘密の花園的なおとぎ話的な個人空間のようなものにも、ひょっとしたら村上春樹の「空気さなぎ」にもたとえられるであろう。

社会性がないのではない。地域社会、文化遺産、共有される文化、そうした諸課題はしっっかりと想定されている。ただこのようなプロジェクトはそうした明るく正しい使命を果たそうとしてがんばっている。しかしこれら学生作品が集合的に働きかけてぼくの脳裏につくる像は、若者たちがいろいろがんばりながら、無意識的に、落としどころとして、どこかにそんなニッチをさがしもとめ、そのくぼみにみずからを置いてみようとする光景であった。そのニッチは、癒し的かもしれないし、黙示録的かもしれないし、快楽的かもしれないし、思索的かもしれない。いまのところはなんとも決定的な形容のしかたもないものだが。

学生たちはしらずしらずのうちに、自分たちの心のなかに投影された時代や社会を描いているのではないかと感じたものであった。それは彼らもまた大きな問題を背負い込んでいるのではないかと感じさせるようなものであった。

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2010.03.16

『ムンダネウム』

ル・コルビュジエとポール・オトレによる「世界都市」プロジェクトの本である。翻訳者からいただいたので、帰りの飛行機のなかで読んだ。

1920年代後半、ジュネーヴ近くに構想された世界の知の中心であり、ミュージアムや図書館が構想されていた。螺旋状のプランは、東京の西洋美術館などのプロジェクトとなって実現している。

第一次世界大戦ののち、タウトは《アルプス建築》という、戦禍から隔絶した一種のユートピアを構想した。どちらかというと遁世的なもののような印象である。いっぽう「ムンダネウム」は国際連盟に刺激をうけたのか、むしろ積極的であり、世界がもしひとつになるなら、ひとつの文化、ライブラリー、知を共有すべきであるというような構想である。

19世紀は終わった、19世紀もグローバルであったが20世紀は別の形態の、あるいは真の(ひとつ文化、精神、文明を共有するのだから)グローバル化を実現できるというように、おそらく思えたのであろう。ちなみにグローバル化とはフランス語では「モンディアリザシオン(世界化)」である。「ムンダネウム」はラテン語ではないかと思われる。

西洋の文脈ではとくに突飛なものではない。ふるくはアレクサンドリア、19世紀初頭ではブリティッシュ・ムージアム、最近ではアマゾンによる書籍デジタル化による地球政府の構想など、人類の「知」をひとつに統合するという発想はつねにあった。

アレクサンドリアは新プラトン主義の坩堝となった。この古代思想はルネサンスのフィレンツェで復活し、ハンブルグのワールブルグ研究所の蔵書となって、20世紀の哲学や芸術理論を構築することになる。

であるなら「ムンダネウム」が建設されていたら、そこではどんな思想やヴィジョンが構築されていたのであろうか?興味のコアのひとつである。

個人的な興味は、その全体プランである。開放的ではなく、区画に区切っていて、むしろ閉鎖的である。バベルの塔のような、ジグラットのようなミュージアムは、タイゲが機能主義的でないとして批判したものの、まさに機能的でないところに意味があるように思われる。

全体はひとつの庭園として構想されている。それはいくつかの「閉ざされた庭」のあつまりとして構想されている。とくにバベル塔もどきの前は、ひろい「サンクンガーデン」である。ぼくはこれが重要だと思っている。閉ざされ自律した空間である。これは中世的庭園、中世修道院の回廊、あるいはイスラム世界によく見られる中庭型の教育施設や宗教空間すら連想させる。これらの空間において、古代の英知は保存され、近世・近代に伝えられたのであったらから。

もちろんこのプロジェクトは現代的でない。デジタル化とネットワーク化で、自分の書斎がそれぞれムンダネウムである。それはこうゆうことであろう。『読んでいない本について堂々と語る方法』で指摘したとおり、イマジナリーな共有図書館だろう、ということである。そして読みかけの一冊の書籍も、この全体ライブラリーの一冊であるならば、ぼくたちはつねにイマジナリーなムンダネウムのページをもくもくと読んでいることになる。そして目の前の見開きから、全体図書館への昇華するためのイマジネーションがリテラシーというものの一部なのであろう。

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2010.03.14

Y-GSA公開シンポジウム「住宅」

3月13日(土)の午後、横浜YCCでシンポジウムに参加した。山本理顕さんに呼ばれたのでよろこんで参加させていただいた(山本さん、チューリヒ空港コンペおめでとうございます)。

ぼくの発表はフランスの19世紀におけるさまざまな住宅プロジェクトをいくつか紹介するもの。ぼく的にはオスマンではなく、民間の業者が開発したあまりしられていない街区がじつはいまのパリを構成してる、すくなくとも都市パリの「地」を構成している、というようなことからはじめたかった。あるいはパリ19世紀というとオスマンのパリ改造ばかりが注目されるなか、いろいろあったんだよ、ということもいいたかった。

じつは撮りだめしている写真がいっぱいあって、自分でもじっくり見ていないものも多く、それらを紹介するという意味もあった。

ミュールーズ市や、ギーズ市の労働者住宅、パリ郊外の田園都市などは現地でじっくり観察したので、写真もそこそこいい。若い学生たちにとっては知らざるフランスの一面であろうと思う。プレゼはとにかく写真をたくさんみせた。

結論としては3点あらかじめ用意していた。

(1)フーリエの「情念」を建築史・住宅史の立場からどのように解釈するか?

ぼくは「情念」とは、世界の基底にあって、世界のなかのさまざまなものの基盤となっている普遍的で抽象的ななにか、だと思うようになった。それはマルクスにおける資本や貨幣、ライプニッツにおけるモナド、デミクリトスにおける原子、古い物理学におけるエーテルのようなものである。世界は情念と情念でないものに分割できるのではない。基底となる「情念」がさまざまま形態をとって、異なるものとなって、世界を構成する。そのような基底的で、ある意味で流体的なものなのであろう。

「情念」とは、人間の意識がなにものかに向かうその欲動のようなものであろうし、他者をどのように関わってゆくかという人間の根本的指向性のようなものであろう。だからこの普遍的・基底的な「情念」を、ある形態に編集すれば「家族」になるし、別の形態なら「共同体」になろうし、また別の形態なら「アソシエーション」となろう。

そして19世紀のさまざまな住宅プロジェクトがきわめて多様であるのは、こうした基底的「情念」を編集する、その編集の仕方が多様であったというように書き換えることができるのではないか。

(2)民間事業か公共事業か?

これは通説どおり。19世紀は民間の活力によって開発がなされた時期である。オスマンが強権によってパリを大改造したとはいえ、彼は資本の力を活性化したのであった。そして19世紀の民間開発の時代、国や地方公共団体は住宅という民業を圧迫してはならないということで、日本でいえば市営住宅や県営住宅や公団住宅に相当するものには手をつけなかった。

ところが20世紀初頭になって、住宅の不足や、それからサニタリーや個室といったものが普遍的に住まいの基準であると考えられるようになって、公共もまた住宅建設に直接かかわらざるをえなくなった。フランスでは、地方自治体に従属する住宅供給公団のようなものが、国から財政支援を受けるというかたちで、公共住宅が提供されるようになる。両大戦間のことである。これをもって近代住宅の形成と考えて良いであろう。

(3)19世紀は20世紀の前段階か?

このように20世紀は普遍化を目指していった。たとえば最小限住宅などである。それにたいして19世紀は多様であった。反面、過渡期的であるにすぎないと考えられてきた。しかしその多様性にも意味があるのではないか。とくに21世紀は人口減から建設チャンスもすくなくなる。新規の建設で実験する機会もとてもすくなくなる。そのときにほとんどが挫折したかにみえる19世紀のいろいろな実験もなんらかの意味を与えてくれるのではないか。

などである。ぼくの発表はこんな感じであった。

小林重敬先生は都市計画制度の歴史と、土地所有の問題、目下取り組んでいるまちづくりの話しをしていた。オーディエンスにいた憲法学者から、私的土地所有の絶対性について解説があった。これはとても重要な問題提起で、勉強になった。ぼくも素人とはいえ、たとえばドイツにおける土地公有の制度がもたらす都市の統一性、日本における私的所有の絶対性がもたらす都市の貧困、などは学生のころから教えられていた。それが今でも困難な構図としてあるということだ。でもそうであるなら、フランスの19世紀後半に、労働者たちを不動産所有者にしたてようとした政策があったこと、しかしそれが失敗したこと、の歴史的解釈はもっと考えられていいように思えた。

梅本洋一先生からは、劇場空間、オッフェンバック、パサージュについて専門家の立場から解説があった。近代の劇場空間とは近代人の鏡像関係的な自画像であり、いわば都市の自意識なのである。

桑田光平先生からは、ベンヤミンのテキストを専門のたちばから解説いただいて、勉強になった。とくにフランス語/日本語のバイリンガルで解説していただいたのはとても参考になった。つまりフランス語のほうが意味が広いので訳しきれない。たとえばL'interieur va mourrir.を「室内はダメになりそうだ」と訳すのは平板だが「内部は死滅するであろう」ならさまざまな領域に拡大できそいうだし、「内面は死にそう」とすると深刻である。つまり原語のほうがいろいろな解釈ができて、建築的にも広げられそうだ。まあ余裕があればそんなこともできますかね。

二次会は山本さんの空港コンペのはなしやなんかで盛り上がった。桑田さんとも話したが、ぼくのフーリエ理解はそんなに間違ってもいないそうである。元気いただきました。

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2010.03.09

卒業設計日本一2010(長崎から仙台を見守る?)

同僚のU先生にメールで教えてもらったのだが、ぼくの研究室4年生のSくんが、仙台で開催されている卒業設計日本一決定戦で2位だったらしい。予選からずっと最高評価であったが、最後の最後で2位になったという。でもすばらしい。

なにはともあれ、おめでとう。

でも本人からはなにも連絡はない。ぼくはぼくで、インターネットですぐ結果を確認できるということに気がつくのに、2日かかったりする。そもそもいつ開催かも知らなかった。このおおらかさがぼくの研究室のいいところである。

ぼくの研究室では歴史をやっているのであって、設計が専門の先生は別にいる。それでも福岡学生デザインレビュー優勝者2名、SDレビュー賞受賞のべ2名(ひとりが2回受賞)、それから今回と、がんばっている。歴史研にしては。

ぼくの教育法はかなり恣意的で、とことん批評したり、自由放任したり。学生にとっては摩訶不思議であろう。しかし断固として阻止しなければならない場合と、成長をけっして邪魔してはならない場合があり、はっきりわかれる。ぼくは断固として使い分ける。しかたない。

せんだいデザインリーグの経過については、学生たちのかたずをのんで見守っていたようだ。同日は建築学会の支部研(長崎)が開催されていたが、学生たちはずっとフォロウしていたようである。

そういえば長崎の学会では、研究集会で支部研コンペの総括についてしゃべった。「アーバンフィジクス」というテーマであったが、テーマの解釈こそが勝負、どこまで本質を掘り下げてゆくかが、勝負、というようなコンペであった、福岡天神フィットネス計画、電気自動車による景観変換プロジェクト、焼き鳥による繁華街におい分布プロジェクト、などが印象的であったなど、くだらないことをしゃべる。

そういえば学生の研究発表でなにが印象的であったか。古代ギリシア劇場の柱の石材が部位によって違う(ルネサンス以降は基本的に同素材であり抽象的な表現となっていることが古代とのおおきな違い)、アムステルダムのアーティスト共同体に市が支援していること、佐賀県の建築保存(法制度を勉強しているが、そもそも法制度を変えたほうがいいんだけれどね)、ニューバビロンについての発表(ローマ的理念があるようにバビロン的理念もあると思うのだが)、などである。

日曜日のことを火曜の夜に書くのもおおらかだが。これもぼくの研究室らしくて、よいのである。

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オスカー・ニーマイヤー《ミナスジェライス州政府庁舎》

ブラジルのミナスジェライス州。州都ベロオリゾンテ市 にある《Tancredo Neves州政府庁舎》が完成した。WEB版ル・モニトゥール誌記事によれば。

メガストラクチュアである。巨大なアーチ橋のようなの構造体があって、そこからスチールの吊り材によって空間がつり下げられている。フロアは4層で、その長さは147メートル。

ある意味で、巨大橋梁という20世紀的なものと、均質空間というもうひとつの20世紀的なものの組み合わせである。こうした発想は60年代には顕著であった。50年後、ふたたび復活したのか。建築家の頭のなかにありつづけたのか。

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オスカー・ニーマイヤーはことし102歳だそうである。ル・コルビュジエの弟子筋(事務所勤務ではなかっが影響を受けた)であり、共産党員でもあった。代表作はブラジリアであり、これは世界遺産に1987年にすでに登録されている。

「自由な曲線」。とりあえずこれはモダンアート系とはいえるであろう。しかし本質的には、南アメリカ大陸のその大陸的スケールに拮抗するために描かれる曲線であろう。ランドスケープとの対話をぬきしにてはそれは語れない。つまり大規模構造物が描くこの自由な曲線の背景には、大陸の地平線と水平に広がってゆく大地があるのである。

それは20世紀の構図とパラレルである。

つまり人間は均等に配されたスラブとスラブのあいだの、均質な空間にいる。ここでダス・マンとなる。しかし建築パッケージは古代的なものとなる。

日本も終戦後、一時期、古代的なイマジネーションが復活した。弥生・縄文ということもそうであった。民衆、民主主義の源像として古代的なイメージが喚起されたことがあった。

ニーマイヤーもそれを意識したはずである。さらにこの「古代的な」源像は、西洋の文脈では、結局のところ「古代ローマ的なもの」に収れんしてゆく。そう考えればこの州政府庁舎のアーチも凱旋門にように見えなくはない。

ブラジリアをそのような古代都市イメージの観点からみてゆくと、また別の印象をもつことができる。これは、いわゆるモダニズムではなく古代的だ、ということではない。いわゆるモダニズムのなかにさまざまな文化表象がすでにプリントされている、ということなのである。

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2010.03.08

中沢新一『純粋な自然の贈与』

初版は1996年。2009年の文庫本を読んだ。「贈与」と「等価交換」との違いをやさしく解説してくれるだけでなく、その射程のおおきな違いまでも明らかにしてくれる。

等価交換は、たとえば貨幣で商品を購入することである。デジタルで、論理的で、機械的で、合理的な世界である。計量的、あるいは情報的な世界だともいえる。

ところが等価交換でできる合理的なプロセスだけでは、資本が拡大再生産するといったことは説明できない。贈与は、捕鯨、ゴダールのマリア、剰余価値論、バルトーク、などの背景に流れる真理なのである。

さて思索としてみると、「建築」がある意味で「贈与」である、贈与であるかのようにみえることは平板すぎるほどの真実であるようだ。

新しい建物が目の前に出現することは、神からの贈与であるように感じられることがある。施主と、資金繰りと、施工業者にかんする情報を知っていたとしても、面前にある巨大な物的秩序は、軽い奇跡のように感じられるであろう。

図書館や学校といった公共建築を使う者は、やはりそこに贈与性を感じるであろう。たとえ納税者意識が合理的な説明をすることがあっても、すくなくとも金銭と等価交換をしたはずだという意識は襲ってこないであろう。

サステイナブルな建築は、前の世代からの贈与であろう。

というのは建築は等価交換という合理性からはかなり遠いのではないか。土地を購入する、建材を購入する、労働力を調達する、月いくらで貸すといった個々の行為はすべて等価交換的であり、計量的である。しかしピラミッドも大聖堂もつねに観光客が支払う旅費という価値を生み続けるのであり、それは建設時には予測できなかったものである。だから建物の収支決算は、けっして予測できるものではない。だから建物は、等価交換では決してないのである。

建物は、等価交換では決してない。一個の建物の両側には、得をしたひとと損をしたひとがいる。だから損をした人は、得をした人に贈与をしていることになる。すべての人に得を与えた建築もあるかもしれない。

建築は、本質的にそして必然的に、市場原理を超越している、なんてことにならないかな。だれかそういう理論を構築してください。

そうなると建築は、これまた必然的に、霊的なもの、オーラを帯びたものとなる。建築を物語ること、鑑賞すること、思索することは霊的なものに触れようとすることにならないか。

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2010.03.05

ヘルツォーク&ド・ムーロン《ヴィトラ・ハウス》

ル・モニトゥール誌のWEB記事によると、バーゼル市郊外に彼らが設計したオフィスがオープンした。ヴィトラの不動産部の編集者たちのためのオフィスということである。

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ヴィトラ社の住宅部門のためのオフィスであり、断面がいわゆる「イエ型」である。なんのてらいもない表象的表現ではある。悪くいえば、キッチュすれすれである。でも塀の内側には落ちない。すんでのところで。なぜだろう。

室内写真をみれば、相互観入するボリュームがおもしろい内部空間を演出していることがわかる。見下ろす/見上げる関係ができる吹き抜けの空間である。

また普通の家型とはネガ/ポジ関係といえよう。風景がイエ型に切り取られるからである。このあたりが作家性の主張であるといえようか。室内からは、ドイツの平原がこのイエ型に切り取られて見える。プラダ東京もまた、室内から見た景観が演出されるようになっている。そういう共通点はある。

現代の建築家はかつての時代よりももっと「自分ブランド」「個人ブランド」をもたなくてはならない。かつてはアール・ヌーボーも、アール・デコも、デコンも、業界公認の流行スタイルのようなもので、その共通言語のなかの差異を作家が競っていた。現代ではそのような意味の「スタイル」はない。「個人ブランド」は芸風のようなものかもしれない。作品ごとに新機軸を打ち出しつつ、それでも、ああ、あの建築家だと理解されなくてはいけない。ある建築家にとってはアプローチの形式かもしれない。コールハースが徹底的なスタディによるように。べつの建築家にとっては評論界と共有している思想が背景にあること、なのかもしれない。

ただこの「イエ型」はどうか?

ヘルツォーク&ド・ムランはこれまで構法や構造において独自の方法があって、それを表現しようとしてきた。つまり構造と表現は不可分であるような場合が多かった。しかし今回は、ボリュームの相互貫入ということのなかに工夫があるかもしれない(構造はよく知りません)。しかし表現はそれとまったく乖離したものになっている。

そういう意味ではちょっとあぶない作品なのではあろう。学生には勧められないね。

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2010.03.03

SANAA《ロレックス学習センター》

気分転換のWEBサーフをしていたら、ル・モニトゥールの記事にであった。2010年3月2日付けの記事である。

レマン湖近くにあるローザンヌ連邦工科大学の付属施設である。それが竣工したというニュースで、インタビューもあった。

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大学関係者として考えると、こういう施設はほんとうに学生のためになると思う。学生は大学のなかで「自分の場所」をみつけたいものだ。研究室に入ればそれができるが、日本だと1年生から3年生までは場所がない。だから食堂やなんかにたむろすることになる。大学が用意するいわゆる福利厚生施設はなんとなく官僚的だ。だれもなじまない。

ロレックス学習センターは、まず学生が身体的に自分の居場所を見つけやすいように設計されていると推測した。そしてそこで本を読もうと、WEBを見ようと、PC入力しようと自由なようになっていそうである。

デザイン的には、伊東豊雄さんの《ぐりんぐりん》を思い出した。子弟でありながら、ライバル意識もあるように思えるし、しかしどこかで激励しあっているような、そんな雰囲気が垣間見える。

ル・モニトゥールの記事には妹島さんと西沢さんのインタビューがYOUTUBEで見れるようになっていた。ふたりのご説明も拝聴しました。いい時代になったものです。

ふたりのインタビューを聞きながら考えたが、コールハースの傾斜した床はほとんど図式以上のものではなくて、それがランドスケープと連動しているといった理屈は成立するが、それでも図式のままほっぽり出したような無頓着さがいいのであろう。それにたいしてSANAAのこのカーブした床は、知覚や身体感覚に及ぼす影響をとことん計算したものであるようだ。自分の身体的近傍からおなじ建物のさまざまな場所が、微細なニュアンスをもって知覚されるであろうし、隣のテーブルに移っただけで周囲の景色が変化しそうなところでは脳が心地よく刺激されて学習効果はあがるであろう。

すこしまえのぐにゃぐにゃ系とはちがって、身体インターフェースがきちんとスタディできているという印象であり、そのスタディへの信頼が、SANAAにはあるといったことであろうか。

さらにいえば近代以降の建築は、技術、表象、情報へと拡散し、そのコアを薄めつつあった。ところが身体性が重視される建築とは、じつは古典主義のことであって、形態はまったくちがうが、そこになにかしら古典主義的なものが別のかたちで浮上するのではないか。

つまり建築が主人公になっている建築である。情報技術が発達して建築的な工夫が無意味になるはずという論調が多いなか、希望を与えてくれます。

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2010.03.01

サント=ベルナデット教会

面接のあいまに暇つぶしでみたWEB情報からである。

ヌヴェール市(フランス)にサント=ベルナデット教会というものがある。建築家クロード・パランと思想家ポール・ヴィリリオが設計。1966年に竣工した。

パランは建築家だが邦訳された『斜めの建築』にあるように、近代の合理主義者というよりは、19世紀に情念にもとづく理想社会を唱えたフーリエみたいな人である。ヴィリリオは「速度」概念を中心にすえて思想を構築するひとで、これまた近代の奇想家といったふぜいである。彼らがつくった教会堂は、マッシブなコンクリートがなるほど戦争のためのトーチカみたいだが、大胆なカンチレバーを使い、ボリュームや床を斜めに配しているところは、戦争建築らしくなく、むしろ思想の率直な表現といったところ。

この建物はだいぶ前に建築/戦争というような括りで話題になったことがあった。ヴィリリオ的側面が強調された紹介であったといえよう。

1998年にドキュメント映画が撮影された。Julien Donada 監督で「トーチカについて」と題されていた。

Eglise

2000年に歴史的建造物に指定されている。

2010年2月27日に、シャイオ宮の「建築・遺産都市」でその1998年撮影の映画が上映されるという。展覧会は5月2日までという。→Le Moniteur参照

ところで「聖ベルナデット」とはどこかできいた名であると思っていたら、思い出した。ルルドの奇跡を体験したあの聖女ベルナデットなのであった。彼女はスペイン国境の近い町ルルドで聖母マリアの姿を見、その声を聞き、それが妄想ではなく奇跡であるとカトリックに認定されたのであった。

彼女は奇跡を見たのち、このヌヴェールの修道院に移り住み、亡くなるまでそこにいた。

その修道院と、彼女の名が冠せられた教会堂のつながりは知らない。記録フィルムでは、教会堂はむしろ平凡な郊外住宅地のなかにあるようで、建設時期からすると、1960年代にスプロールした新興住宅地のコアとして構想されたのかもしれない。

ドキュメンタリーでは教会堂の内部が紹介されていた。厚い壁はふたつのレイヤーを構成して、光は間接的にはいってくる。内部はおおきく二つのカバーで覆われているようで、そのさけめがトップライトになってくる。彼岸性と、永遠性が感じられる。

ぼくは斜めや速度といった20世紀的発想よりも、こうした彼岸、永遠のほうをよりつよく感じるのではあるが。

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