« 『読んでいない本について堂々と語る方法』 | トップページ | 内なる建築アーカイブ »

2010.02.21

内田樹『日本辺境論』と「遅れ」

学生がけっこう読んでいるというので、目を通してみた。

なんでも彼は市場原理に反対している教育者であるという。学生が読むのもおそらくそういう背景があるのであろう。

ぼくも教育者として他大学の動向がときどき気になる。市場原理には従わないことをポリシーとして表明している大学もある。それさえ市場原理ではないかといわれればそれまでだが、お上が成果主義・市場原理を打ち出しているなかで、考えさせられる。

『日本辺境論』の前半は、著者もことわっているとおり、ありきたりである。大陸的「構築」と日本的「なしくずし」という、梅棹忠夫や丸山眞男から引用した日本文化論である。その開き直り的な再確認である。とはいえanyシリーズにおける日本的脱構築やサブカルの位置づけも同じようなことで、なるどほ著者のいうとおりおなじ構造の日本文化論を無限に繰り返すことこそ日本の構造なのである。

大陸と島。戦後は、アメリカと日本。という構築と反構築。しかしそれはそれとして、一部で指摘されているように、アメリカの都合で対米追従政策そのものがが終わってしまうと、辺境と居直ることもできなくなって、どうするのであろう?

それはともかく『日本辺境論』の要点は、空間軸を時間軸に変換したことである。

つまり中心/辺境という空間表象ではなく、先験的/遅れという時間表象に変換することで、別の論じ方を提供している。日本という地理的に辺境にある国家が、大陸の中央部にある大文明を学習するという地理軸をなくし、その後進国が先進国の文明を「学ぶ」ということを、すでにある知識の事後的な学習、といった時間の問題としてとらえなおしている。そのうえで身体論、武道論、レヴィナス論、レヴィ=ストロースのブリコラージュ論といった専門を展開していることである。さらにはカントの先験性の概念にまでふれている。なかなか参考になる。

なぜかというと『建築と時間』でも「遅れ」こそが建築的なものだと書いたが、じつは『辺境論』で書かれている「遅れ」に近いのである。もちろんぼくは建築やプロジェクトの成り立ちとして「遅れ」がキー概念であると指摘しただけであって、人間や社会のあり方まで言及するつもりはない。しかしとても参考になった。

ちなみに当ブログの「リハビリ建築」という概念もじつは「『遅れ』を取り戻す」という意味があるんですけどね。こちらはもっと平板な意味ですが。

内田樹は「学び」は「すでに知っていることを学ぶ」ことであるといったり、レヴィ=ストロースのブリコラージュ論に言及して、ジャングルのなかのがらくたを拾い集める原住民は、がらかたの使用価値を説明できなくとも、それらの可能な・潜在的な使用価値はすでに知っているのだ、というようなことを指摘している。

ぼくなりに建築変換をすれば、ぼくたちのなかには「内なる建築」「すでに知っている建築」がじつはあって、それが未来の建築である、ということになる。あるいはそういう「内なる建築」がある人間と、そうでない人間の2種類がいるのであろう。

|

« 『読んでいない本について堂々と語る方法』 | トップページ | 内なる建築アーカイブ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/33471337

この記事へのトラックバック一覧です: 内田樹『日本辺境論』と「遅れ」:

« 『読んでいない本について堂々と語る方法』 | トップページ | 内なる建築アーカイブ »