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2010.02.20

『読んでいない本について堂々と語る方法』

ピエール・バイヤールという人が書いた本。世界中で読まれているそうだ。これも勧められたので読んだ。おもしろかった。

シニカルな冷やかし本ではなくとても真摯な内容であった。テキスト論や主体論といったフランス現代思想もそこはかとなく導入されているようである。

「共有図書館」「ヴァーチャル図書館」といった表現があるように、本は一冊一冊よりもその総体・体系が重要である。つまり本の内部ではなく、外部が重要だというもっともな指摘からはじまる。

エーコの『薔薇の名前』が題材になっていた。ぼくはこれを読んでいないが、映画で見たのでよくわかった。中世の修道院で怪死事件がつづいた。修道院の図書館にあるアリストテレス『詩学』など古代文学を読もうとした人びとが、ページに塗りつけられた毒のおかげで死んでいったのであった。これは笑いを罪悪とかんがえた図書館書司のようなひとが仕組んだことであったが、主人公はその殺人をあばいてゆく。ふたりは古代の「笑い」をめぐって論争するが、バイヤールの指摘によれば、ふたりともじつはアリストテレス『詩学』などを読んだつもりでいてほとんど読んでいない。しかし彼らはその読書体験にもとづいて、論争し、古代文学/キリスト教倫理の対立を代表し、殺人事件の大捕物を展開し・・・というように物語はつづく。

つまりアリストテレス『詩学』の「非読」がコアとなって、『薔薇の名前』ができている。さらにバイヤールはその『薔薇の名前』をコアにして、自著を非読のすすめとする、という入れ子構造である。

とはいえバイヤール自身は『薔薇の名前』をよく読んでいると思われ、非読・非読といいながらちゃんとよんでいるね、という安心感を与えている。

このようにバイヤールは非読サンプルとして、『薔薇の名前』『エセー』『第三の男』『ハムレット』『吾輩は猫である』『ひなぎく』などをつぎつぎと紹介しており、なるほど、彼のおかげで読者はこれらの本を非読にして理解したつもりになれるのであった。

教訓をふたつ。

(1)共有図書館のなかの本は、部分冠詞のようなもの。

つまり本は、目の前の一冊一冊の本でもある。しかし古今東西のあらゆる本が集合したその総体でもある。目の前の一冊は、その総体のある一部であり、部分冠詞がつけられ得べきようなものである。

本の総体を読むには人生はあまりに短いので、ちゃんと読むごく一部と、非読の読をする99.999%を関連づけて、この本の総体、すなわち共有図書館の利用者となることが肝要である。これがバイヤールの主張である。

(2)「見ていない建築について堂々と語る方法」もあるのであろう。

たとえば「伊東豊雄さんがアジアの××市に大規模な透明建築をたてたんだって、なんでも外観が断面として表現されているらしい」という断片的な説明で、ほぼすべて理解できたつもりにならないかい?関係者ならせんだいメディアテーク、サーパンタインなどをつぎつぎに連想するであろう。ぼくたちはヴァーチャルな建築アーカイブを共有しているからである。

さらにこのヴァーチャルな建築アーカイブでは、伊東さん→透明→パサージュ→ベンヤミン→フーリエ→ル・コルビュジエ→マルセイユ→プイヨン→・・・といった自由連想も可能だ。アーカイブのなかの連想=ネットワークには無限の可能性がある。

そしてこれは建築関係者にとって不可欠の能力である。なぜならぼくたちは、たとえば学生が描いた未完結のプロジェクトについてじつに高尚なことを語ることができてしまう。目前の架空のプロジェクトも、わたしたちの「内なる建築アーカイブ」を刺激し、そこからつぎつぎに連想をもたらすものなのである。

であるなら「内なる建築アーカイブ」こそが建築であり、「建築」という超越であり、「建築」そのものなのである。これは20世紀初頭の近代運動における一種の建築イデア論とはまったくちがう位相にあるものであろう。

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