« 内田樹『日本辺境論』と「遅れ」 | トップページ | 磯崎新『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』 »

2010.02.22

内なる建築アーカイブ

連想ゲームというのはほんとうにいいものである。

バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』の感想を書いていたら、「見ていない建築について堂々と語る方法」はないものかと考えるし(これは永遠のテーマだものね)、そして「内なる建築アーカイブ」を構想するようになる。

もちろん日本では現実の「建築アーカイブ」はきわめて貧弱である。潜在的には各所に文献やら図面やらが散在していて、ポテンシャルはあるのであろうが、それをひとつのアーカイブにしようということにはならない。伝統的にそうなのである。

それはそれとして「共有図書館」の概念をとことん拡大したら、およそ人類が書いてきたすべての書籍そのものをいう。書籍総体がもし一冊の本である(メタ書籍である)としたら、ぼくたちはどの文献のどのページを開いても、そのメタ書籍のどこかを読んでいることになる。

これは生命観でいえば、ぼくたちは一人で生き、ひとりで死ぬ孤立した生命かもしれない。しかし同時に生命一般のなかのひとつであり、自分の生はだれかに引き継がれる、という考え方とよくにている。

西洋語でいえば「部分冠詞」であらわされるものの存在である。

宇宙のなかの水(H2O)はひとつ、というか、いろんな場所に偏在していても、やはり概念の上ではひとつながりの水であって、自分がもっているコップのなかの水は、そのなかの一部である。大海/一滴。その上位に「水」がある。

同じようなことが建築だとどうなるかを考える。

人類が創ってきたありとあらゆる建物総体が、一種の建築アーカイブであり、いや建築そのもの、共有建築アーカイブとすれば、目の前の一個の建物は、総体としての建築の一部であり、それは「部分冠詞」がつけられるべきものとなる。もちろん現行の言語上では、不可算名詞としてのarchitectureはあっても、部分冠詞のそれはない。あるのは可算名詞としての用例はある。ただ可能性としては部分冠詞つきの「建築」があってもいい。

ヴィクトール・ユゴーが『ノートル・ダム・ド・パリ』を書いたとき、彼にとってのゴシック建築はひょっとしたら「共有図書館」のなかの一冊であったのではないか。ということは彼は内なる建築アーカイブをもち、面前の建物はそのなかの一部として認識していたのではないか。

この総体としての建築には、存在するものも、存在しないもの(壊されたもの)も含まれるであろう。それから人間が意識したものも、意識しないものもあろう。後者は、まだ建設されても構想されてもいないが、これから構想するもの、でもある。

おそらく、すくなくとも理論的には、こうした総体としての建築、というものがあれば、現代建築といわゆる歴史的建築がまったく相容れないということもなくなるであろう。

「建築とはなにか?」という問いへのミニマリズム的回答(初源の小屋などといった)には限界があることをみんな知っているし、これは過去の概念である。可能な限り最少の概念による定義が破綻した以上は、最大限の可能性を追求すべきであろう。そうすると事態は、逆説的に、とてもシンプルになるかもしれない。

データベース的、動物的と揶揄されるのがいやならそういう道もあるかもしれない。

|

« 内田樹『日本辺境論』と「遅れ」 | トップページ | 磯崎新『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/424713/33469625

この記事へのトラックバック一覧です: 内なる建築アーカイブ:

« 内田樹『日本辺境論』と「遅れ」 | トップページ | 磯崎新『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』 »