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2010.02.01

ドミノとタイポロジーのはざま

先日、知人から自宅に電話がかかってきて、話題のついでにぼくのブログのことになって、投稿頻度が少ない、話題が偏っている、時事的テーマにもっとふれたらどうか、建築雑誌の作品評でもいいんじゃない、と御アドバイスがあった。

そういえばぼくって、ほんとにいいかげんだ。頓挫しているシリーズものもいくつかある。そこはそれ、ブログははじまりもなく、終わりもなく、なんとかいけますよ。とはいえそういう一言でつい、なびくのである。

そこでS建築誌2月号からである。

アトリエ・ワンの《フォー・ボクシーズ・ギャラリー》が巻頭であった。ヨーロッパ的な質素でありながら豊か、という感じがつたわっている。コンセプトは4重の入れ子構造になった空間構成である。

これはアトリエ・ワンにとっては《奥のない家》でいちど構築した図式である。この原型となったものはコンパクトな立方形であったが、それがここではデンマークのランドスケープのなかにのびやかに展開されている、芝生を見る窓、空を見る窓、といった仕分けが気持ちいい。

こうした「図式」はほどよい普遍性をもっている。

つまりル・コルビュジエの「ドミノ」のようなあらゆる建築に普遍的に妥当するほどの徹底した普遍性とくらべると、そこまでではない。しかし建築類型学におけるように、ひとつの平面タイプがある特定のイデオロギーや社会集団を示している、たとえば町屋にはそれに住むべき階級が住む、といった厳格な対応はない。つまり「図式」はドミノ的普遍性と、「タイポロジー」的厳格さの中間に位置する、ほどほどの適切な妥当性をもっている。

じつはこのことは修論生の指導をしていて説明したことなのであり、世界のリーダー的建築家にはあるていど見られることなのではあるが、アトリエ・ワンが探求する図式も、そうしたゆるやかな普遍性をもっていると思った次第である。

もちろん彼らが都市の境界条件、しかも建築を建築たらしめる境界条件にきわめてセンスティブであり、そこから論理を構築してきた。しかしそれは際限ない個別解となるようなものではなく、いくつかの「図式」となるようなものであった。

これはラング/パロールのあのやや旧式の図式においてみれば、慣用句、レトリック、比喩、などに相当するものなのであろう。そしてそれは物語、寓話、などを豊かにするには不可欠のものである。

そう考えると現代建築家たちのアプローチを歴史的に位置づけることもできるように思える。

もうひとつは前田圭介さんの《アトリエ・ビスクドール》であり、最近の微分的建築のひとつであるともいえる。ただここでは、それが家具、植生、外屏、風景(空)、天井といったはっきりしたレイヤーと対応していて、納得感が違う。そのことによって書架、庭の木立、住宅地風景、空が、なんの媒介もなく遠景/近景の重層構造になっていることが新鮮な印象を与える。そういう意味ではこれもまた入れ子構造なのだが、外層と内層がきわめて圧縮されて接触せんばかりに隣接している。

伝統的な住宅と比較すれば、鴨居や長押を消去することで、文化的枠組みとして残像のようにあった居室の輪郭を消した、というようなことであろうか。

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