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2010.02.16

藤森照信『21世紀建築魂』

・・・なんて本も読んでみた。ぱらぱら。ふむふむ。

あいかわらずの藤森節である。赤派/白派。完全なる抽象へとむかう漸近線。生命的なものから数学的なものへ。というような歴史観が披露されている。

これらの二元論はもちろん近代芸術などにおける具象/抽象、伝統/近代などといった二元論を下敷きにしているとはいえ、そんな構図性そのものはもはや意味がない。

赤派/白派などはむしろ藤森式「まな板」なのであって、それそのものは無骨な木の板であっても、料理する腕によってよい料理ができてゆくのである。

アトリエ・ワンとの対談で、いよいよ藤森さんは塚本さんたちを今和次郎の後継者として認定したのであるが、これは外野からみると既定路線。ただ当事者どおしが対話したことの事実性はある。若手のなかでは、塚本さんだけが藤森さんをかわいがって話しているといった感じである。どちらがどちらを包容しているかに注目して読むと面白い。塚本さんはすごい人である。

五十嵐淳、岡哲輔、三分一博志さんたちのように、いわゆる日本建築家山脈とは無関係にキャリアをはじめた建築家たちとの対談は貴重であると思う。かれらのアプローチを安易に流派におしこめてはいけない。

最後に収録されている伊東豊雄×山本理顕×藤森照信の鼎談は、なんというか、おたがいに技をとことん理解し合っている者どおしのプロレス的議論なので、なんというか、技は見事に決まってゆく。

伊東さんの論も、山本さんの論も面白いが、彼らの建築論はまた別のブログで書きたい。

面白いと思ったのは、若手との対応のしかたがそれぞれ微妙に違うことである。

伊東豊雄さんは若手をライバルだと思っている。発想の大胆さや、どんどんコンセプトを変えてゆく積極性があり、だから若手を批評するときもけっこう辛辣である。やさしい表現ではあるが、「秩序化の論理がない」なんていう評は、建築になってないのではないかい、といっているのと同じで、ぞっとするほど厳しい。でも合同卒計発表会などでは学生をいかに伸ばすかを考えるよい先生である。

山本理顕さんは、論理をかっちり構築してしゃべるので、あたかも、君もぼくとおなじ意見なはずだ、というようなことをはじめから自明視しているような感じ(もちろん異なる意見は認めるが)。若手とは同年代の同士としてつきあっているような感じ。でも根本的に思想が違うことがわかると鉄槌がおろされそうなちょっと怖い感じもする(でも優しい人であることをぼくは知っている)。

藤森照信さんは、好々爺のようにしゃべっているようで、話しが最初から地球を何周もしていて、若手はそれを地上から見上げている感じ。でも藤森さんの枠組みのなかで若手はかならず自分の居場所を見つけられるので。包容力万点である。

巨匠といってもそれぞれ偉さの中身が違うようである。

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コメント

1994年のGAJAPAN11に掲載された、藤森さんに関する貴兄の鋭い建築批評『エンタシス症候群』を思い出しました。
藤森さんもアトリエ・ワンも巷のチョッと変、なんか変の建物モニュメントの探偵で出世したところで同胞もしくは世代間での同じ遺伝子を共有するものと私なりに認識している。それで両者の間には仲間意識があるのではと思う。
なので、巷の日常性の中に普遍を求めていた今和次郎の流れを汲むということに違和感を覚えるのは、私だけであろうか?
藤森さんはベネチア建築ビエンナーレで奇妙で変な建築を造る建築家としてスペインの新聞にも大きく取り上げられたが、まだ、建築家としての自身の建築作品の説明責任は果たしていないように思う。
他人の建築作品を赤/青と断じる前に、堀口捨巳や篠原一男の様に『リトル・アーキテクチャー』自身の建築論を展開してほしい。

好々爺=巨匠になるのはまだ早いのではと思います。
土居さんの新たな藤森論も期待しています。

投稿: ユーイチ | 2010.02.17 08:28

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