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2010年1月の7件の記事

2010.01.30

1Q84から読む建築

・・・というタイトルで講演をした。

ドネルモという、同僚である哲学の先生が座長になっていて実態上は学生たちががんばって自主企画的なことをやっているユニットに依頼されてのことである。

(1)村上春樹本の読書体験ということ

(2)1970年代ということ

(3)物語の場所ということ

(4)パラレル・ワールドということ

(5)物語ということ

(6)現実/虚構ということ

(7)終末ということ

(8)共同体ということ

 という8つの小テーマを事前に用意し、スピーチ内容をいろいろメモしておいた。時間の関係もあって前半の内容だけについてお話しした。

(1)ぼくの村上本読書体験について

これは人様に自慢できるようなものではない、ということの説明である。1987年、『ノルウエイの森』が書店に平積みになっているのをみていわゆる村上現象を体験するが、すべてのなんとか現象とおなじように、素朴な拒否反応をしめしたこと。じつは最近まで熱心な読者ではなかったこと、などである。

ぼくが読者になったきっかけは2年前に入院したとき、なにもすることがないので、文章が平易で読みやすい彼の小説を読み続けたこと、がほとんどである。

同時代人としては、阪神大震災とサリン事件をきっかけに彼がデタッチメントからコミットメントの方向に移行したということになっているし、『1Q84』も左翼運動、エコロジー運動、新宗教について触れていて、そういう意味でタイムリーな主題についてコミットしているかのように見える。

しかしぼくの感触ではそんな単純なコミットメントではないように思える。この小説が一種の小説内小説(『空気さなぎ』)であり、空想したことが現実のものになる、現実が空想をなぞっている(2つの月)ように、これは小説そのものをテーマにした小説ではないか。すぐれた芸術はほとんどが芸術そのものをテーマとする芸術となっているように。

小説内小説を現実の村上春樹が書く。そのことが作家村上を建築してゆく。そう考えるとこの作品そのものも現実をつくってゆくモーメントとなっている。

おそらく建築も、文学と似たような構図で、現実のなぞりではなく現実を構築してゆく仮想として構想されるのであろう。そう考えると、「村上春樹はいかに小説を建築しているか」という問いは、文学を参考にして建築を考えるというよりも、もっと建築の近くにひきよせて考えられるようなものとなる。

(2)1970年代ということ

大阪万博、三島事件、連合赤軍事件などが共通体験となるこの10年代、「天吾」も「青豆」も多感な時期をすごしたはずだ。ふたりはぼくの2歳年長であるにすぎない。ほとんど同世代人である。というセッティングである。

この70年代は大澤真幸が『虚構の時代の果て』で説明しているように、理想と夢の時代が終わって、資本主義がもたらす消費文化のなかですべては記号の問題として処理される世界となる。このことは今の学生諸君にとっては学習して認識するような事態のようであるが、年寄りとしては、ポパイ、アンアン、インベーダーゲームなどが登場してきたのをリアルタイムで体験し、しかも最初からポパイなどのファッションマニュアルは本質的になんちゃってファッションなのであって、そうした醒めた距離をとった情報とのつきあいかたをすべきということは、当時の(ぼくをふくめた)若者たちにとっては常識であった。だから記号の戯れ、虚構などということは、分析以前の、ごくごくストレートな現実描写なのであった。

だから当時の国民的しきたりとしての大学入学、上京というプログラムのなかで、東京にやってきた18歳の若者は、「自分というものはひとつの「無」でしかない」(ぼくがつくった文章)ということをなんの悲壮感もなくあっけらかんと認識するにいたる。村上春樹の小説がときには古典的な自己形成物語のようにも読めるというのはそのとおりであるにしても、それはほとんど無からの「私」という虚構の構築、でもあるような自己形成なのであった。

それが「天吾」と「青豆」のプロットなのである。ふたりとも共同体からも家族からも最初から切り離されている。天吾は、母親がいなかったし、育ての父親も実のそれではなかった。彼は房総半島の先端にある施設にいる父を見舞うが、それは実の親子関係ではなかったことを確認するためであった。青豆もまた新宗教にはまった両親から去ってゆく。つまり日本の近代文学では、私や自我が、いかに共同体(伝統)や家族から独立して自律するかが大テーマであったのでが、村上の小説では最初から自由であることが前提なのであって、言い換えるならまさに無としての自分、なのである。

(3)物語の場所ということ

場所のプロットはある意味でステレオタイプであり、わかりやすい。

 天吾は高円寺に住んでいる。予備校講師というセッティングも、大学紛争を体験した世代なら、一種のドロップアウトの形式、体制との距離のとりかたという意味で常套的なパターンであった。高円寺にいればお茶の水にも代々木にも通勤はらくである。さらに中央線知識人という言い方もある。やや左よりで、善良で意識の高いひとびとが沿線にはすんでいるというイメージである。そして高円寺に住むということは「新宿文化圏」なのである。そして学園紛争時代、新宿駅やその周辺でしばしば騒ぎがおこったように、どちらかというとジェンダー的には、男性的、青年的な場所なのである。だから天吾は新宿的なものを代表している。

 それにたいして青豆は、自由が丘のジムでインストラクターをしているように、「渋谷的なもの」を代表しているように思えるし、パルコ、東急文化村、東急ハンズ、渋谷109と連想すればわかるように東急的なものを示している。それは渋沢栄一や五島慶太がはじめた田園調布の正統な嫡子なのであって、その東急帝国のなかで青豆はパラサイトしているのであった。

新宿的なものとは政治的なものであり、渋谷的なものとは経済的なものであり、資本制下での記号の戯れは、すぐれて後者のものであったろう。

それにたいしてふかえりと戎野教授が住んでいる青梅線の奥地は、首都圏内の非首都圏のようなもので、小説的には一種の異界をあらわしている。ぼくは4年間、立川に住んでいたが、もちろんつまらない偏見と自覚しつつ、あちらの方面はなにかそういうイメージなのであった。

それはともかく天吾と青豆との関係は、じつは政治と経済の関係であって、そこに青梅線奥地からくる反体制的なもの異界的なものがからんでゆく、という普遍的構図が見える。

(4)パラレル・ワールドということ

 これはぼくが日本建築学会と国際交流基金の企画としてやった『パラレル・ニッポン展』に引き寄せて説明した。

 この展覧会は1995年から2005年までの日本の現代建築100作品を海外に紹介するという企画であり、そのための作業を数年まえにやっていた。10年間のくくりをどうするか、苦労したあげく「パラレル」というコンセプトを考えた。

 せんだいメディアテークの伊東案と古谷案を考えるとわかりやすいが、おなじプロジェクトでまったくことなる2案がでてくる。最終的には伊東案だが、そのよさを認めつつも、古谷案でもよかったのではないか、という意識はずっと消えない。つまり現実をみとめつつも、そうではない別の現実もありえたのではないか、という意識がずっとある。つまり「パラレル」感である。

もちろんコンペには当選案よりも優れた落選案があることはしばしばで、歴史上はそういう代替現実というものはいつもある。

しかしぼくは1885年から1995年のくくりの同じ企画も担当したのだが、この10年間はそういう迷いはなかった。しかし1995年から2005年までのくくりを担当したとき、この10年間の代表的作品100選をみながら、これらから共通する傾向としてのキーワード、キーコンセプトはもはや抽出できない、と感じたのだ。それらはひとつの現実ではなく、現実と仮想現実(虚構)が何重にもレイヤー構造をなしている、パラレル・ワールドとして記述するしかないような事態として感じられた。そのようなことを提案したとき、さまざまなまとめかたうを議論してきた展覧会実行委員会委員たちの気持ちはすごく腑に落ちたのであった。

1Q84に登場するふたつの月は、小説内小説としての仕掛けであるとともに、村上春樹の小説がパラレル・ワールドをテーマとしていることそのものの構図を表現したものなのである。

ぼくの建築的実感と、小説の構図はほとんど同じようなものなのであろう、と思う。そしてこの類似感はどこに向かうのか、なにを意味するか、いろいろ展開の余地はありそうである。

・・・ここまで話したら時間が尽きてしまった。(5)から(8)は機会があったら話してみることにします。オーディエンスからの質問もとても参考になって勉強させていただいた。

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2010.01.27

建築史の書き方

建築史とは建築の歴史である。

しかしこの場合の「建築」とは、いわゆる大文字の建築であり、超越であり、理念である・・・。

というように書くとすごく頭でっかちの話しをしているように感じられる。しかしこれはフツ-なのである。

最も凡庸な様式史、つまり和洋、新和洋、大仏様、禅宗様、折衷様・・・、あるいはロマネスク、ゴシック、ルネサンス・・・・といった書き方でさえ、とても抽象的で、理念的なものなのである。

つまりこれらの様式は、個々の建築の血液型や国籍などといったはっきりカテゴリーで規定できるものではなく、いわば「ものさし」を決めているだけである。「ものさし」は定義上、純粋である。しかし個々の建築はとても不純なものである。

たとえばロマーノのパラッツォ・デル・テにしたって、マニエリスムの傑作とされるが、構造は煉瓦造でありとても常套的なものだ。だから観念的にはマニエリスム、実体的には中世とさほどかわらない、なんてことになる。ミケランジェロのある作品がマニエリスムなのかバロックの先駆けなのか、など議論がかつてあったが、それは当該作品がどの様式かという議論をしているつもりで、じつは様式概念そのものをどうこういっていることになる。

だから、赤坂離宮は日本近代における洋式建築の傑作であって、本格的なバロック洋式ですよ、という議論もじっさいはとても高踏的なものである。禅問答なのである。

そういう「様式」が変遷する歴史など、これはものすごい観念論なのであって、それが時代ごとのレッテルにすぎない(からくだらない)というのは逆軽視なのである。じつは様式という観念論をたちあげて、それにより時代を区分しているのである。この構図を逆転させることで、素人はレッテル貼りと思って安心して理解できるのである。

だから近代建築の美学などまったくわからないという御仁がいたって、当然なのである。

建築史というのも、このようなまったくの観念論的構築なのであって、これほど人工的で摩訶不思議なものはないのである。

ちなみに20世紀の建築史学は、様式史とはまったく違う構想にもとづく、つまり理論という別のものに立脚した歴史叙述を構築したが、観念論的ということでは様式史の正統でかつ優性遺伝的な嫡子なのである。

・・・ではそれと異なるものはありうるのか。

理論的にはありうる。それは『「あるひとつの建築(建物)」の「歴史」』である。

たとえばアテネのパルテノン神殿はペリクレス時代に人間理性の粋を結集した傑作であり、ローマ時代はどうで、オスマトルコ時代に兵器庫になり、18世紀にヨーロッパ人がやってきて「再発見」したと思い込み、ヴィンケルマンらに幻想を与えて新古典主義の形成をうながし、やがて歴史的建造物として指定され、人類に共有された文化財となり・・・と書いてみると、「ひとつの建築事例の歴史」は書いてみる価値があるように思える。

もちろん悪い書き方をすると、たんなる逸話集、クロノロジー、経歴記録、になってしまうであろう。

しかしそこでその建築がもっている建築的価値はなにかということを問いかける姿勢を失わなければ、書けそうである。

さらにパルテノン神殿のようなA級建築になると、個々の事例の歴史ということを超えて、そこにすでに大文字の「歴史」が内包されているように感じられる。

そしていろいろ考えてみると「ひとつの建築の歴史」はありそうで、ほとんど書かれていない。すくなくとも魅力的な書き物として知られているようなものはないといっていい。これは空白域なのである。

つまり様式史にしろ理論史にしろ、構想した人間の理念だけが論じられた「イデア→制作」的価値なのである。文化財的な価値にしろ、それに立脚している。

しかし、建築がある理念や理論を担っているにしろ、建築がそれらを発信しつづけ、人間に影響を与え続けるということはある。あるいは空間を構造化しつづけ、それによって社会や人間を秩序化することで、なんらかのインパクトを与える。人間もそれを承知しているから、文化財制度などという近代的枠組みをつくったりする。

それらもろもろを描くことが「ひとつの建築の歴史」だとすれば、単純な様式史や理論史以上のものを、それは提供できるのではないか。

・・・・というようなことを帰りの電車のなかで考えた。今日は朝から6時まで会議であったので、反動のようなものであったのだが。

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2010.01.24

AO入試と魚

AO入試も無事終わった。

大部分の先生は監督や採点でおおわらわであったが、ぼくは自室待機で楽をさせていただきました。おかげで午前中は読書、午後はゴミ屋敷へと転落しつつある教員室を整理整頓した。すると掘り出しものの文献なんかが出てくる。お札もでてきてほしい。

暗くなって偶然が重なって不思議な打上げ会にでた。他学部の先生、他大学の先生そのほか、分析軸によっては同窓会にまで思えるような不思議な会であった。

面白い話しを聞きながら、脳はまったく関係のないことをつぎつぎに連想して思い出してゆくからヘンである。

3日前、タコ飯を炊いた。天神デパ地下でそれ用の干しダコを売っている。それを適当な間隔できって、少量の料理酒とともに炊く。このタコ飯はほんとうにおいしい。おかずなしでこれだけで済ませてしまいそうになるほどである。どういう美味しさかというと、大人の味でありつつ、いいオヤジが童心に戻るようなおいしさといえようか。

そのまえは近くの魚屋でブリを買って焼いた。この季節のブリは脂がのってまことに美味である。シンプルだが豊か。たとえていえばクレルモン=フェランにあるロマネスク教会堂。

じつはさほど遠くないところに漁港があって、それに隣接する市場で仕入れたものであるので、とても生きがいい。魚屋で魚を買う、八百屋で野菜を買う、というのがぼくの贅沢である。

そのまえはカマスを焼いてたべた。ブリがすこし肉的な感じがするのにたいし、カマスはすこし切ない感じがする。いくぶんたよりなげな食感である。そこがよい。香りもほんのり、とてもさわやかである。とても美味である。鮮度も抜群であった。たとえていえばフィレンツェにあるブルネレスキのルネサンス建築、とはいえサンタ=マリア=ヌオーヴァというよりはインノツェンティのほうに近い。

ブリもカマスもとてもおいしいものである。すると塩の味がよくないことが、露骨にわかってしまう。ぼくの舌ていどでも「塩」に問題ありと、1+1=2的にわかってしまう。そこでやはり近くの商店で「藻塩」を購入する。そこには「五島の塩」も売っているのだが、やはり藻塩に優るものはないのである。なにしろ魚に振りかけるだけでなく、ついスナック感覚でなめてしまって、笑みをこぼしたあと、塩分過剰摂取不向健康と反省するほどなのである。

この藻塩は、イメージとしては、イタリアで食する揚げイカというよりは、ブルターニュでとれた魚なのであろう。ただし鱒のような大味なものに使ってはいけない。

いつだったか忘れたが、時間があったのでやはり行きつけの魚屋でアラカブを買って煮付けにしたときは、幸福の絶頂にいるこの瞬間に世界が終わってほしいと心の底から願ったものである。正確にいうとアラカブを7割食してまだ3割残っている瞬間が、その終わりにほんとうにぴったりな瞬間であるはずであった。しかしぼくは精密機械ではないので、67%食して、つぎの一口で75%までジャンプしてしまった。だから幸運なことに、世界はまだ続いているのである。

それでも人間は謙虚であるべきだ。アラだけは、商店で見かけても、ぼくのような腕前で触れさせてはいただけない、別格のもののように思えて、手をかけられない。かつてN山に誘っていただいてアラのコースを味わったときのプラスのトラウマがずっと続いているのである。

ところでなんの話しであったか。

そうAO入試はいろいろ工夫したつもりである。くわしくは過去問を見ていただけるとうれしいです。いわゆる実技科目は、建築にとっては不利である。受験生のなかで、楽器を演奏しているひと、絵を描いたことのあるひと、なにかを制作したことのあるひと、などなどは、多い少ないはあるだろうが、ある割合でいるはずである。でも、だからこそ工夫なのだが、建築設計をしたことのあるひとは、桁違いに少なく、おそらく1%以下であり、「いない」と表現してもいいくらいであろう。

ぼくが魚を焼く割合と、ぼくがアラに出会う割合が桁違いなくらい、違うのである。

・・・・あまりうけませんね。

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2010.01.18

センター試験と東京駅

かつて国民的な共通体験とは故郷を捨てて上京することであった。今はセンター試験であろう。

共通一次テストが30年ほど前から、センター試験が20年ほど前からであるから、共通一次世代ははや48歳、センター世代は38歳なんてことになる。これら世代が大学を支配するようになったとき、日本の知のありようはおおきく変化するのであろうか。社会学の先生がたはぜひ知見を披露してもらいたいものである。

これは教師の共通体験でもあって、多くの大学教職員がかりだされるので、ほとんど空白の2日みたいな感じになる。

試験監督をしながら設問にちらちら目をとおした。今年は岩井克人の文章が目にとまった。交換価値/生産価値の議論である。金融危機にひっかけての時事的問題である。ただ高校生のレベルなのだろうか。それともぼくのレベルが低すぎるのであろうか。

もうひとつ印象的なのは東京駅である。いま復元工事中でまことにタイムリーな出題である。しかも実施案と、ドイツ人技師による前身計画が比較されており、かなり専門的な内容であった。

ただ設計者の辰野金吾をあてることが出題意図であったとしても、建築史の専門家としてそれほどうれしくない。高校の社会科で建築のことなど触れてくれるのはうれしいが、しかし、必要なのは知識ではなく感受性であるからだ。つまり「第九はベートーベン」などと丸暗記したって音楽はわかならない。では音楽をわかる、つまり聞いてなんらかの感動をおぼえるような聴き方をする、ということについては素人でもその意味することがわかる。ではそれと同様に、建築を見てなんらかの感想をもつことはなにか、ということの了解はまだまさ共有されていないからだ。

東京駅といえば個人的な思い出でもある。まだ稲垣栄三先生がご在職のころ、4年生の設計演習でまさに「東京駅の保存」という課題を出されたからである。東京海上ビル、巨大建築論争などの直後であり、丸の内街や東京駅はとてもホットな話題であった。

ぼくたちのグループはかなり斜に構えていて、ファサードを分節化して高層建築の表面に貼り付けるとか、八重洲側に主ファサードをもってくるとか、そんなことを提案した。文節、転写、反転などという当時流行っていた手法論的コンセプトに無自覚的に染まっていたことはあきらかであった。

その課題で、いまは中部地方の某大学の先生をしているI君が提案したのが、戦災前のドーム屋根の状態に復旧するという案であった。これはいまなされていることとほぼ同じである。

ただこの再現という案について、先生たちは明確な反応を示さなかったことを記憶している。あるいは稲垣先生らしく含みのある、わかる人にしかわからない表現をしたのかもしれない。

そしてそののち丸の内地区そのものの変化によって東京駅の保存ということもかならずしも同一の問題ではなくなったのかもしれない。

数年後になにか文献で読んだのだが、稲垣先生は東京駅を評して「町並みだね」といったことを知った。つまりその巨大さにふさわしい表現ではなく、小さな単位がなんども繰り返されて大スケールにいたるような、基本的には小さなものであり、その堆積にすぎない、というような意味である。そのとおりなのである。江戸的な町屋的なスケール感の建築家が、西洋の立派な建築をつくっているつもり、なのである。そしてそれを、後世の人間は、暖かい心をもって包容すべきなのである。

東京駅と近い時代に、ニューヨークではマッキムらがセントラル駅を建設していた。ローマの記念碑を踏襲した、偉大さを表現した建築である。アメリカ人的にマニュアルに忠実にできているといった印象だが、パックスロマーナとパックスアメリカーナを比較しようとするアメリカ人の自意識はすでにそこにあらわれているような気さえする。

両者を比較すると、やはり、なにかが決定的に違う。いいわるいではない。しかし決定的に違うのはなにか、それが本質論の手がかりになるのである。

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2010.01.10

わが家のIT事情

年始めで連休なので、一年の基盤作りである。

というか新年そうそう自宅のディスプレイが壊れた。これを機会にいろいろ変えてみた。

まずディスプレイを買い換える。

WINDOWS7もお小遣いで購入した。これまでわが家のITは「流行から2年遅れ」が定めであった。しかし今回はその掟を破ったのであった。効果大であった。

WINDOWS7はすばらしいとおもう。マイドキュメントなどの階層化といったインターフェイスの部分が優れている。つまりエンジニア的な新方式の追求もされているのであろうが、ようするに、自分の見たいファイルに最短距離でたどり着くとか、自分がこれまで整理してきたファイルや情報がなるだけわかりやすく一望できるとか、そういう工夫がされていて、よい。この種類の工夫はIT技術的というより文系的なリテラシーの問題である。旧技術で対応できていたはずである。そういう部分が改善されていて、とてもよかった。

もうXPには戻れない。

さらに大学にも自宅にも、1年前から作りかけのキューブ型デスクトップがあったことに気がついた。2テラの大容量HDDもほったらかしであることに気がついた。さらにさらに破棄済みのPCにもけっこう使える部品がストックされていた。

これらを再編集して、新規にすこしだけ部品を買い足せば、大学と自宅でcore 2 quad(i7は不必要に高額)マシンがそろうではありませんか。大学と自宅のあいだは、データ同期ソフトを使えば簡単である。PCを持ち運ぶ必要はなくなる。

というわけで時間と労力とお小遣いをほんのすこし投資してIT環境を整えたのでありました。

もうモバイルはやめましょう。重い。肩にも腰にも負担がかかる。自由人の外出にそれはいらない。外に出るときは生身の人に会うのであって、そのときはPCはいらないでしょう。

などなど子供の頃にゲルマニウムダイオードを使った自作ラジオを制作して以来の、自作となった。

蛇足だが、低容量時代のHDDがたくさんあった。もちろんデータバックアップを何重にもとるためである。鉄アレイにして筋トレできるほどあった。それらを消去した。まず3重にランダムデータを書き込む。さらに電ドリでプラッタを貫通する穴を開けておく。ドカチンである。

ボトルネックという言葉がある。ITを改善するのはそれを除去するためである。PCは便利であるが、こちらの思考速度にわずかにでも遅れるようなことがあると、思考がストップしてしまうのである。ファイルを探しているうちにさっき思いついたナイスな発想を忘れてしまう、というようなことは最悪だ。それさえクリアすれば、ぼくのようなIT弱者にとっては十分なのである。

よかったよかった。

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2010.01.06

伊東豊雄さんの朝日賞

あけましておめでとうございます。

平坦なお正月でした。1日は親戚のうちにいってお年玉をわたした。そのかわり、いろいろごちそうをいただいた。2日は悲しいことに一日仕事をした。3日はフィットネスで汗をかいた。10時の開門時にはすでに20人ちかくが並んでいた。元気な中高年がぎっしり、なかなかの光景であった。4日は仕事始めで午前中から会議。5日は自習。6日は一日会議。ぼくは会議大好き。とっても充実した一日だったなあ。・・・・といった、なかなかナイスな年のはじめであった。

元旦、親戚ンちで朝日新聞を読んでいると、朝日賞の記事があって、伊東豊雄さんが受賞したことを知った。

「現代建築における空間表現の可能性を広げた業績」にたいしてである。

おめでとうございます。

伊東豊雄さんを建築家としてどう評価するか、などというものおこがましいのだが。いわゆるモダニズムの旗手のように位置づけるのも平板である。

そういえば電話できかれたので、伊東さんの建築についていろいろ考えて話したことがある。

構造的な新しさがつねにある。建築を、表象としてとらえる方法もあるし、身体性の無媒介な反映とするアプローチもあった。しかし伊東さんは構築や結構のメカニズムとともに、つまりもののありようと同時に建築を構想していることは一貫しているように思える。歴史家として思い出すのは20世紀初頭の新しい建築構造に触発された諸実験である。つまりコンクリートはやがてシェルやラーメンとして定式化される。定式化されると形式としての構造のもつ可能性や夢などはなくなり、計算の世界になる。それ以前の、いろいろな可能性の実験というのがいわゆるモダニズムの面白いところであった。実際、RC構造にしたって、当時の建築家や技術者はいろんなパターンを試行していたのだ。現在生き残っているのはそのなかで、経済的合理性をもったごく一部にすぎない。

多摩美の図書館【注:記憶違いを指摘されたので訂正しました】や、座・高円寺などそのほかのさまざまな新しい構造形式の実践のなかでぼくが面白いとおもうのは、このような新構造の諸実験という20世紀初頭の、近代建築の揺籃期を彼が繰り返そうとしていることである。

モダンなどというと、ドミノ形式に還元されるような、法則が支配する世界というようなイメージを与える。しかし新しい建築には、さまざまな実験があって、その多様な可能性こそがモダンであったとぼくは思っている。

伊東さんが実践しているのは、つねに可能性を追求する、そのモダンの本質なのである。けっして確立された言語体系としてのモダンではない。どっちかにころぶかもわからない、失敗も成功もありうるようなスリリングなものに取り組んでいるようなことが伝わってくる。それが彼の建築の「楽しさ」につながってくる。

それからいわゆる「社会性」や「批評性」。彼はかつては消費社会、いまでは情報というものに対応した建築ということをいっている。そのことだけをとりだすと平板なことをいっているようだが、そのことを建築として翻訳することにその他の建築家以上にスマートなようなきがする。

「座・高円寺」というのも面白そうだ。つまり、さほど強烈な特性のない日本の住宅地。しかも中層マンション、商業施設なども混在する住宅地。そのなかの劇場施設ということなのだが、地中にボリュームを埋めたり、凹面のカーブした屋根状の輪郭によって住宅地のなかにお寺施設がうまく混在していることをなぞったようなつくりは、すごくありきたりのようで、日本的な平板な住宅地のなかに、都市空間をつくりだしている。つまり住宅地を、意味性や文化性などが凝縮された都市として再構成している。これが住宅地というものの日本的な成熟のありかたの、ひとつの可能性なのであろう、と思わせる。

伊東さんは建築をまとめるとき「風」「森」「海中の藻」といった比喩をつかう。しかしそれは詩人がイメージを発展させる出発点としてではない。それは彼なりの「まとめ方」なのであろう。そういえば19世紀の建築は、劇場や美術館や官庁建築をあたかも神殿建築のようにつくってきたがそれもひとつの「まとめ方」であった。伊東さんの「まとめ方」は、建築設計という矛盾の調停のようなことのやり方なのであろう。それは風景とか心象とかをあらわしたものではない。それはある意味で、群衆をどう記述するか、社会をどう描くか、というようなことである。ひとがいっぱい、組織がいっぱい、ではない。ちょうど木/森の関係で、建築の諸条件がそれぞれ木だとしたら、「森」という木の総和ではあるが木ではないものはなにか、建築においてそれはなにか、というようなことである。

・・・そんなことを新聞記者になんども説明した記憶がある。

今日は出勤すると『新建築』1月号が配達されていて、机の上にあった。伊東さんと古谷さんの対談が掲載されていた。伊東さんの論は、すごくやさしい言葉をつかっていて、その射程ははるか遠くまで及んでいる。未来はわからない。しかし丹下さんの次は伊東さんだった、なんてこともありえない話しではない。

さらに机の上には朝日賞の授賞式の招待状があった。いつかな・・・とおもったらその日は会議である。飛行機でとんでいっても間に合いませんので欠席とさせていただきます。地方勤務はこういうときに困ります。

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2010.01.01

2010年の記事

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▽2010年1月の記事

2010/01/01  2010年の記事(管理用
2010/01/06  伊東豊雄さんの朝日賞
2010/01/10  わが家のIT事情
2010/01/18  センター試験と東京駅
2010/01/24  AO入試と魚
2010/01/27  建築史の書き方
2010/01/30  1Q84から読む建築

▽2010年2月の記事

2010/02/01  ドミノとタイポロジーのはざま
2010/02/12  リトル・アーキテクチュア
2010/02/14  リーグル『現代の記念物崇拝』
2010/02/15  岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書2009
2010/02/16  藤森照信『21世紀建築魂』
2010/02/18  伊東豊雄『20XXの建築原理へ』(木という「反モデル」)
2010/02/19  『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』
2010/02/20  『読んでいない本について堂々と語る方法』
2010/02/21  内田樹『日本辺境論』と「遅れ」
2010/02/22  内なる建築アーカイブ
2010/02/24  磯崎新『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』
2010/02/27  『現代建築家99』
2010/02/28  磯崎新『Any:建築と哲学をめぐるセッション1991-2008』(カント的退行?)

▽2010年3月の記事

2010/03/01  サント=ベルナデット教会
2010/03/03  SANAA《ロレックス学習センター》
2010/03/05  ヘルツォーク&ド・ムーロン《ヴィトラ・ハウス》
2010/03/08  中沢新一『純粋な自然の贈与』
2010/03/09  オスカー・ニーマイヤー《ミナスジェライス州政府庁舎》
2010/03/09  卒業設計日本一2010(長崎から仙台を見守る?)
2010/03/14  Y-GSA公開シンポジウム「住宅」
2010/03/16  『ムンダネウム』
2010/03/23  デザインレビュー2010
2010/03/26  隠居ハウス
2010/03/27  山本理顕『地域社会圏モデル』
2010/03/28  小林重敬『都市計画はどう変わるか』
2010/03/29  妹島さん西沢さんのプリツカー賞

▽2010年4月の記事

2010/04/04  《高知駅》と《牧野富太郎記念館》
2010/04/06  日本建築50年周期説?
2010/04/06  SANAAがラ・サマリテーヌ改修をてがけるという
2010/04/07  グラン・パリは2012年起工?
2010/04/08  「グラン・パリ」へ建築家側からの批判
2010/04/13  『都市建築史的観点からみた中央と地方に関する研究』
2010/04/14  「電子書籍元年を迎えて」
2010/04/16  『建築を愛する人の十二章』
2010/04/17  1Q84 book3
1010/04/20  『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』
2010/04/24  『初めての建築設計 ステップ・バイ・ステップ』
2010/04/25  地域圏建築史学コンソーシアムはいかがですか
2010/04/25  《地中の棲処》
2010/04/28  グラン・パリ法案反対と精神論的な建築教育論
2010/04/29  フランス上院もグラン・パリ法案を可決

▽2010年5月の記事

2010/05/01  ヴァルター・ベンヤミン『写真小史』とウジェーヌ・アジェ
2010/05/02 ミクローシュ・ペレーニの無伴奏チェロ
2010/05/03  「建築はどこにあるの?」展/伊東豊雄と福沢一郎
2010/05/08  ヴェネツィア・ビエンナーレ
2010/05/09  もはや保存建築家は絶対ではない?
2010/05/13  坂茂さんのポンピドゥ・センター・メス
2010/05/14  《テルマエ・ロマエ》
2010/05/27  ヨーロッパがフランスの建築家ディプロマを承認
2010/05/30  狩野重信《竹に芥子図屏風》

▽2010年6月の記事

2010/06/02 三宅理一『負の遺産で街がよみがえる』
2010/06/03 野中郁次郎/紺野登『知識経営のすすめ』1999
2010/06/06 太田博太郎『日本建築史序説』
2010/06/08 「グラン・パリ」法が公布された
2010/06/12 『村野藤吾研究』
2010/06/13 隈研吾+三浦展『三低主義』
2010/06/19 阿部大輔『バルセロナ 旧市街の再生戦略』
2010/06/29 毛利嘉孝『ストリートの思想』

▽2010年7月の記事

2010/07/01  ぼくは建築の神さまを信じます
2010/07/04  iPadを注文した
2010/07/08  諸国民の富
2010/07/10  革命から100年して都市はできる?
2010/07/11  カザベラJapanに原広司の記事があった
2010/07/18  ポストモダンは終わっていた
2010/07/19  『踊る小人』
2010/07/20  藻谷浩介『デフレの正体』
2010/07/20  岡嶋裕史『ポスト・モバイル』
2010/07/28  iPadを入手して・・・
2010/07/31  ジュリイのあとさき

▽2010年8月の記事

2010/08/11  ポストモダン都市としてピッツバーグ?
2010/08/12  カーネギー美術館の「建築の間」
2010/08/28  ♪ヤミでも光でもなく

▽2010年9月の記事

2010/09/03  スローな建築ガイドツアーにしてくれ
2010/09/04  新しい博多駅ビルにちなんで
2010/09/08  新建築創刊1000号
2010/09/08  「議論」はなりたつか?
2010/09/10  グランプリ主義?
2010/09/14  安藤忠雄先生特別講義in大橋キャンパス
2010/09/21  残暑だから『序説』だのヴェネツィアだの・・・
2010/09/29  メガネが戻ってきました

▽2010年10月の記事

2010/10/03  WTC10年
2010/10/05  twitter考
2010/10/14  美術全集について
2010/10/18  TOKYO METABOLIZING
2010/10/24  今の学生は「広告代理店的」か?
2010/10/26  ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』
2010/10/29  ユリイカ特集『電子書籍を読む!』
2010/10/30  『アーキテクチャとクラウド』
2010/10/31 『白井晟一 精神と空間』

▽2010年11月の記事

2010/11/02 お別れの会のこと
2010/11/05 白井晟一づくし
2010/11/06 『クラウド時代と〈クール革命〉』と『d/sign, no.18 電子書籍のデザイン』
2010/11/07 『近代都市バルセロナの形成』
2010/11/18 比較建築史読解001 (1)問題の所在(2)これまでの取り組み
2010/11/23 比較建築史読解002 (3)日本建築(史)前半
2010/11/23 ウラ学園祭
2010/11/28 比較建築史読解003 (3)日本建築(史)後半
2010/11/29 トニー・ガルニエ

▽2010年12月の記事

2010/12/02 リヨンに雪はふる・・・・
2010/12/03 比較建築史読解004 (4)フランス建築(史)前半
2010/12/05 すこし暖かくなったかな
2010/12/08 比較建築史読解(4)フランス建築(史)後半
2010/12/08 比較建築史読解005 (4)フランス建築(史)後半
2010/12/09 ボブールの《DE STIJL1917-1931》展
2010/12/10 アルスナル博物館でレアール・プロジェクトの模型を見た
2010/12/11 シャンゼリゼ劇場で内田光子などを聞く
2010/12/12 比較建築史読解006 (5)まとめ
2010/12/23 山本理顕さんから「atプラス」6号を送っていただいた

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