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2009.12.11

『近代建築論講義』その2

書評を頼まれましたので、下書きとして、断片的感想をメモすることをお許しください。

「理論」の章は、『建築の七つの力』についての解題である。前後の文献とからめて、わかりやすくチャート化してある。さらに応答では、地誌的な研究方法と、歴史的なそれの比較が論じられている。

・・・これは理論を生き直すものではなく、見取り図を描こうとするものである。俯瞰的な視点からであるのは、あるていどしかたない。なにしろ歴史家は、理論なるものの内部にまで入り込み、理論を生きてみるなどということはしない人種だからである。理論の歴史というのは、ないわけではないが、理論そのもののおもしろさを凌駕することはむつかしい(ぼくの悩みでもある)。

「装飾」の章は、装飾の復権を訴えた『建築の世紀末』についての解題である。オーロラとミイラから建築へアプローチしてみることの重要性、そして建築の装飾がもっている意味をほんとうに明らかにすることがやり残された課題ではないかという問い。しかし応答は、意外なことに、機械美学論の批判的展開であった。つまり装飾論と機械論はおなじコインの表裏なのであった。

・・・つまりこれほどまでに装飾復権論とは近代の機械論美学に依拠しているのである。その装飾論は裏返しの機械論である。そのことに批判性、その意義がある。

「地霊」の章は、デルフォイ、ゲニウスロキ、東京の郊外、イギリス庭園というように啓蒙的な解説を述べながら、詩人A・ポープが活躍した18世紀においてすでに通俗性が批判されていたのだがという危惧の指摘でおわっている。それへの回答は、東京まちめぐりである。

・・・ゲニウスロキは理論ではないと思う。古代からあった概念だし、18世紀英国式庭園でもしきりに言及された。それは「語り口」なのである。

「物語」の章は、小説家が東京の場所性をくわしく解説している。そして超高層乱立を批判することで終わっている。東京の地霊は危機に瀕しているというわけである。応答としては、建築が時間性をすてたという点も批判されるべき、というものである。

・・・この応答は、質問を受けての展開というものであろう。いろいろ語り方はあるであろう。歴史を捨てた、時間性を捨てたというようなことが、日本の都市や建築への批判としていわれる。しかし(良くないことにしても)つぎつぎと過去を捨ててゆく都市についての歴史も書こうと思えば書けるのだ。しかしこの世代の人びとはけっしてそうしようとはしないだろう。なぜかというと「都市の過去=自分の過去」という美しい構図を保っているからである。都市は自分の延長なのである。幸いかな、彼らは。しかし自分をいくら延長しても都市に届かない多くの人間がいたとして、この世代の人びとは彼らをも非難するのだろうか?

「記憶」では建築史の専門家が指摘している。日本の保存運動は、保存理論なき運動であった。S教授ははじめて保存論を書いたうえで運動を展開しようとした、という。返答は、日本における近代の保存運動のきわめて客観的でコンサイスな的を得たサマリーである。

・・・ぼくとしては保存理論がこれまでなかったという指摘は納得がゆく。そのとおりである。若干追記すると、「保存史」こそ書かれるべきである。つまり建築=文化であるならば、保存もまた文化であり歴史をもっているはずである。そしてそのためにも保存の(法制・技術としてではなく文化としての)理論ができていなければならない。

「伝統」の章も、建築史の専門家がまず問いかけている。おもに技術に注目し、日本の瓦技術がベースになってレンガ技術が迅速に移入されたことが指摘されている。返答は、自然主義庭園/象徴的庭園の対比である。

・・・自然式庭園はあるとはいえ、庭園こそもっとも装飾的であり模倣的である。ということで、庭園をモデルとして建築を構想したい気持ちはよく理解できる。

まだまだ章は続きますが、お風呂にいらねばならないので、中断します。

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