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2009.11.07

アメリカの20世紀

近場の書店が新装オープンした。床面積も増えた。とくに新書、文庫が増えて、大人向きになった。PC雑誌がおいていないのが、経営者の方針であるようだ。

とくに方針もなく週末の娯楽として文庫本など数点を購入する。

皆川達夫『バロック音楽』(講談社学術文庫)は初版が1972年。古典的な啓蒙書である。最近の音楽史あるいは音楽解説書では、いろいろ面白いことが書いてある。西洋音楽は楽譜音楽、つまり情報化された音楽である。19世紀末の各国オペラ熱がナショナル・アイデンティティの高揚であった。19世紀の音楽産業化がそのまま20世紀後半のロック産業に連続している。前衛音楽は演奏のみならず鑑賞法の改革でもあった。云々。

それらのことを念頭においてもlこの37年前の文献は(ぼくのような素人にとっては)勉強になる。オリジナル楽譜と楽譜屋のそれがちがうとか、宮廷・教会といった背景の説明、長崎のオラショの紹介とか、である。目配せのしかたはオーソドックスである。

ギース『中世ヨーロッパの城の生活』(講談社学術文庫)。原著は1977年、翻訳は2005年である。タイトルどおりの内容である。建築史でもなく、社会史でもなく、生活史である。第二次世界大戦直後から開始されたスタディの成果というから、戦争の記憶がなまなましかったのであろう。エチケット、狩猟、生活全般などにふれながら、戦時の城、そして最後は第二次世界大戦において戦争にどう参加したかを書いている。

中島義道『哲学の教科書』(講談社学術文庫)は初版1995年である。哲学をすることという本質学と、哲学を研究するという注釈学との違いを力説している。哲学とは、自明性の非自明性にとことんひっかかる心の病のようなものであるらしい。そうすると普通の哲学者は世間にたいして超然とするものだが、著者は、ある意味、あくまで世俗人であろうとする。世俗人であることを自己主張する哲学者である。最後の話題はデリダのロゴス中心主義批判である。

野町啓『学術都市アレクサンドリア』(講談社学術文庫)は初版2000年。2002年にアレクサンドリア図書館建設プロジェクトがあったが、その2年前に出版されている。最近はミュージアム、図書館のありかたがおおきく変わったので、この人類最初の巨大図書館が注目されたし、知のるつぼとしての都市も注目された。しかし著者の関心は、古代都市のコスモポリタン的な状況と、そのなかでのユダヤ人フィロンの知的営為である。古代アレクサンドリアは、哲学都市であり、ネオプラトニズムが体系化されるが、同時にさまよえるユダヤ人たちがたむろした諸民族混交都市であり、その代表がフィロンなのであった。フィロンは聖書をプラトン的宇宙論の観点から解釈しようとする。

これは1970年代日本の知的空気が読み取れる。つまり合理主義だけではないヨーロッパの知への興味であり、神秘主義、ネオプラトニズムなどへの関心である。もちろんその背景としては、ワールブルグ研究所とそのルネサンス研究の成果、などがある。20世紀はそうした古代的英知への関心が復興したのであった。そう考えるとアレクサンドリア(この都市において形成されたヘルメス主義が、ルネサンス文化のコアのひとつになり、さらにそれがワールブルグ研究所で復活した)というトポスの歴史的重要性がわかる。

強引だがロゴス中心主義批判と、こうした20世紀の図像学探求は、関連づけられないかというようなことである。

最後の文献は立花隆と佐藤優の『ぼくらの頭脳の鍛え方---必読の教養書400冊』(文春新書)2009年、である。いまさらぼくが頭脳を鍛えても仕方ないが、今日の日本社会にあって「教養」などというものがいかなるものか、という興味であった。もちろん19世紀の市民社会的教養を遅ればせながら継承していたという位置づけである大正教養主義とは違うようだし、1960年代まであったという古き良き教養主義でもないのは明らかである。結局かれらのいう教養とは、さまざまな主義、派(学派、宗派、派閥・・・)、スクールにも属さないための知的鍛錬のようなものであって、はっきりした輪郭のあるものではない。だから冊数の問題ではなく、いかなる姿勢をもつか、ということのようである。

立花隆と佐藤優の指摘のなかで納得したのはアメリカにはロマン主義がない、というくだりである。ヨーロッパでは18世紀の合理主義・啓蒙主義があり、それへの反省として19世紀のロマン主義があり、それから20世紀がある。しかしアメリカは18世紀の啓蒙主義のうえにそのまま20世紀の合理主義が接ぎ木されていて、ある意味で、ロシアなどと相似(20世紀になって革命によって一気に近代化した)であって、『啓蒙の弁証法』の懸念が表明されるのはまさにそこだ、というのである。

これは20世紀の建築を考えるうえで重要な視点である。つまりインターナショナル展や、戦後のル・コルビュジエ解釈(コーリン・ロウ、ニューヨークファイブ)、建築家なしの建築、コミュニティ、脱構築、ポストモダン、ジェンダーなどのように、20世紀の建築の支配的概念はすべてメイド・イン・USAである。20世紀はアメリカの世紀であった。しかしアメリカはかならずしもその内部から建築を構築したのではないのであって、かなりがヨーロッパ産の再加工である。とうのヨーロッパは戦災復興もあってパワーがおちていた。そのこと自体はしかたないことだが、日本の立ち位置に問題が生じる。つまり地政学的に20世紀日本はリトルアメリカであって、政治経済と同様に、アメリカをとおして世界の建築を見ているというゆがんだパースペクティブを100年以上もっていたのではないか。

すると「アメリカの20世紀」をひとつの歴史的事実として、批判的に(ということはきわめて客観的に)解明することが、とくに日本にとっては必要とされるであろう。ただリトルアメリカンになった私たちにとってとてもつらい仕事でもあるのは事実だ。

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