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2009年11月の7件の記事

2009.11.24

NAME SAKE 帝国建築

NAME SAKEというタイトルの映画をDVDで見た。

若いインド人エリートカップルがアメリカにわたってキャリアを積み、息子と娘をつくって、インド人コミュニティ参画も怠りなくやっていたが、夫が心臓発作で亡くなり、未亡人がインドに戻り、子供たちはアメリカに残り・・・という物語である。

故郷をすてて東京にやってきた若夫婦が、年をとり・・・という物語りのスケールをおおきくしたようなものである。

興味深かったのは息子である。里帰りをしてアグラ、タージマハールなどのムガール王朝建築を観光しているうちに、建築を志す、というくだりである。母親は「わが家のシャー・ジャハーンね」などと一言。父親は「エンジニアはどうするんだね」と小言。「建築は芸術にして工学なんだ」と息子(定番セリフである)。結局、息子はNYで設計事務所勤務となる。

自分のルーツに帝国建築があった息子は幸運であった。

そういえば20年前、インドを旅行していたことを思い出した。サンチーのストゥーパを見ていると、ちかくで日本語の親子喧嘩がきこえてきた。「ぼくはインドに家族旅行なんてはじめから反対だったんだ」などという少年の声。そちらを向くと、日本人家族とおもったものはインド人家族であった。ようするに日本で生まれたか育ったかの子供たちに祖国の伝統を教えるために帰省していたのであった。この少年は建築家などにはならなかったであろう。

NAME SAKE の主人公はめでたく建築家になったが、彼がNYの設計事務所で担当していたのは住宅であった。ムガール朝建築のようなモニュメントではなかった。とはいえこの映画の主題は建築ではないので、これはどうでもいい部分である。ちなみに原作の小説では、主人公はカーンが設計した美術館などを見学しているという話しをきいたことがある。原作者のほうが映画監督よりも建築通であったようだ。

それはそれとして、見る者を感化する力をムガール王朝の建築はもっている。ラッチェンスのインド総督府などはやはり帝国的建築以外のなにものでもない。コルカタにあるビクトリア・メモリアルなども、細部はヨーロッパの古典主義だが、全体のモニュメンタリティは、古典主義的というよりインド亜大陸的である。

さらにいうと20世紀初頭には同様な帝国的建築がみられる。たとえばワシントンDCは、基本計画はもっとまえとはいえ、1910年代に巨大建築ラッシュとなる。ソ連でも、第三帝国でも巨大建築への指向がみられる。

こうした巨大建築は時代を反映したものなのだろうか。ぼくはそうは思わない。20世紀は小さなものの世紀である。小さなものが大量に生産される世紀である。だからその時代に帝国的な造形がもとめられるという現象はとてもアナクロニックなものである。そして20世紀はもともとアナクロニックな世紀だという気もしていて、そういう意味ではまさに20世紀的なものということもできるのではあるが。

つまり19世紀に世界を支配し、植民地を支配した国は、国民国家であった。こうした近代の国民国家は、しかし、ムガール朝、サファヴィー朝、オスマン朝などといった帝国の建築を、再発見する。つまりすでに熟知していたはずのものを、こんどは支配者の立場から、まさに「再発見」する。20世紀初頭にきわめてアナクロニックに帝国的建築が登場するのはそういう構図においてであろう。

しかし政治的・植民地的に支配はできても、むしろ建築のほうは手強かったのではないかったか?

インドではル・コルビュジエもプロジェクトを残している。チャンディガールの州首都計画である。これは完全な失敗である。亜大陸の圧倒的なスケールを前に、彼のモデュロールは完全に破綻していた。というより意味がなかった。そのランドスケープを制御できず、対抗さえできていなかった。

インドでのルイス・カーンはそこそこうまくやっていた。カーンは、建築的スケールでは対抗できないことを知っていたように思える。彼は自分の建築を控えめなものとすることで、亜大陸のなかでの位置づけが可能なようにしている。

・・・いろいろ考えるとモニュメント/非モニュメントの矛盾の構図が20世紀的なのではないか。日本でも、草庵茶室という非モニュメントを建築モデルにしようという一派があったいっぽうで、東大寺などの大建築をモデルにしようという一派もあったように。

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2009.11.22

ふくはく見聞録

土曜日、テレビの収録で市内をまわった。

まずは元福岡相互銀行。

保存か取り壊しかで揺れているこの磯崎物件をひさしぶりに見る。インド亜大陸の建築の写しである。赤いインド産砂岩と白大理石のくみあわせ。それはムガール王朝の霊廟建築そのものである。

ふと気がついた。明治いらい、銀行建築はイギリスのものなどを手本としてきた。基本は古典主義であり、お金を預かり信用を基本とするので、堅牢で誠実さをあらわすグレーの御影石などがよく使われた。銀行建築はグレーなのである。しかし福岡相互銀行は「赤」である。

しかし建設当時、グレーか赤かという葛藤があったとは聞かない。インド産砂岩という意味づけで納得されたのかもしれない。しかし銀行建築に赤というのは、よくよく考えてみれば、とんでもないことである。

さらに同時代、黒川紀章が福岡銀行を建設している。黒川さんは日本文化としてのグレー文化(利休ねずみ)を主張し、この銀行でも色はダークなグレーである。ある意味、正統派である。

ここでの福岡相互銀行/福岡銀行のライバル関係は、磯崎/黒川、赤/グレー、インド/日本という背景で火花をちらしていた。ダイナミックであった。

つぎに博多小学校。都市型複合施設としての小学校である。ここはわりと平均的なコメント。管理者のおじさんに案内してもらったが、彼が誇らしげに説明しているのが印象的であった。愛されている建築である。

午後は伊東豊雄さんの「ぐりんぐりん」である。模型が飾ってあったのでひさしぶりに見たが、帯を180度ずつ2回ひねるという明快な操作であることにあらためて感銘。実現されたものは構造の制約があってその意図は100%表現されてはいない。しかし50%の実現率であっても、内部から外部へシームレスにつながっている空間体験の妙があるのは、基本がしっかり構想されているからである。

池をはさんで伊東監修の学生作品である土のフォリーがあった。それをバックにカメラにむかって最後のコメントをする。

東京や関西で明治時代から建築学科があったのとはまったく異なっていて、地方都市である福岡には戦後はじめて大学の建築学科ができる。その最初の学生たちが定年退職したのがやっと10年ほど前である。第二サイクルにはいったばかりである。

70年第から90年代まで磯崎・黒川・吉村らの県外有名建築家、グレイブス、コールハース、ホール、ポルツァンンパルク、ジャーディ、ペリ、ロッシなど有名外国人建築家たちが呼ばれ建設していった。もちろん外タレ批判もあったし、経済優先という指摘もあった。しかし地元大学建築学科の最初の卒業生たちがやっと30歳ころになったときに、地元プロジェクトを依頼するのはやはり県外建築家であったのは当然である。

事情を知らないひとは、県外の建築家ばかりですね、地元の人はなにをしてるんですか、などと批判する。しかし当然そうなってしかたない事情があったのである。

しかし状況は10年ごとに格段に進化する。地方であっても中堅建築家たちはアメリカやヨーロッパで修行して戻ってきて意識も能力もグローバルなレベルにシンクロしている。さらに各種学生プロジェクト講評会などのおかげで地方の大学生であっても首都圏の建築学生との交流は盛んで、かつての地域ギャップはかなり小さくなっている。地方はこれから成熟するのである。

そのときいわゆる外タレ建築といわれたものも、若い世代にそれなりに刺激をあたえた良きテキストであったことがわかるであろう。

成熟の時代、そのときかならずしも大プロジェクトの大建築だけが中心だとは限らない。小規模の建築であっても、理念と哲学によって、時代をリードするものは生まれうる。「小さな大建築」などというものがでてきてほしいものである。

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2009.11.14

クリエイティブ都市

木曜日と金曜日は、人と会って話し合う機会がおおかった。

ひとつはクリエイティブ都市に関する集まり。パワポによる力作プレゼンを拝見した。

とくに新しいコンセプトではないが、状況を知るためには役に立つ。日本ではやはり横浜市、金沢市などが模範都市であり、その他の都市とはかなり差がある。日本国内の状況はというと、東京はそんな企画をしなくともクリエイティブな力を独占している都市であり、京都は伝統と文化のストックにおいて圧倒的でありわざわざ文化振興ではなくて抵抗勢力を抑止することが大事な場である。政策的に課題となるのが、2番手3番手となる中堅都市であり、横浜や金沢は周知のとおり健闘している。また韓国の釜山やなんかの先進事例もプレゼンでは紹介されていた。

クリエイティブ都市、90年代だとデザイン都市などという標語。横浜市は70年代より独自の政策展開があり、海外の事例研究もおこたらず、それが20年30年つづくと、他の都市からみれば、まさに海外の先進都市ときわめて密接に歩調をあわせてきた例外的都市であるようにも思える。

産業の構造転換やEU成立などにともない、ヨーロッパの地域や都市は自律的な政策転換をおこない、それがクリエイティブ都市の背景となっている。ナント市、ビルバオ市などはその有名な例だが、共通しているのは製造業から文化都市への転換という構図である。日本だと、伝統工芸のある金沢市が該当しそうだ。近代的な製造業と伝統工芸はすこし違うのかもしれない。しかし伝統工芸も近代化において近代産業化しようと試みた。

つまり近代産業都市は、工場のペルトコンベア的生産形態から連想するとあまり文化的ではないような印象をうけるが、しかしものをつくるということは機械的につくるのではなく、創意工夫がすくなからず要求される。地域力としてそんな経験が見えない歴史的資産となって、文化都市形成に活かされるのではないか?

これも印象にすぎないが、伝統的都市であっても商業を中核とした都市はどうも文化政策がうまくいかないようなのである。

製造業は、設備投資がもっといるし、長期的な視野も必要だ。しかし商業は、小売り業ほど、短期的視野でもいい。もうかる商売は、たとえば1~2年で儲けて、流行がおわればたためばいい。極端にいえば、そういう対比もある。

そんなことをかんがえていけば、日本の都市もそれぞれ顕著な個性をもっている。クリエイティブ都市はこうした個性を理解することから始まるのであろう。

・・・なんてことを考えた。クリエイティブ都市のプレゼンを見ながらであった。

そのあと地元ケーブルテレビ局の人と会った。F市現代建築を紹介する番組を制作するためである。取材対象となる作品を選び、内部撮影はどれにするか、おおまかなテーマなどについて話し合う。

F市は、磯崎・黒川の70年代から、80年代には地元ディベロッパーがかなり積極的で、いわゆる「外タレ」(外国人有名建築家)を読んできていろいろ建てさせた。だからけっこう見物は多い。批判ももちろん多かったが、結局現在となっては「ポストモダン都市」の雰囲気を漂わせている。時代を遡ってその時点でペストの判断であったかどうかは別だが、これはこれで文化財であると思う。歴史家はいいも悪いも含めて、歴史を構成するあらゆる建築にそれなりに意味と意義を与えねばならないのであって、木造町屋だけが歴史的建築であって、他のとくに現代建築はそうでないなどと考えている建築史家を、ぼくは信用しない。

それはともかく、MATなんとかという企画にすこしまえに参加した。ロンドン、パリ、シカゴの先例に学んだ市内建築鑑賞ツアーであるが、継続的にやることの意義は大きい。

MATの打ち上げはのぞいたが、運営側学生たちの盛り上がりが印象的であった。あのパワーが地域を支えるであろう。1回で終わらせず、継続してほしいものである。

建築紹介TV番組は、地元だけでなく、韓国でも放送されるそうである。隣国の人びとが、日本の都市や建築に関心をもっていただければ、高速フェリーですぐきて、観光してくれるかもしれない。ぼくらが韓国の事例をみてほほうと思うということが、鏡像関係でむこうにおこればいいということである。

・・・・金曜日の夜は、研究室の現役+OBがぼくんちに集まってパーティ。OBは設計事務所勤務と広告代理店勤務であるが、2年目にしてはよく社会勉強している。地方都市はいま経済氷河期である。そのなかで仕事があるだけでもOKである。

彼らもまたこの地元の文化的民度は最悪!などと憤慨していた。まあそのとおりなのであるが。近代社会においては、文化は政策的に構築されるものなので、やはり芸術的やデザイン系の大学がいつから、どの規模で、地域のなかに存在しているかは決定的である。東京や関西なら明治のころから芸術の学部があって、それが社会のなかに文化を構築する柱となっていた。しかしほとんどの地方では、戦後やっと芸術系・デザイン系ができたか、今でもない、かどちらかである。そこには想像以上の格差がある。東京芸大で吉村展をみたが、あの観客の多さと熱気は、やはり歴史的にできた芸大パワーであって、上野でしか成立しない、地方からはまったく別格であることは、ご当人たちも知らないものである。

とはいえぼくのマンションにきていた他研究室の学生も含め、若い世代における文化・建築・デザインについてのリテラシーは10年単位でみればどんどん向上してきている。地方都市の文化的成熟を50年後に想定しても、イヤミでもなんでもなく、いいのではないか。大学、研究所、文化施設といった文化インフラが、時代をこえて生きた(生き残った)ころに、成果はでるのだと思われる。

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2009.11.07

アメリカの20世紀

近場の書店が新装オープンした。床面積も増えた。とくに新書、文庫が増えて、大人向きになった。PC雑誌がおいていないのが、経営者の方針であるようだ。

とくに方針もなく週末の娯楽として文庫本など数点を購入する。

皆川達夫『バロック音楽』(講談社学術文庫)は初版が1972年。古典的な啓蒙書である。最近の音楽史あるいは音楽解説書では、いろいろ面白いことが書いてある。西洋音楽は楽譜音楽、つまり情報化された音楽である。19世紀末の各国オペラ熱がナショナル・アイデンティティの高揚であった。19世紀の音楽産業化がそのまま20世紀後半のロック産業に連続している。前衛音楽は演奏のみならず鑑賞法の改革でもあった。云々。

それらのことを念頭においてもlこの37年前の文献は(ぼくのような素人にとっては)勉強になる。オリジナル楽譜と楽譜屋のそれがちがうとか、宮廷・教会といった背景の説明、長崎のオラショの紹介とか、である。目配せのしかたはオーソドックスである。

ギース『中世ヨーロッパの城の生活』(講談社学術文庫)。原著は1977年、翻訳は2005年である。タイトルどおりの内容である。建築史でもなく、社会史でもなく、生活史である。第二次世界大戦直後から開始されたスタディの成果というから、戦争の記憶がなまなましかったのであろう。エチケット、狩猟、生活全般などにふれながら、戦時の城、そして最後は第二次世界大戦において戦争にどう参加したかを書いている。

中島義道『哲学の教科書』(講談社学術文庫)は初版1995年である。哲学をすることという本質学と、哲学を研究するという注釈学との違いを力説している。哲学とは、自明性の非自明性にとことんひっかかる心の病のようなものであるらしい。そうすると普通の哲学者は世間にたいして超然とするものだが、著者は、ある意味、あくまで世俗人であろうとする。世俗人であることを自己主張する哲学者である。最後の話題はデリダのロゴス中心主義批判である。

野町啓『学術都市アレクサンドリア』(講談社学術文庫)は初版2000年。2002年にアレクサンドリア図書館建設プロジェクトがあったが、その2年前に出版されている。最近はミュージアム、図書館のありかたがおおきく変わったので、この人類最初の巨大図書館が注目されたし、知のるつぼとしての都市も注目された。しかし著者の関心は、古代都市のコスモポリタン的な状況と、そのなかでのユダヤ人フィロンの知的営為である。古代アレクサンドリアは、哲学都市であり、ネオプラトニズムが体系化されるが、同時にさまよえるユダヤ人たちがたむろした諸民族混交都市であり、その代表がフィロンなのであった。フィロンは聖書をプラトン的宇宙論の観点から解釈しようとする。

これは1970年代日本の知的空気が読み取れる。つまり合理主義だけではないヨーロッパの知への興味であり、神秘主義、ネオプラトニズムなどへの関心である。もちろんその背景としては、ワールブルグ研究所とそのルネサンス研究の成果、などがある。20世紀はそうした古代的英知への関心が復興したのであった。そう考えるとアレクサンドリア(この都市において形成されたヘルメス主義が、ルネサンス文化のコアのひとつになり、さらにそれがワールブルグ研究所で復活した)というトポスの歴史的重要性がわかる。

強引だがロゴス中心主義批判と、こうした20世紀の図像学探求は、関連づけられないかというようなことである。

最後の文献は立花隆と佐藤優の『ぼくらの頭脳の鍛え方---必読の教養書400冊』(文春新書)2009年、である。いまさらぼくが頭脳を鍛えても仕方ないが、今日の日本社会にあって「教養」などというものがいかなるものか、という興味であった。もちろん19世紀の市民社会的教養を遅ればせながら継承していたという位置づけである大正教養主義とは違うようだし、1960年代まであったという古き良き教養主義でもないのは明らかである。結局かれらのいう教養とは、さまざまな主義、派(学派、宗派、派閥・・・)、スクールにも属さないための知的鍛錬のようなものであって、はっきりした輪郭のあるものではない。だから冊数の問題ではなく、いかなる姿勢をもつか、ということのようである。

立花隆と佐藤優の指摘のなかで納得したのはアメリカにはロマン主義がない、というくだりである。ヨーロッパでは18世紀の合理主義・啓蒙主義があり、それへの反省として19世紀のロマン主義があり、それから20世紀がある。しかしアメリカは18世紀の啓蒙主義のうえにそのまま20世紀の合理主義が接ぎ木されていて、ある意味で、ロシアなどと相似(20世紀になって革命によって一気に近代化した)であって、『啓蒙の弁証法』の懸念が表明されるのはまさにそこだ、というのである。

これは20世紀の建築を考えるうえで重要な視点である。つまりインターナショナル展や、戦後のル・コルビュジエ解釈(コーリン・ロウ、ニューヨークファイブ)、建築家なしの建築、コミュニティ、脱構築、ポストモダン、ジェンダーなどのように、20世紀の建築の支配的概念はすべてメイド・イン・USAである。20世紀はアメリカの世紀であった。しかしアメリカはかならずしもその内部から建築を構築したのではないのであって、かなりがヨーロッパ産の再加工である。とうのヨーロッパは戦災復興もあってパワーがおちていた。そのこと自体はしかたないことだが、日本の立ち位置に問題が生じる。つまり地政学的に20世紀日本はリトルアメリカであって、政治経済と同様に、アメリカをとおして世界の建築を見ているというゆがんだパースペクティブを100年以上もっていたのではないか。

すると「アメリカの20世紀」をひとつの歴史的事実として、批判的に(ということはきわめて客観的に)解明することが、とくに日本にとっては必要とされるであろう。ただリトルアメリカンになった私たちにとってとてもつらい仕事でもあるのは事実だ。

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2009.11.04

レヴィ=ストロース

『悲しき熱帯』や『構造人類学』の著者が亡くなった。100歳であったという。

専門家たちはいろいろ解説するであろうから、専門的な解説はしない(できっこない)。

実存主義のサルトルを論破したことがよく指摘される。その事件もリアルタイムでそんなに紹介されたのではないが、ぼくたちの世相をすこしは反映していたように思える。社会に異議をとなえた世代がどれだけサルトルを読んだかしらないが、この世代がアンガージュマンすなわち今日流でいえばコミットメントの世代であるとすれば、そのサルトルを徹底的に批判したのがレヴィ=ストロースであった。彼自身は人類学者として理論家として一流であるにとどまらずフィールドの人、現場の人でもあったが、それを構造として分析することにおいて対象との距離のとりかたが際立っている。ぼくの世代はその距離感において共感をいだいたのであろう。これは時間がたってかつての自分自身からも距離をとれるようになったのでいえることである。

やはり『構造人類学』は必読書であった。とはいえぼくの世代のなん%が読んだかまったく知らない。かつての『資本論』もそうだったのであろう。ただ必読書となんの迷いもなく思い込めたのではあった。

もちろん1970年代の日本にあって、明治100年を祝ったあとで、もはや先進性/後進性という枠組みをいつまでも続けることもないという空気で、野生と文明をおなじ平面で論じる論じ方に共感があったのも事実であろう。彼がフィールドでスタディをしたのが1930年代というから、日本における民俗学研究などと平行関係は推測できるが、でも射程がちがっていたようである。ちなみに1935年にサン・パウロに移動してからということになっている。今日では、19世紀以来のフランスの植民地政策、とりわけ文明/野蛮という啓蒙主義以来のフランスにおける根底的な文明観との相関において彼の思想を位置づけたいものである(ぼくはその能力はないので専門家におねがいしたいものである)。つまり植民地支配に関する研究も今展開途上のようなのである。

『構造人類学』を約25年ぶりにめくってみると、歴史学、言語学、人類学、社会学などの横断的論考、さまざまな先行する学者たちの批判的継承などにかんする論考が印象的である。つまり彼も出だしはとんがっていて、野心的であったのだ。ちなみにヴィシー政権時に亡命していたニューヨークでのヤコブソンとの出会いが大きかったようだ。

ぼく自身はたいへん興味をもって『構造人類学』を読んだとはいえ、発想法を借りるにとどまっていた。読書会仲間のなかには、そこから日本の民家研究に進んだ人もいた。また東南アジアの文明化されていない集落の調査などというほとんど命がけの冒険(イカダにのって島々を遍歴するなどという)にのりだした友人もいた。

読了後はけっこうレヴィ=ストロースの具体的な理論など忘れてしまうものだ。しかし乗り移ったのはそういう「熱気」なのかもしれない。レヴィ=ストロースは23歳で「原住民社会のなかで生きた経験」がしたいという情熱にとりつかれたのである(WEB版ルモンド紙の追悼記事)。その熱気が中年になって著作をまとめるときもずっと残っていたのであろう。外国の、世代も違う読者が感化されるのはようするにそういう事柄なのであろう。

ぼくはとえいば、建築を論考するにあたって彼のような構想力をいだきたいと思ったにすぎない。党派的な対立の一方をかつぐとか(いまでもモダンとか反モダンとかあるし)、10年単位でどうこういうことは、やりたい人にまかせておけばいいことである。しかし日本の社会にはじつは近世の構造が生きているように、啓蒙主義もまたグローバルな文化政策のなかで生きているし、200年前のものでも同時代である。

前回の投稿にあわせていえば、稲垣栄三が日本の建築保存を語るにあたって、日本的文脈をじつはほとんど無視していること、明治以降の法制度にはほんとんど触れず、おもにラスキンとヴィオレ=ル=デュクから出発している(ぼく的にはまだまだという気がするが)ことは、保存を論じるにあたってなにが普遍的な出発的であるべきかについて、彼なりの判断があったのは明らかである。彼が論じなかったことは、当たり前で常識だから論じるまでもないと考えたのではなく、論じてもしょうがない、そこに哲学や思想はないと考えたからではないか。ある意味、稲垣は徹底的にそして冷酷に貴族主義であった。しかしそこに後の世代の者たちが真摯にうけとめなければならない点があるように思える。

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2009.11.02

稲垣栄三『歴史的環境保存論』

この夏出版された文献で、稲垣の60年代からのさまざまな論考がしっかりしたパースペクティブで巧みに編集されている。

60年代から00年代までの保存に関する話題がほぼもれなく言及されていて、半世紀ちかい時空を追体験できるようになっている。すでにリアルタイムでかなり読んでいたつもりであったが、はじめて読むのも少なくなかった。

かずかずの論文のなかで『ミューズの幽閉』は別格であり、稲垣の保存にかんする、いや建築にかんする思想の一部を表明したものである。

「鑑賞における想像力は、創造における想像力とは異質のものではありえない。」

というような味わい深いことばで、歴史的建築の保存、あるいは近代的な課題であるミュージアムという時空のなかに、本来の時間と場所から切り離して、制作物を分類するという近代知のありかたを、むしろ擁護している。

ぼくは前項で、ブルクハルトが『チチェローネ』で再評価しようとしたのは「鑑賞」という営みではなかったかと指摘したのであるが、その翌日の稲垣の「鑑賞」論に遭遇するのは見えざる手のなせるわざなのかもしれない。あるいはぼくの無意識なのかもしれない。

ただぼくは、稲垣がなにかをストレートに肯定するというようなことも考えられない。彼の平明でダブルミーニングなどまったくないような文体の背後に、しかし、逆説が潜んでいるような気がする。それは現代の文明とは成熟せずに「幼児」でありつづけることだ、というようなくだりである。成熟した大人が、最大級の絶望を、しかしこともなげにいう、そんな語り方なのである。

たとえば復原とは一種の創作である、という簡素な表現にも、復原はだからクリエイティブな営みである、とも解釈できるし、同時に、復原はけっきょくはねつ造でもある、とも解釈できる。もちろんその両方なのである。だから結局はダブルミーニングであり、根本的な絶望の表現ともなっている。

大森荘蔵という哲学者がいうには、過去は端的に不在であって、人間はくりかえしくりかえし過去を制作するのである、といったことと、ほとんどおなじ意味であろう。1000年前の建築が残っていたとしても、1000年前の過去がそこにあるわけではない。そこから過去を想像するには、才能あふれるアーティストが心身をすりへらして作品を作りあげるのと同じくらいのイマジネーションが必要なのである。だから過去の再現などと軽々しく考えるな、と稲垣は言っているのである。

稲垣はつくづく諧謔を希望で粉飾する才に恵まれたたぐいまれなる知性であった。

さて稲垣が保存論(=文化財論)を学習するにあたって、西洋の先進性と日本の後進性という意識がつねにあったようであるし、日本の明治以降の法制度がいかにつくられたかはほとんど触れず、もっぱらヨーロッパの19世紀を論考の対象としている。

後の世代の専門家たちはより詳細なスタディをしているが、保存論をひとつの思想として哲学として論じようとしている姿勢は、稲垣に比して、むしろ後退している印象である。

いわゆる保存や遺産の専門家たちは、法制度の専門家であって、保存の意味は法制度をふかく研究することで判明すると理解しているのではないか、という印象をうける。しかし法制度を生み出したのは、そこまでに哲学であり思想であり、法制度以前になされた先駆的であるがしっかり充実していた保存の行為と実績である。法制度だけに注目していては、なぜ19世紀の保存は教会建築が中心なのか、とか、保存制度と政教分離がじつは連動している、といったことがわからない。フランスではまず文化財リスト作成が先行し、しかるのちに文化財法ができた、そのようないきさつも理解しにくいであろう。

さらにいえば保存論によって建築理論は深化し、そこから近代建築が生まれたという歴史的経緯もわからないであろう。近代建築が歴史的建築を破壊したのではない。保存が近代を生んだのである。つまり保存はある歴史意識において成立するのであって、それは過去との断絶ということである。保存はすぐれて近代的意識なのである。

稲垣は、ヴィオレ=ル=デュクとラスキンを対比的に論じて、近代の保存思想の出発点としていることはきわめて正統的である。しかしほんとうはその両者にいたる論の積み重ねがほんとうは重要であって、稲垣はそこまで踏み込む必要は感じていないようだ。ルネサンス以降の西洋(建築)文化の矜持などという表現でうまくすりぬけているようである。ぼくは稲垣の知性をもってさらに外国語を征服していればたいへんなことになっていただろうと想像する。

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2009.11.01

ブルクハルト『チチェローネ』

1855年に出版されたとても有名な文献である。その建築に関する部分である。英語版をぱらぱらめくって読む気をなくした程度のつきあいしかなかった。数年前の邦訳を入手して読んだ。

読み物としては面白いと思った。翻訳者の解説によると、イタリア諸都市を旅行しながら、午前は見学し、午後は執筆していたらしい。うらやましい。そんな感じでぼくも西洋建築史を書いてみたいものである。ブログを書くのもそのかわりなのかもしれない。

ブルクハルトはヴィンケルマンとゲーテの系統である。また彼の探求と執筆は1848年の二月革命の前後であり、自由という価値への指向はつよい。

パエストゥム神殿の解説からはじまっており、その点でもゲーテ的である。

ただ建築の記述はオーダーの話しがほとんどで、もちろん細部の装飾、空間、構法などもなくはない。しかしオーダー中心の説話は、彼の意識がむしろ17世紀や18世紀に近いことを物語っている。

専門家からの評価は低い。理念や理論がなかったわけではないが、ゲルマン的、北方的、単純でかつ偉大(ヴィンケルマンの単純なる高貴さと静謐なる偉大を思い出させる)、有機的、全体性、などの概念はそれそのものとしてはしっかいしている。でもそれらによって一貫した論を構築しているのではない。

ルネサンス賛美が最終目的でありながらも、ゲルマン的/イタリア的という対比はあとの世代が発展させるであろう。

旅人として移動しながら建築を論じている。翻訳だと斜め読みができるので、そのスピード感は感じることができる。なんでも鉄道で旅したという。当時としてはたいへん新しい旅行法であって、以前からあった見聞録とはひと味違うのはそういう背景があるのかもしれない。

背景と言えばブルクハルトの同時代人としてゼムパー、ヴィオレ=ル=デュク、ラスキンらがいる。彼らが19世紀の学問を基礎づけた理論を構築した。しかしブルクハルトは学知としては古くさいものを活用している。

ブルクハルトはむしろ「鑑賞」することの重要性を説いているように思える。毎日々々、歩き回って、自分の鑑識眼に誇りを持って、つぎつぎと作品を見る。そこには一般理論で解説できて悟性的に理解できることいじょうに、なにか発見や、大小の疑問や、あらたな発想が得られるであろうし、そういう新鮮さもふくめて、大文字の芸術と心身が結合されるような実感をいだくこともできるであろう。チチェローネとはつまりキケロであり案内人である。グランドツアーによりイタリアを訪れるイギリスやフランスの貴族たちにチチェローネたちが案内役をかってでたのは前世紀である。その前世紀的であることの意識があったのではないか。

ぼくは、19世紀という大学問の構築期にあってブルクハルトが時代遅れであったというより、彼はそんな時代の流れを十分意識して自己責任において、わざと時代に逆行しようとしたとさえ思える。

しかし逆説的に、体系的でない「鑑賞」によって、その現場によって萌芽的ないくつかの概念が誕生しているようにも観察される。もしそうした現場の力がほんとうにあったとしたら、読者が建築に対峙するその心構えもすこしは変わってくるかもしれない。

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