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2009.09.13

ラ・ロシェルのことなど

パリに着いたのでラ・ロシェルのことなど追憶してみる。

これは中世にできた港町で、古代ローマに起源をもつ他のフランス都市と比べるとかなり(1000年ほど)若い。

別の言い方をすると、古代ローマ都市とは地中海秩序のことである。でもラ・ロシェルは、イングランド、オランダ、スペインそしてやがては新大陸との通商で栄えるように、基本的に大西洋秩序に属している都市である。そのあたりが根本的に違うようだ。

どういう経緯でプロテスタント都市になったかはこれから調べてみるが、一時期、プロテスタント商人の共和都市であった。これも大西洋秩序のなせるわざではないかと思っている。

建物にあまり見るべきものはあまりない。しかし建築史専門家的にはいくつか調べてみたい建物があった。だから調査旅行などにきたりする。書店や図書館を覗いてみたが、しっかりと都市史・建築史についての堅実で内容豊かな文献がたくさんあった。

おもうにフランスの建築史・都市史研究は史料編纂的である。だから史料批判ができる専門家がいれば、そういう文献は比較的容易に制作できるもののようだ。(日本の中核都市にはこのレベルの建築史・都市史を出していない都市がたくさんある)。

16世紀はプロテスタント都市として繁栄した。神殿も建設された。17世紀前半、フランス王国軍に壊滅される。17~18世紀、カトリック建築が建設される。そういう大変換が、石の建造物となって残されている、そういう都市である。しかしもちろんフランス人はそれを奇異とは思わない。でもやっぱりあそこにいわゆるイエズス会様式風のカトリック教会堂が建っていることは、とても変なことなのだ。まあ体制が変わったのだから、しかたがない。でも、もしここがずっとプロテスタントのままだったらどうなっていたか、などとイマジネーションをふくらませることは歴史家にとってとても大切なことだと思っている。

ラ・ロシェルでは「新世界博物館」にもいった。ラ・ロシェルから新大陸へフランス人が多く送り込まれた。なによりも奴隷貿易の拠点でもあった。奴隷船にいかに高密に奴隷を詰め込んだかという(このテーマではほとんどお約束のような)図面も掲示されていた(これは30年前に出版された建築計画の専門書にもあった。日本の学者はほんとうに悪食である)。じっとみているとミュージアムの人(キューバ系フランス人)が語りかけてくる。知っているようなことばかりであったが、彼の家系そのものがアフリカ→キューバ→フランス、という太平洋を1往復した不幸な過去を背負っている。子供にも教えているんだ、といっていた。

でもミュージアムはどこもガラガラだった。さみしい。

ラ・ロシェルは日差しがとても強い。サングラス、帽子は必携である。ちなみに今しているレイバンは、ちょうど10年前にラ・ロシェルで買ったものである。

港は今は商用ではなく、プレジャーボートやヨットがならぶ娯楽施設となっている。メディアテークや各種ミュージアムも旧港湾施設を再活用して配置されている。もちろん住宅と混在させることは忘れない。旧都市の骨格をまもった、適正規模の住みやすい再開発である。

ツーリズム的にはとても成功している。外国人観光客ももちろん多い。イギリス人が飛行機をチャーターしてやってくるんだそうだ。現代のツーリズムもまた歴史的な経緯をなぞっている場合が多い。

水際をとぼとぼ歩く。ヨットスクールや、クラフトスクール(ヨットもメンテ?)がある。ほどほどに活気があり、ほどほどにもの悲しい。

移動日前の最後の一日は、安全をとって、全休とした。資料を整理したり、インターネットで文献を検索したり、熱が出てくると横になったりした。窓の外は海岸通りである。カフェでくつろぐ人。まったり歩く観光客。パフォーマンスをする総銀ペイントの人。船着きの海水は、鏡のようとはいえないが、じっくりソリッドな印象を与える。係留されている白いヨット。そのマスト。城砦の、シリンダー状の、石をしっかり積んだ堅固な塔。そして青い空。それらをベッドでぐったりしながら眺める。すべては意識に直接プリントされたもののようでもあり、たんなるカラー写真のようでもあり、もどかしい。そしてぼんやりとした意識のなかでおぼろげに考える。ぼくは結局、ラ・ロシェルについて一文をものすることになるのであろう。なんらかの形で。

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