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2009年9月の10件の記事

2009.09.20

フランス建物建築家(ABF)の権限が国に戻される?

今日は日曜日。すこしお勉強してみようかな。

WEB版モニトゥール紙の記事(2009年9月18日16:02アップ)によれば、上院は17日、いわゆるグルネル2法の第14条を改正により、文化遺産都市計画法典を改正することを可決した。これによって国とABFが対立するばあい、国が最終決断をすることになる。

ちなみにフランス建物建築家(ABF)とは、いわゆる歴史的建造物主任建築家がおもに特定建物の保存や修復を担当するのにたいし、歴史的建造物の近傍の町並みを管理し、面的な管理維持について責任をもつ。一般的に歴史的建造物主任建築家は建築ベース、ABFは都市計画ベースとされるが、後者もフランス政府公認建築家の資格と、シャイヨ宮の保存スクールを修了していることがたいがい必要とされる。ABFは現在280名ほどいる。各県に配置される。基本的に文化省という中央政府管轄であり、中央集権的だが、各県に配置されることで地域特性をよく把握できる、実質分権的ともいえる。このあたりはかつての地方長官、県令、などとすこしにている。

しかしこのABFの権限がちいさくなる。もともとABFそのものが国家の代理人的な立場であった。こんどは国が、代理人よりも自分のほうが権限があるよ、と言い始めたことになる。代理人が自律的になって、うるさいことをいわないようにするためである。

記事によれば;

ABFの権限変更と平行して、エコロジー建築推進のための都市計画法典が改正され、建造物のエネルギー性能を明らかにすることが義務づけられる。

今後ZPPAUP(建築都市景観遺産保護区域)のなかでは、国は、ABFが建設プロジェクトに反対することを阻止できるようになる。遺産法典に導入されたグルネル2法14条では「建設許可を発行できる市長ならびに行政当局ならびに請願者と、ABFの意見が対立したばあい、その地域圏における国代表者は、ABFの意見にとってかわることのできる勧告を出すことができる。請願者は、建設許可が拒否されたばあい、訴え出ることができる。・・・・2ヶ月以内にその地域圏における国家の代表者がはっきりした表明がないばあい、その訴えは受け入れられたとされる・・。」とある。

・・・このような方式は、すでにある。歴史的建造物として指定登録されている建物や庭園のなかにあって目に触れられる。しかし事前宣言への反対なしの決定、建設・整備・取壊し許可を与える決定には、今日、文化担当大臣の合意のみが必要であるだけである。しかしグルネル2法の14条によって、これももはや必要でなくなる。手続きの迅速化を狙ったこの改正で、2ヶ月以内に地域圏における国家代表者が異議をはっきり表明しないばあい、訴えは認められたことになる。

グルネル2法の14条により、文化担当大臣の合意は、保護区域(歴史的・審美的・自然的性格により保存する価値有りと見なされるので、都市計画法典によって制定される区域)内での建設について反対なしの決定がなされたばあいは、取り下げられる。さらに地域圏における国家代表者が明確な意見を表明しなかったばあい、2ヶ月たてば、訴えは受け入れられる。

などなど。

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2009.09.19

グラン・パリをめぐる国際シンポがポンピドゥ・センターで開催されるという

WEB版モニトゥール紙の記事(2009年9月18日12:53アップ)によると、きたる10月1日と2日、ポンピドゥ・センターで、「首都の賭」と題する国際シンポジウムが開催される。副題は「大スケールのメトロポリス----グランパリとの出会い」という。

これはサルコジ大統領の肝いりで検討されいる大パリ計画の一環であり、シンポジウムの主催者は文化省なのである。

国際的に著名な建築家たちがパネラーとして招かれている。コールハース。ペロー。アインゼンマン。メイン。チュミ。隈研吾。などなど。そうそうたる顔ぶれである。

「生産的な無秩序」というテーマも用意されていて、なんだかかつての日本都市的イメージである。もちろんエコ、地球環境、エネルギー、領土やメトロポリスといった概念、なども論じられるらしい。シンポ内容はネットで配信され(metropoles.centrepompidou.fr)、フランスの建築大学にも中継されるという。

主導的な原理はもうない、という指摘も聞いたことがある。それはともかく、アイデアをオープンに募集するというわけである。

このシンポは、今アルスナル美術館で開催されている「ヨーロッパの超高層」という展覧会とシンクロしているように思える。アメリカに遅れること100年、アジアに遅れること10年、しかし10年ほどまえからヨーロッパでも超高層を積極的に建設しようという機運が高まってきた。いまのところ構想段階のものが多いが、2020年ころには顕著多数建設されているだろうとのことである。もちろん前史がなかったわけではない。100年前ころにはマイヨ門にそのような計画があったし、1950年代から1976年までは、モンパルナス・タワーやイタリア地区など高層建設ラッシュであった。しかし1977年に都市計画の方針が転換され、開発中心から保全型へとなり、高層建築はほとんど建設できなくなった。でもそれから20年ちょっと、というわけである。

超高層/グラン・パリの平行現象の本質は、ラ・デファンス地区を考えてみれば明らかだと思われる。このパリ郊外のビジネス地区は、例外的に高層建築が集中している。ラ・デファンス地区整備混合経済会社が独立採算で開発している地区である。3セク的だが、日本と違って公金が際限なく投入されることもない。いっぽう、この地区はほとんどが外資によって成り立っている。一種の経済出島でもある。

グランパリはすべてがラ・デファンス方式になるわけではないが、基本的には、投資対象としての大パリ首都圏がいかに魅力的かをアピールするというのが背景にあるのだろうし、そのために国際的な建築家たちを集結させたのはとてもシンボリックなことである。

市場原理の導入。ところが面白いのは、いかに市場原理を導入し、外資を呼び込もうかというときに、そのシンポジウムを文化省が主催するというところである。でも、フランスの体質からすればおかしくない。伝統的に、資本主義システムに参入するときも、国家は、国営企業というかたちで(かつてのルノーのように)、自由市場に参入するのであって、国家統制システムと市場システムが併存できる仕組みをつくっている。だから混合経済というものがあって、これはいわば市場経済と社会主義的システムの混在であり、日本でいえば3セク、イギリス流にいうとPFI、といったものに近い。でも一番近いのは中国の解放経済システムなのかもしれない。

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レヒト『文化遺産を考える』

Roland Recht, Penser le patrimoine, Hazanである。初版は1999年、改訂版が2008年。

日本語の文化遺産関係の文献はつまらない。日本において遺産とは、ほとんど行政学であり、外国のものの紹介でも、法律、制度、それらの実施をシステマティックに紹介しているにすぎない。哲学がない。いっぽう、ヴィンケルマンがローマの古代遺跡についてキュレーターのような立場で仕事をしながら、古代美術の概念を推敲したように、文化財保存ということと、美学、美術史、博物館学、建築設計などは地続きの大陸のようなものであって、異なる領域でありながら、それぞれが合わせ鏡のようになっている。ヴィオレ=ル=デュクの保存理論が、建築の本質とはなにかを問いかけることで、近代建築の理論的基礎を準備したのはその好例である。しかしそのようなイマジネーションを日本の現実のなかでいだくことはほとんど非現実的であるという実感を毎日もたざるをえない。

などと考えながらレヒト(フランス語発音ではレシト?)の本をぱらぱらめくる。

「文化遺産を考える」という章では、文化遺産と美術史の関係を論じている。クラウトハイマーを引用して、美術史は芸術家のモノグラフから出発したが、そののちシュレーゲルやヴェルフリンに見られるように、固有名は排除された抽象概念の歴史になる。そのおおまかな枠組みのなかで、ローマのラファエル、美術地誌学の成立、ケリュス伯とヴィンケルマンの近代的科学的美術史、リーグルによる傑作主義の排除・装飾の重要視、ヴィンケルマンによるいわゆる歴史的叙述の否定、19世紀の美術史のサイエンス化、様式判定の重要化、・・・しかし結局、遺産は根本的に目録として存在するのにたいし、美術史はある原理として法則として存在するし、そのようなものとして自律性をますます強めるであろう。で、レヒトは、文化遺産は、行政や市場原理にゆだねられるのではなく、その固有性を守るために美術史との連携がますます必要になるのだ、という。フランスでも市場原理が脅威となっているようである。

「過去の制作」という章では、ゲーテの二面性、つまり若き日のゴシック賞賛とそののちの古典芸術賛美、あるいは芸術は個人的鑑賞なのか集団的表象なのかという、二面性があるが、それがじつはつながっているのだ、というような指摘がなされている。若い頃、ストラスブルグ大聖堂をみたゲーテは、ゴシックはすぐれてドイツ的な建築芸術であると主張する。レヒトは、ゲーテがとりあげたある中世芸術家の評価、フィレンツェ芸術、デューラー、カッシーラの芸術論、などさまざまに論じてゆくが、最終的にはレッシングの『ラオコーン』に至る。ゲーテがレッシングを読んだかどうか、評価したかどうか、はフランスやドイツでも明らかではないらしい。レヒトはしかし、ゲーテは『ラオコーン』の影響を受けたと判断して、論をすすめる。『ラオコーン』の本質は、蛇に身体を絞めつけられる人物の苦悩は、肉体のそれにとどまらず、内面の苦悩そのものであり、それはすぐれて個人の内面である、という。そしてゲーテは、この古典彫刻の美学を、ドイツの中世美術に、あるいはプロテスタント的文化に転用しようとした、と推論する。まさに「『美学における固有原理』とは『内省(自己を観察すること)』にある」ということであって、それが個人/集団といった表面的な矛盾の背後に、この哲学があった、という説明である。

レヒトは別の章では、美術館がもたらしたものは、芸術の集団的ではなく個人的な内省のようなものだ、といったことを指摘している。レヒトは徹底して個人をベースに美術や文化遺産のことを考えたいようだ。まあそれはとても古くさいことの主張なのかもしれない。しかしその古くさいことが、文化遺産論というもののなかでなされることが、ある状況を物語っているように思える。また別のパースペクティブを与えてくれる本でもある。

レヒトはもとストラスブール大学教授で、コレージュ・ド・フランス教授、そしてフランス学士院会員になった。べつに権威主義になるつもりはないが、美術館、文化遺産などを語るときに、美術そのもも、美術史そのもの、歴史的建造物そのもの、などと同じ大陸を共有しつつ、3世紀間のヨーロッパという時空のなかで、いろいろ思索し始めると、あまりに面白くてとまらなくなる。麻薬的な読み物でもある。

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2009.09.15

共和国、施主、ミッション、ラ・ロシェル・・・・

夕方、書店によって文献を購入する。ぱらぱらめくってみる。

Tarek Berrada, Architectes et commanditaires Cas particuliers du XVIe au XXe siecle, 2006(ベラダ監修『建築家と施主:ケーススタディ16世紀から20世紀まで』)。とくに19世紀から20世紀にかけてのロスチャイルド家の普請道楽についての記述が面白い。それぞれ活躍した国家の伝統をふまえて、イギリスになぜかフランス王宮風の邸宅を建てたりする。全体としては折衷主義建築のパトロンとしてのロスチャイルド家の紹介である。章の最後の方で、社会的使命に目覚めたりする(20世紀初頭、パリの公共住宅のコンペを開催したいりする)くだりはあるが、説明はかなりはしおられている。最後は、同時代の建築家に発注することはやめ、古いシャトーなどを買ってそこに住むようになった、というのが結論として述べられている。・・・ただこれは重要。日本人が西洋の近代建築を研究するとき、建築家の理論ばかりに興味がいって、施主の姿や要望や時代意識にはなかなか目がいきとどかないからだ。こういう研究も重要である。

Claude Prudhomme, Missions chretiennes et colonisation, 2004(プリュドム『キリスト教布教と植民地化』)。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強の植民地が拡大したこととパラレルに、ミッション(布教)も進展したというまっとうな文献。アジア人としてはそのような構図はとっくの昔から批判的にいだいていたのだが、カトリックの立場から、自己批判がなされる。植民地化と手を携えた福音化は、正統であったかどうか?海外布教の第二の波は、産業革命と資本主義とにもとづく植民地化と、いかなる関係があったか?教義のうえでは、カトリックはこのような近代化には批判的であった。しかし植民地の現実のなかでは、布教と植民地化は協力関係にあったのも事実だ。この曖昧な関係を、本書は解明しようとする。・・・日本については、植民地でなかったので、論じられていない。しかし日本における布教を論じる場合、世界的な視点を欠如させることとなっている。

Caudine Robert-Guiard, Des Europeennes en situation coloniale Algerie 1830-1939, 2009(ロベール・ギアール『植民地状況におけるヨーロッパ女性たち;アルジェリア1830-1939』)。文字通り植民地ジェンダー論である。もっともアルジェリアは法的には植民地ではなく、フランスそのものであったので、「植民地的状況」とされる。各種統計資料をつかった、社会学的研究でもある。

Francois Bluche, Richelieu, 2003(ブリュシュ『リシュリユ』)。ラ・ロシェル包囲を敢行した枢機卿のモノグラフ。その包囲戦にも2章をさいて記述していたので、買ってそこだけ読んでみる。ラ・ロシェルという反逆の都市をいさめただけではない。この都市は、イングランド、オランダ、スペインと独自の関係をもって、共和都市化していたのであって、独自の外交関係をもつことがフランス王国には許せなかった。だからこれは単純な内乱ではなく、国際的な力関係を決めるためのものであった。だからプロテスタント/カトリックの戦いではなかった(だからナント勅令のあとでも戦闘を開始できた)。都市の自治。ラ・ロシェルは1373年から市参事会を組織することを許されていた。フランス国王でもラ・ロシェル市に入市するときは、「福音の名において、・・・地域の自由と特権を遵守する」と誓わねばならなかった。しかし包囲ののち、国王とリシュリユは市庁舎と市参事会を廃止させた。都市としての自律性が奪われたのであった。

Jean-Yves Andrieux, L'Architecture de la Republique, 2009(アンドリユ『共和国の建築』)。フランスは共和国である。これは国是であり、この自覚的な意識(幻想)のうえにフランスのアイデンティティは成立している。かつてミテラン大統領は、年頭の挨拶でいつも、フランス万歳、共和国万歳、と締めくくっていたものであった。それはともかく、とく第三共和制時代(1870~1940)は、学校建築、市庁舎などの役所建築がスタンダード化し、全国津々浦々に共和国的公共建築として建設されたのであった。アンドリユは、まさにこの時期にフランスのランドスケープは決定されたとまで指摘する。共和国建築の源流は、フランス革命にまで遡及できるし、1980年代にとりあえず破綻するまでは、続いていた、という。共和国のアイデンティティは、ネーション=ステーツのそれとは違う。またそれを、日本にように、拡大されたモダニズム概念のなかに解消できるものではない。日本の近代を再考するためには、日本のようにモダニズム・コンプレクスから始めるのはたいへん特殊ケースなのであって、国ごとにまちまちなのだ、という当たり前のことを認識するために、このようなフランスの事例を知っておいてもいい。それは日本にとっては有用なマニュアルとはならないであろう。だからよいのである。

・・・・などなど、いろいろ考えているうちに夜は更けてゆく。

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2009.09.14

アスピリンと「ル・グラン・パリ」

パリに着いて、まず医者にあった。

・・・・お歳は?どこにお住まい?観光客ですか。フランス語完璧ですね。熱がでてから10日ですね。最初のお医者さんの診断のとおりだと思いますが。べつに新型インフルでもないし。薬を処方してもらってまだ4日目?もうすこし様子をみなきゃあね。こちらにきて。息吸って、はいて。咳してみて。「あー」っていってみて。耳がいたい?覗いてみましょうか。はいよろしい。まあなんらかのウイルスにやられたのは確かですね。でもウイルスといたってたくさんあって、未発見のままとくに危険がないので問題にもならないものが多いですね。毎年2万種類の新種のものが発見されるんです(聞き間違いでなければ)。ところで1000mgのアスピリンは強すぎます。熱は下げるでれど、病気そのものは押さえないし、病気と戦う身体をむしろひっぱっています。こうしましょうか。抗生物質は処方箋を書きます。このとおり。でも今のんでいる抗生物質が切れるころでも症状が改善されなかえれば、もういちど来てください、そのときに処方箋をお渡しします。アスピリンは身体にやさしいものを処方します。500mgです。それからビタミンCですね。こんど来るときも電話してください。よいご旅行を。・・・

ナントの医者はちと不安であった。なので再度診察してもらった。おしゃれな医者であった。500mgのアスピリンもよく効いてくれた。夜中、寒さで目が覚めることもなくなった(アスピリンが切れると体温が2度も平気で上昇するのである)。マレ先生、ありがとうございます。

元気が出てきたので、日曜日であったが、シャイヨ宮にゆく。「ル・グラン・パリ」展である。

「京都以降」のメトロポリス再構築をめざすサルコジ大統領の肝いりであり、文化・通信省が担当しているプロジェクトである。

まずRogers&partners, London school of economics, ARUPらが全体スタディをしていた。これは展覧会のいちばん良質の部分であろう。パリ、ロンドン、ニューヨーク、東京などの世界都市が、それぞれの国と比較して、どのような環境性能を発揮しているか、が示される。当然のことメトロポリスは環境効率がよい。などなど。

そののちパリ・メトロポールのための10原則が示される。多核化、郊外の一体化などであるが、ぼく的に興味がひかれたのは、行政区画をどうするか、というスタディである。これはいろんな議論があって決まらなかったし、この展覧会においてもひとつの案ではなくいくつかの案を提案しているのみである。選挙権者50万人ずつでまとめる、旧パリはそのままで同程度の人口の自治体にまとめる、など4案が示されている。

1860年にオスマンが周辺市町村を統合して大パリを再編成したとき、既存の市町村の境界は無視され、地理的にのみか、社会的にも再編成されることとなった。1960年代、時の建設大臣は、保守的なパリと、革新的な周辺市町村の対比をさらに強調するため、パリ内外をさらに分断しようとした。1980年代、社会党の大統領ミテランは、郊外の革新系自治体の連携をはかるような大パリプロジェクトを検討させる(しかし成果は少なかった)。

そしてサルコジ大統領の大パリは、どのような政治的党派制と結びついているのであろうか?もう左右の構図はふるくて、ほんとうに新しい世紀にはいったのであろうか?環境、持続可能性がいちばん前面にでているので、大政翼賛会的にもみえてしまう。

招待された10の建築家チームの案は、どうもいただけない。ポルツァンパルクも、オート・フォルムの頃のほうがよかった。ヌーヴェルも急に優等生になった感じ。グランバックも、これでは1960年代案の再録ではありませんか。MVRDVになると、もう。ノーコメント。

グランバック案は、世界のメトロポリスは海洋性都市であるが、パリだけは内陸性なのでハンディがある。だからパリとル・アーブルまでをリニアな都市網としようというもの。パリ、ルーアン、ル・アーブルを高速鉄道で1時間で結ぶのだそうだ。ボルドー、ラ・ロシェル、ナントとみてきて、フランス王国は海洋性都市をことごとく去勢してきたのではないか、といいたくなるのであるが。パリは内陸性メトロポリスでいいのではないか?

この「国際的討議」はもちろん、起爆剤であって到達点ではないようだ。

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ナントについて

ナントはね。まあ医者に会いに行ったようなものさ。

ホテルの人にアポをとってもらって、しかもホテルの隣りの隣りだったので楽だったけれど、いい味出しているおやじであった。床にはファイルが無造作にごちゃごちゃ置いてあるし、おそよフランス人医師といったイメージではない。それでもアスピリンはとてもよく効いて(効き過ぎるくらい効いて)、平熱近くまで下がってくれた。

ここのカテドラルは盛期ゴシックのもの。最近15~10年くらいで完璧に修復していた。あまりに修復は完璧で、石壁も最近石切場から切り出した石材のようで、中世の建物という気がしない。最近の宮大工の技術で、奈良時代的に建物を完全に再建する、そんな印象である。悪いことではない。

保存。19世紀と20世紀では哲学が違う。19世紀は、まだ過去との連続感があって、中世人がやりのこしたことを継承して完成させようという意志があった。しかし19世紀末から20世紀にかけて、近代的な保存哲学が構築される。つまりある歴史的断面を永遠化することが、保存となる。新しい建材で補強するばあいも、その追加された新しい建材は、既存のものとはっきり区別されねばならない。1964年のヴェネツィア憲章の内容である。

しかしぼくはこの近代的保存の概念にどうも違和感を感じるようになってきている。基本的にオーセンティシティーとか、その根底にある科学的根拠というのは、1×××年においてこうであったという状態を、資料によってそれが確定されるということを根拠にして、永遠化しようというものである。

そこにないのは、建築の理想的姿ということである。中世の建物も、いわゆる歴史的建造物も、廃墟となったということだけではなく、そもそも建設者が意図した理想的状態に至ったかどうか、ということになると、じつは歴史的建造物というものはほとんどは未完成のままである、といっても過言でないような気がする。とくに宗教建築は、予算との整合性はまったく念頭におかないものであって、完成を、理想を念頭におきながらそれへはほとんど到達できないような構図を内包している。

ヴィオレ=ル=デュクが目指したのも、壊れた建物の修繕ということではなく、中世が完成させずにおいた理想的建築を自分が完成させるということであった。だから彼の論考は、そもそも建築とはなにか?という根本的な問いかけであった。だからそれをジャンピングボードにして近代建築運動が展開される。つまり保存が近代を生んだのである。しかし多くの日本人は逆転した理解をしたままである。

ナントの旧市街地はなかなか活性化されている。主要なところはペデストリアンであり、飲食店は道にテーブルを出すので、町中がレストランになったかの状況を呈するのである。

ライフスタイルとしては。5時まで、仕事。終わるとただちにカフェにくるか、いちど帰宅して着替えて、都心にもどってくる。日没の20時すぎまでは、そこでビールやなんかを飲みながら、友人たちと談笑する。食事は20時半ころからであろう。2時間ほどかけてゆっくり食すれば23時近く、大いに飲み、食し、歓談し、人生を謳歌し、明日の仕事にさしつかえない時間に帰宅する。

でもこんな生活をナントのひとびとは何百年も続けてきたわけでもないだろう。路上で食するのはレトロのようで近代的なのかもしれない。ただ観察者にとっては、ナントの人びとはそのような生活をしてまさに幸せであるという、その幸せ感の充満度が印象的なのである。つまり中心商店街が活性化されているわけだが、それは人びとが、自分たちの望みどおりのことをできるからである。でも日本人は、ツーリズムでも中心商店街でも、なにが幸せかをじつは誰も知らない。ぼくらはあまりに儒教的なのであろうか?

パリに着いて、書店でGilles Pinson, Gouverner la ville par projet, SciencesPo., 2009(ジル・パンソン『プロジェクトによって都市を統治する』)を見つけた。ナントや同規模のヨーロッパ都市について書かれた書なので、買ってパラパラ頁をめくってみる。地方分権によって地域州が、グローバル化によって世界経済が中心的役割を果たすようになって、「都市」はその地盤沈下が懸念されてきたが、この「プロジェクト」というものを中心に据えることによって「都市」はアクターとしての役割を維持している、というような骨子である。また「計画」が国家が予算措置と完成図を保証しているのにたいし、「プロジェクト」は都市がそれをにないつつ、常なる再定義と不断の再組織化を要求する不安定性のうえにある。

ぼくも去年、歴史研究においてもはやイデアや様式などを中心にすえる方法論は有効ではなく、これからはプロジェクトを核にすえた歴史叙述をすべきと考え、その方向で論文をひとつ書いた。この秋には出版される見込みである。だからパンソンの文献には勇気づけられる。国民国家ができる以前は、都市はいろいろなネットワークのなかを、ストラテジーをもって、上手に舵取りしなければならないものであって、その都市形成というものも計画の実施というよりは、まさにプロジェクトの積み重ねなのである。

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2009.09.13

ラ・ロシェルのことなど

パリに着いたのでラ・ロシェルのことなど追憶してみる。

これは中世にできた港町で、古代ローマに起源をもつ他のフランス都市と比べるとかなり(1000年ほど)若い。

別の言い方をすると、古代ローマ都市とは地中海秩序のことである。でもラ・ロシェルは、イングランド、オランダ、スペインそしてやがては新大陸との通商で栄えるように、基本的に大西洋秩序に属している都市である。そのあたりが根本的に違うようだ。

どういう経緯でプロテスタント都市になったかはこれから調べてみるが、一時期、プロテスタント商人の共和都市であった。これも大西洋秩序のなせるわざではないかと思っている。

建物にあまり見るべきものはあまりない。しかし建築史専門家的にはいくつか調べてみたい建物があった。だから調査旅行などにきたりする。書店や図書館を覗いてみたが、しっかりと都市史・建築史についての堅実で内容豊かな文献がたくさんあった。

おもうにフランスの建築史・都市史研究は史料編纂的である。だから史料批判ができる専門家がいれば、そういう文献は比較的容易に制作できるもののようだ。(日本の中核都市にはこのレベルの建築史・都市史を出していない都市がたくさんある)。

16世紀はプロテスタント都市として繁栄した。神殿も建設された。17世紀前半、フランス王国軍に壊滅される。17~18世紀、カトリック建築が建設される。そういう大変換が、石の建造物となって残されている、そういう都市である。しかしもちろんフランス人はそれを奇異とは思わない。でもやっぱりあそこにいわゆるイエズス会様式風のカトリック教会堂が建っていることは、とても変なことなのだ。まあ体制が変わったのだから、しかたがない。でも、もしここがずっとプロテスタントのままだったらどうなっていたか、などとイマジネーションをふくらませることは歴史家にとってとても大切なことだと思っている。

ラ・ロシェルでは「新世界博物館」にもいった。ラ・ロシェルから新大陸へフランス人が多く送り込まれた。なによりも奴隷貿易の拠点でもあった。奴隷船にいかに高密に奴隷を詰め込んだかという(このテーマではほとんどお約束のような)図面も掲示されていた(これは30年前に出版された建築計画の専門書にもあった。日本の学者はほんとうに悪食である)。じっとみているとミュージアムの人(キューバ系フランス人)が語りかけてくる。知っているようなことばかりであったが、彼の家系そのものがアフリカ→キューバ→フランス、という太平洋を1往復した不幸な過去を背負っている。子供にも教えているんだ、といっていた。

でもミュージアムはどこもガラガラだった。さみしい。

ラ・ロシェルは日差しがとても強い。サングラス、帽子は必携である。ちなみに今しているレイバンは、ちょうど10年前にラ・ロシェルで買ったものである。

港は今は商用ではなく、プレジャーボートやヨットがならぶ娯楽施設となっている。メディアテークや各種ミュージアムも旧港湾施設を再活用して配置されている。もちろん住宅と混在させることは忘れない。旧都市の骨格をまもった、適正規模の住みやすい再開発である。

ツーリズム的にはとても成功している。外国人観光客ももちろん多い。イギリス人が飛行機をチャーターしてやってくるんだそうだ。現代のツーリズムもまた歴史的な経緯をなぞっている場合が多い。

水際をとぼとぼ歩く。ヨットスクールや、クラフトスクール(ヨットもメンテ?)がある。ほどほどに活気があり、ほどほどにもの悲しい。

移動日前の最後の一日は、安全をとって、全休とした。資料を整理したり、インターネットで文献を検索したり、熱が出てくると横になったりした。窓の外は海岸通りである。カフェでくつろぐ人。まったり歩く観光客。パフォーマンスをする総銀ペイントの人。船着きの海水は、鏡のようとはいえないが、じっくりソリッドな印象を与える。係留されている白いヨット。そのマスト。城砦の、シリンダー状の、石をしっかり積んだ堅固な塔。そして青い空。それらをベッドでぐったりしながら眺める。すべては意識に直接プリントされたもののようでもあり、たんなるカラー写真のようでもあり、もどかしい。そしてぼんやりとした意識のなかでおぼろげに考える。ぼくは結局、ラ・ロシェルについて一文をものすることになるのであろう。なんらかの形で。

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2009.09.08

高熱にうなされて

海外出張中であるが、突然、高熱におそわれた。38.5度が三日続いた。週末でもあったので、水とビスケットを買い込んで、ホテルに籠城する。

週明け、ホテルのフロントでアポイントメントをとってもらい、医者に診てもらう。カゼではなく、扁桃腺が炎症をおこしているということで、抗生物質、アスピリン、喉スプレーを処方してもらう。喉薬はビオで、味もよい。薬の開発はどうも日本よりもかなり迅速であるという印象を前からもっている。

ともかくもともと悪発音なのに、喉がつぶれた状態で、こころして会話しないといけない。熱のせいで喉がおかしいのではなく、喉がおかしいので熱がでたのである。

ホテルに戻ると、フロントの人から、どうでした?新型インフルエンザではなかった?よかったですね、と祝福の?言葉をいただく。

新聞やテレビでは、インフルエンザのことがよく話題になっている。当局はまだ正式に発表していないが、専門家たちは10月中旬に、国民への一斉ワクチン接種が始まることをほのめかしている、という報道である。手洗い、うがい、咳エチケットなどのテレビ啓蒙もはじまった。クラス閉鎖になったらインターネットで学習するシステムまで紹介されている。ようするに、臨戦態勢にはいっている。

発熱状態ではろくなことはない。

エビのブロシェット(焼き鳥のような焼きエビ)を頼んで食すると、脳内会話がはじまる。

エビ、すこしわけようか?

ありがと。うん。おいしい。

エビだもん。

さて、エビだもん=エビダマン=évidemment=自明のことさ(もちろん、確かに)、であり、フランス語会話としても成立してしまう。

これでひとりで微笑んでいたりしたら、かなり危険なオヤジである。

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2009.09.02

ラ・ロシェルのプロテスタント博物館(文化財の破壊ということ)

京都の人がいうこのまえの戦争とは応仁の乱だったりする、などとよくきく。田舎者にはわかりにくい時代感覚である。しかし日本人がみな京都人のようなものだったら、どうか?

ラ・ロシェル市の教会建築を調べているので、補足学習的にプロテスタント博物館を訪ねた。タイミング良く、ガイド付き解説ツアーにいれてもらった。

大西洋沿岸の通商都市ラ・ロシェルは、16世紀、人口の95%がプロテスタントであった。当時のフランスでは、プロテスタント都市と呼ばれるものが17カ所にあったという。

ところがイングランド軍がかってに侵攻したこともあって、ルイ13世はラ・ロシェルを包囲し、兵糧攻めにする。15カ月のこの攻撃で、人口2万8000人は5400人にまで減った。5人のうち4人は餓死したのであった。そして王国はここにカトリックの商人たちを送り込む。やがてカトリック都市になる。そして現在プロテスタントは人口の2%を占めるにすぎない。・・・・ガイドをしてくれた老婦人はため息混じりにそう説明してくれた。

その際、いくつかのプロテスタント神殿(教会ではなく神殿と呼ばれる)が破壊された。模型や図面でそのよすがを知ることができる。

そんな話しを聞いていると、オルレアン大聖堂のことを思い出した。ボランティアで大聖堂の説明をしている老人は、17世紀にプロテスタントによって、18世紀末に革命によって、どこそこが破壊されたなどと、今もって憤懣やるかたない調子で説明する。ラ・ロシェルの逆の立場である。

よく革命や戦争のバンダリズムで文化財が破壊された、などと建築保存の文献には書かれている。しかしこうした破壊を一方的に文化の名において批判するのもよくない。なぜなら破壊の反省に立って文化財制度ができたのであって、破壊者たちにとってはそれらはまだ文化財ではなく、たんに異教徒の建物にすぎなかったからだ。

日本人はベルリンのユダヤ博物館にはおおいに共感するが、どうもプロテスタントには(地球上では強い立場ということもあって)同様な心情はいだかないようだ。しかし今でもカトリック/プロテスタントのあいだの心のしこりが完全に解消されたようでもないようだ。

文化財は、国民国家の成立と裏腹な関係にある。宗派の違う者どうしが破壊合戦をするのは建設的ではないので、建造物を、宗派を超えた国民の共通財産として位置づけなければならない。そのために文化財候補を国が引き取ってゆくのである。フランス革命のときは、国家による教会建物・不動産の接収という荒々しい手法であった。

だから近代の世俗社会にあって、歴史的建造物とは、あるいは文化財とは、宗派をこえた宗教、メタ宗教のようなものとなった。そしてつぎにフランスは制度輸出をするようになる。

そういえば建築学会大会で、太平天国の乱で蘇州のどの宗教施設が破壊されたかを調べたたいへん興味深い研究発表があった。近代化プロセスにおいてはしばしば発生することであり、たいへん普遍的な現象なのである。

だからユネスコでも戦争による破壊のことはかなり重要な案件としてとらえられている。しかしそれは、近年の戦争や争乱によって(たとえばバーミヤンのように)破壊されることがあるからだけではなく、保存は、基本的には、そしてその出自から、破壊行為とおなじコインの裏表の関係にあるのである。

破壊を悪いことだと一方的に弾劾するのではなく、破壊行為にも歴史があるように思われるし、それを調べるのも悪いことではないようである。

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2009.09.01

塩野七生『ローマ人の物語 最後の努力』と政権交代

久しぶりの海外出張である。

空港の書店で標記文庫本を買って、機中の暇つぶしに、読む。上中下巻を読み切る。つくづく飛行機のなかで読むにふさわしい書籍であると感じる。

ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の、クリティカルな時代である。西洋建築史の講義では、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令でキリスト教が公認され、初期キリスト教の教会堂が建設されたと毎年説明しているので、彼女がどう説明しているか興味深かった。この作品は歴史小説であり、一種の国盗り物語りとして書かれている。だから先帝がキリスト教を弾圧したり、こんどは一転して公認したりということが、権力抗争との関連で描かれている。

ようするに四頭政治などの権力の分散から、皇帝への権力集中という新しいシステムにとって、多神教的な古代ローマ宗教よりも、一神教的なキリスト教が構造的にぴったりフィットするし、皇帝の権力の正統性として、共和国的な選挙よりも、権力神授的な理由付けがよいのだ、というような説明であった。

わかりやすい。でもそれは、ビザンチン帝国的な枠組みと、西ヨーロッパの中世における分権的構造の両方をいちどに説明できるのであろうか?西ヨーロッパはもっと異システム併存的であり、あまりすっぱりした説明はできないような気がする。いずれにせよ古代史・中世史の専門家にきくべき問題である。

ローマ帝国の政権交代のつぎは現代日本の政権交代であった。

パリに着くと、選挙の結果がでていた。ヘラルドトリビューン紙では、もっぱらアメリカとの関係を問題にしていた。民主党の政権構想は反アメリカ的だが、それは旧左翼勢力をなだめるためという見解が示されていた。そのうち親米的な本性があらわれるであろう、という観測である。

フランスのル・フィガロ紙では、経済、失業、官僚支配の打倒、天下り問題などの生活者的なまっとうな視点から紹介されていた。外交については言及はなかった。

当たり前だが、日本のマスコミも欲目から論じる。日本のメディアは、ワシントンポスト紙などを引用して、オバマ政権は日本の新政権を相手にしないのではないか、という悲観論を展開していた。どうもこのあたりが恣意的に選択されている。

コンスタンティヌス帝は、中央集権的な、管理主義的国家として帝国を再建し、滅亡をしばらく先送りするのであるが、まさにその新体制の性格によって結局はローマ帝国は滅亡するというのが塩野七生のあらすじのようである。日本はどうなるのであろう。

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