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2009年8月の8件の記事

2009.08.28

「歴史的建築リストの可能性」

2009年度大会(東北)二日目、研究協議会のテーマであった。

委員の方々の長年にわたる成果が説明され、またアメリカ、フランス、など海外の事例も紹介され、たいへん充実したものであった。また文献史学の専門家からの指摘も、建築サイドを勇気づけるものであった。思い出した点だけを走り書きすると・・・

災害時の危機管理にとってとても重要。地震や台風のあとで、どれが被害を受けた文化財なのかをまず特定しなければならないからである。

登録文化財の所有者のネットワークが大切であるという長崎の実例報告。これはたとえばフランスの、美しい村ネットワークや、農家改造ネットワークのように、体験や智恵を共有することで保存・活用に役立てることの可能性を与えるものである。すべてを専門家にゆだねるのではなく、すでに経験によって専門的なものを学習した一般市民間の情報交換がとても重要なのである。

DBのなかに画像を取り込むかどうかで、かつて議論があったことが紹介されていた。

ほかに、GPSによる地理情報も重要。肖像権の問題もある。知財、版権などについては、アメリカ建築史学会のアップロードシステムではよく練られていうることが紹介されていた。ただDBのスケールはまだまだのようだ。

印象であるが、まず、200年近く前からDB作成を手始めに文化財政策をはじめたフランスでは、このリストそのものが大文字の文化財であるがごとくである。いまではさまざまなDBがあるが、それらをリンクさせ、複合的ではあるがひとつのDBを構築しようという意志がはっきりしている。それにたいして日本では、個々の地域や、個々の案件におうじてDBが構築されているようで、それらが複合して全体としてのDB系になるというようなイメージではない。お国柄というか、文化のありようそのものが反映されている。

データベースということにとどまらず、現代ではそれらがネットワークでリンクされているということが重要だ。しかもはじめから共有されるはずのDBが論じられたわけだが、じつは個人DBもある。それは個人のそれぞれのお仕事のために構築されたもので、ぼくたちは毎日PCに入力しているのだが、それは無自覚的なほとんどDB構築なのである。こんなものは、結局、どうなるのであろう。

文献史学の専門家が指摘していたのは、個人DB(お蔵にあった古文書とか)が、いかに共有されるか、あるいは公共的なDBに変換されるかというようなことであった。これは文献史学のみならず、あらゆる情報についていえることであろう。

卑近な例でいえば、ぼくですら10万点の建築写真を撮影しているし、それ以上の個人コレクションは無数にあるであろう。

そうするとこういうことであろうか。研究者がPC上に研究情報をすべて一元化して処理するとすると、HDDはそのDBが宿る基体である。ぼくたちは毎日それを鍛え上げるが、やがて引退したり、世を去るときは、その鍛え上げた情報の束を、いかに人類的DBに接続しておくかを考えるのであろう。それは神の御許に戻るような営みとなるであろう。

・・・・まあそれくらい価値のある仕事ができたらの話しだし、僕的にはずっと先のはなしですが。というわけでその晩の懇親会では、大先輩たちに研究の可能性についていろいろうかがったり、去年の夏に書き上げた西洋広場プロジェクト論がやっと刊行されるようだという情報を得たり、世間話、うわさ話をしたり、J先輩の30年近く前のD論発表会については本人もあまり記憶がなかったり(こういうものは聞いた人間のほうがよく覚えている)で、気がつくと1時であった。

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2009.08.27

「海から見た都市と建築」

仙台で建築学会大会が開催されている。

標記はそのパネル・ディスカッションのひとつである。建築史の専門家が中心となって集結し、この大テーマを論じていた。多士済々の面々がさまざまに論じながら、聴衆のひとりであったぼくは、連想が連想を呼んで、あらぬことなど考え始める。

まずは網野善彦のことなど。彼が海/歴史について論を公にしはじめたのは90年代からであるが、先駆的には80年代にはすでに主要な論点は、とくに歴史畑ではない若い学生にも知られるようになっていた。早い物好きの若者たちには、網野文献は隠れた必読書にもなっていたように記憶している。

それと起源において直接繋がっているわけではないだろうが、ヴェネツィア研究で有名なJ現教授のD論を、研究室で聞かせていただいたのがやはり80年代初頭であった。身内限定の発表会であったので、裏話まで聞かせてもらって、やけに面白かった記憶がある。それは地中海世界の広がりのなかで、イスタンブール(コンスタンティノポリス)、カイロなどとのネットワークのなかで、いかにヴェネツィアの都市と建築が成り立っているかというものであった。

とうぜんのことこれらふたつの体験は、地下水脈のなかで繋がっていたわけである。

ただパネル・ディスカッションそのものは、そういうわけで、30年前の問題意識からほとんど変わっていないという印象であった。もちろん一貫することもよいと思う。「海から」視点が無意味になることもないであろう。だた歴史研究の新しいパラダイムを探求するこころみが、なかなか成果をだせないでいる現状のなかで、パラダイムそのものの(再)設計というようなものを期待したいものであった。

ところで網野さんの視点は、ぼくなりの造語でいうと、おもに内陸性原理によってなりたっている近代の国民国家というものにたいし、海洋性原理でなりたつ群島的、アーキペラーゴ的なネットワークを対比させ、そこに自由な人間と空間を認めようというものであった。それは共同体内的なものにたいし、間共同体的なものを措定することであった。

ただしこの批判精神は、20世紀中葉の状況にむけられたものであって、グローバル化の今、かならずしもその批判的な高揚を維持できるものではなくなってきているように感じられる。つまり網野さんが指摘するようなボーダレス、ネットワーク、の時代になったのだが、ではそれで人びとが拘束から解かれ、自由になり、幸福になったかというと、そうでもない。

あるいは国民国家がなくなるかというと、べつにゼロになるわけでもない。

ぼくは、内陸性原理/海洋性原理のバランス、というようなパラダイムがよいのではないかと思う。もちろん違う原理は、矛盾し、葛藤するのであるが、現実の秩序は、これらの2要素の微妙なバランスの上に成立する。あるときは一方が優勢になり、あるときは拮抗するし、その対立によっていろいろ災いも、幸福も、発生する。

ぼくは去年ボルドーについて論文を書いた(今年中には刊行されるであろう)。中世にはイングランドにワインを輸出し、18世紀には大西洋貿易で栄えたこの都市は、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、オランダ人、そしてもちろんユダヤ人を含む外国商人もいる多国籍複合的な都市共同体を形成していた。そしてそれとフランス王国、フランス国家は別の法人格である。さらに前者は海洋性原理の都市共同体であり、後者は内陸性原理の秩序である。両者は、時に対立し、時に妥協し、共通の利益をさぐってゆく。

またラ・ロシェールもそうである。この大西洋沿岸にあるプロテスタント通商都市は、通商によって巨万の富をえて、共和国化し、ほとんどフランスから独立しそうになった。このオランダ化を恐れたフランス王国は、17世紀の30年代ごろ、ここを制圧してしまう。兵糧攻めにより3万人が餓死したといわれている。この時期の王国は、新大陸にも領地をひろげていたので、海洋性原理をもっていたわけだが、しかし基本的には大陸に根拠をもつ内陸性原理の国である(だから植民地戦争においてイギリスの敗れた)。

興味深いことに、ラ・ロシェールの悲劇がおこったまさに同時期、オランダ商館は平戸から長崎出島に移動され、徹底した管理下におかれる。これは海洋性原理/内陸性原理の葛藤が同時期に違う場所でおこったものと解釈できる。

などということをバネルディスカッションを拝聴しながら考えていた。

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2009.08.09

アンキャニーな輪郭

MAT Fukuokaという企画での講演を準備しているときに、ふと気づいた。輪郭をなぞるという70年代の手法が、ある世相とシンクロしていた。

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まず連合赤軍リンチ事件の現場検証である。遺体の輪郭が白いテープで示されている。不在の痕跡としての輪郭。現代アートなら痕跡などというのかもしれない。現実にそこにあったものが、印しだけを残し、去ってしまう。

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つぎに群馬県美のドローイング。キューブこそ建築と主張していた建築家は、実際の建物の背景のレイヤーにある理想的レイヤーとしてのキューブを描く。それは現実の建物が不在となったあとの輪郭である。輪郭こそが建築のエッセンスであるというメッセージ。イデアは輪郭である。

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アメリカの偉人フランクリンの生家を輪郭であらわした記念碑。このモニュメントはたいへん健康的で明るいが、故人を偲ぶものであり、一種の墳墓のようなものでもある。この偉人の生前のディテールを熟知している人にとっては、けっこう生々しいかもしれない。

これらはすべて70年代に発生したか、作られたものである。たしかに当時の空気を知るものとしては、こうした輪郭のもっている重要な意味あいがあったような気がする。それは近代というものは変数項"X"でなりたっており、生身の個人なり具体的な建物の機能はたまたまそこに代入される任意の変数にすぎないのである、というような感覚である。そこでその形式にしかすぎないはずの"X"をセレブレートしようとうニヒルな態度が生まれることになる。

疎外の美学である。

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銀行ができる/つぶれるということ

むかしユーミンが、私の歌が流行らなくなるのは銀行がつぶれるとき、というようなことをいったらしい。当時は銀行が倒産するなど想像できない時代であった。しかし1990年代の不良債権問題をめぐって、そのとおりになってしまった。

でもぎゃくにいえば銀行は地域の発展に欠かせない。

明治のころ、若松市や大川町(調べたことがあるので)では、地元の主要企業などが資金を出し合って株式会社形式の銀行を創設した。そうすることで起業や資金繰りが容易になり、地域全体全体が活性化される。そこの酒造会社は1890年代のシカゴ博覧会に出品するまでになる。

ところが1927年の金融恐慌でこれらの地元銀行はつぶれ、全国区の財閥系銀行が支配するようになる。ようするに東京の大銀行による地方支配がすすむ。

景気循環が世界動向にとっては決定的であり、世界恐慌を精算するために第二次世界大戦が勃発しただのという史観もある。さらに最近の金融危機が第三次世界大戦を導くなどあまり信じたくないご神託まである。いやだが、それも一理ある。

建築に即して考えると、1927年の金融危機、経済危機から、マーケットへの公的介入がなされ、ヨーロッパでは公的住宅がクローズアップされるし、都市計画もそのようなものとなる。そうした背景から、より機能的、シビルミニマム的な建築が求められる。最小限住宅などはポスト金融危機的なアイディアなのである。

結局、金融危機直後のシビルミニマム的なものは、国民服的、国家統制的なものとして表現を変え、じつは1960年代の経済成長までをささえる構図となる。ポストモダン初期において批判された「近代」というのはこういうものであった。

では今回の金融危機は建築になにをもたらすのであろうか?ほんとうに100年に一度の危機であるなら変化があるはずである。ただ上海万国博までは世界はこの建築パラダイムを変えたがらないという気もする。変化はそののちであろうか。

ところでMAT Fukuokaという企画でも取り上げられたが、やはり福岡という都市にとって、福岡相互銀行本店(磯崎新、1972年)と福岡銀行本店(黒川紀章、1975年)とあいついで建設されたことは象徴的であったと回顧できる。

そののち福岡は拠点中核都市として地域を支配するようになるからである。地域の発展のコアにあるのは金融であり銀行である。さらに磯崎vs黒川というライバル関係までが投影されているのも面白い。さらにシーサイドももち、ネクサス香椎までは華々しく外タレを呼び、磯崎さんにコーディネイトさせ、話題性があった。でもこれからどうするのであろう?

昨日は黒川紀章についてお話しした。今日は磯崎新についてである。でもそれを前川国男設計の市美のなかでやるというのがアレなのであるが。

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2009.08.04

『1995年以後』(エクスナレッジ2009)すなわち第二の敗戦世代

最初は気にもとめなかったが、なんとなくカンが作用したので買ってみたら、とても新鮮であった。

1995年はウインドウズ95、サリン事件、阪神大震災の年で、そこで時代がおおきくかわったという認識がある。でも1995年が重要だとしても、それはほかの理由があるように思える。

世代論で考えてみよう。

たとえば1929年の世界恐慌の前後に生まれた人びとは、すこし大人に近づいて16歳で1945年の終戦を迎える。若干の誤差はあるが、菊竹清則、磯崎新、黒川紀章などはその範疇にはいる。この世代は、自分なりの思想や方法論をコアにすえようとする。

でも、たとえば1974年のオイルショックの前後に生まれて、やはり大人に近づいて17歳で1991年のバブル崩壊を体験するとしよう。たしかに1995年の騒動も大変であったが(別の世代にとってはそうでもなく、ぼくなどは三島由紀夫自決とあさま山荘事件のほうがはるかにショックだもの)、その大変さを感じられるのは、そうした世代的な背景があったからであろう。

なおかつ、本書であつかわれていうる1971年から1983年生まれの人びとは、いわゆる「ロスジェネ」なのである。そしてこの世代はぼくが教師になって最初に教えた世代なのである。もちろんぼくはあまり良い教師ではなかったのであろう。そんなトラウマがこの書を読ませることとなったのではないか。

たまたまだが、たしか1994年に、近くまできたので東大の卒計展示をのぞいて、レベルの高さに驚いたことがあった。あの学年だけ、突出してハイレベルという印象であった。あとで大野先生にそういったら、そうでしょ、あの学年は特別、なんてことをいっていた。計算すると彼らは1972年生まれであった。ロスジェネ世代である。その彼らも30歳代後半である。これからすごいことになるかもしれない。

批判的工業主義、ニューバビロン、シチュアシオニスト、トポログラフィー、などのアイテムは納得できたりできなかったりである。しかし自分の方法論なり思想なりをちゃんとカスタマイズしよういう本気度はとてもよく感じられる。知の消費、エピステーメーのたわむれはもはやない。

ここで磯崎さん的なもの/黒川さん的なものの構図が面白い。

磯崎さんは、もちろん自分の感性から創造する偉大すぎる作家であるが、「都市からの撤退」や、手法論、引用論、マニエリスム論のようなことからわかるように、基本的には「方法論」ではなく「批評」の人なのである。存在そのものが批評なのである。だからニューアカとの相性もとてもよかった。

しかしニューアカの影響はもはやない。磯崎さんのそれもほとんど感じられない。バブルの崩壊が第二の敗戦といわれ、その敗戦を背負っているはずのこの世代にとって、ニューアカ的なもの磯崎さん的なものはほど遠いというのもわかる。

黒川さんはいろいろ批判された。しかし1967年の『行動建築論』をよく読めば、都市にコミットメントしつづけながら、内外のいろんな理論を取捨選択しながら、固有にして普遍的な方法論を、ベタなまでに構築しようとしていることは否定できないのではないか。おそらくその理論と作品との乖離があって、それが彼にとってすこしマイナスだったのかもしれない。しかし都市や社会にベタにかかわりつつ、その接点において、方法論を構築しようとしたことは否定できない。

そして黒川さんが能力がありすぎて放棄してしまった、あるいはかすんでしまった方向性を受け継いでいるのが、じつは「ロスジェネ世代」なのではないか。じつは『行動建築論』と『1995年以降』を連続して読んだのであった。どちらも30歳代の人が書いたものだ。そこでは野心と誠実さがよくバランスしているように感じられた。

時代はふたたび転換したようである。批評の時代も終わった。ニューアカの影響もとっくに終わていた。「第二の敗戦後」を担うのはこの世代であることは、順番からしてとても自然なことなのである。

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2009.08.03

黒川紀章について

MAT Fukuokaという企画で黒川紀章についておしゃべりすることになったので、パラパラ本をめくったり、雑誌を眺めたりした。磯崎新についてはなんども機会があったが、彼についてははじめてである。

建築家はときどき、とんでもなく時代に先行することがある。本人も知らないうちに。

ミケランジェロなんかそうであった。たとえばローマのカンピドリオの広場計画であるが、そのファサードにはいわゆる「大オーダー」がある。大オーダーといっても高さ何十メートルで決まるのではない。かならず「小オーダー」的なものがあって、その相対的な大小関係のもとに「大オーダー」なのである。

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このファサードでは、だから、大オーダーのレイヤーと、小オーダーのレイヤーが重なっている。

ルネサンスの建築ではこうした表層レイヤーはほとんどなかった。しかしマニエリスム、とくにバロック建築では頻出する。よくバロックの宮殿や教会堂では、エンタブラチュアも屈曲しているし、柱も一定の間隔で並んでいるわけでもないし、ごちゃごちゃしていてとてもうっとうしい。あれはじつは理路整然と並べられている。しかし2層、3層のレイヤーをなしているので、それを見る人が1層という仮定のもとに見てしまうととても理解できない、だけのはなしである。

しかしミケランジェロはCADで設計したのではないから、レイヤーという現代用語は知らなかった。しかしレイヤーに相当する概念は所有していたわけだ。あるいはコンピュータはレイヤー概念を創出したのではなく、せいぜい再利用しただけの話しかもしれない。

同じようなことが黒川紀章にもいえるのではないか?

彼の『行動建築論』(1967年)を何十年ぶりにめくってみて、後知恵のおかげで、再リーディングの楽しさが多かった。たとえばヨナ・フリードマン(フランスでも回顧シンポがあった)、バケマ(ぼくの学生も研究している)、ヴァン・アイク、フワンソワーズ・ショエ、スミッソンらと交流があったこと、などが臨場感をもって読むことができる。黒川のアプローチは、未来学的と指摘されたり、仏教思想の影響もよくいわれるし、営業活動の執拗さについても揶揄されることがある。その理論のいわゆる調子のよさも、当初からいろいろ批判されていた。

読んでいると、彼の疾走的な学習ぶりがよくわかる。熱力学、情報理論、サイバネティスク、ダイナミックバランス論、アンリ・フォション、ニーチェの永劫回帰、共存の哲学(まだ共生ではなかった)、モビリティ、DNAらせん構造、アレグザンダー、Kポパーの漸次的社会工学・・なんどもある。こうした雑食の果てになにがあるのだろうか。たんなる諸理論のいいとこどりであろうか。

通読して自然にわかるのだが、彼は特定のデザイン、形態、スタイルにはほとんど関心がない。彼は都市のマスタープランでさえさほど意義は感じていない。むしろ「マスターシステム」あるいは「都市のフローチャート(流れ計画図)」だという。

これはひょっとしたら昨今IT系でいわれている「アーキテクチャ」のようなものではないか、と思うのである。

「アーキテクチャ」にしろ「アーキテクチュア」にしろ、それによってコンテンツや建物が一意的に決定されるものではない。むしろ個人の独自性をふくめた無限の多様性を保証するためのまさにアーキテクチュアなのである。

だから黒川紀章は「都市のアーキテクチュア」を、ゼロ年代的な意味でのアーキテクチャを、1960年代において、考察していたといえる。都市型建築という意味でもなく、都市のあるべき完成像という意味でもなく、理想都市でもなく、都市という仕組みについての考察である。

だからそれは一種の原点回帰でもある。変な言い方だが、建築はもういちど「アーキテクチャ=アーキテクチュア」というものに還元して考えてみなけれがいけない、というのがこのIT用語が命じるところであろう(建築はいつも時代に忠実なのであるから)。そんな観点から再考すると、建築史もけっこうアーキテクチャ的なんだなあ。すこし勇気づけられますね。

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2009.08.02

大濠公園の花火大会

8月1日は花火大会でした。

地下鉄大濠公園駅のすぐそばに5階建ての小オフィスビルがあり、その屋上で、建築関係者を中心とするサロン的集まりを兼ねた、花火鑑賞パーティがあった。

お声がかかったので、ホイホイでかける。この花火大会は15年ぶりであった。

MAT Fukuokaという企画がこの夏からはじまる。これはシカゴ建築協会の建築ツアー、ロンドンやフランスの遺産の日、などを福岡でもやろうという企画である。とりあえず今年は磯崎物件や黒川物件などの超メジャー作品から試行する。ツアーは、現地見学と講演会を組み合わせたもの。ぼくは講師として黒川論、磯崎論をおしゃべりする。

MAT Fukuokaの宣伝は後日やります。お楽しみに。

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いろいろ知人・友人と話したり、ひとり回想したり、スピーチしたり、する。

じつは前日、大学関係者の飲み会で「九州には建築家はいない」というかなりひねった発言をして、建築非専門家からのかなりKYな返答を引き出してしまったので、仕掛けのある発言は慎重にしなければならないと思ったものであった。この場合の建築家とは、一級建築士の資格とか、建築メディアでの知名度とか、そんなことを意味するのではない。それは(地域)社会における認知メカニズムそのものをいう。

新幹線博多駅完成、福岡の経済拠点化により、磯崎さんの福岡相互銀行とか、黒川さんの福岡銀行などができる。こうした建築作品は、スタッフの現地居残り化、現地若手スタッフへの啓蒙的効果、見学を通しての建築啓発など、インパクトはかなりある。そういういみで、これらの作品は、地域における「建築」の形成に大貢献している。しかしそれでも、これからなのだ。

そして今、40歳代のきわめて優秀な建築家たちが福岡に集結しつつある。新たなピークの時代が来るかもしれない。

そういえば東大建築学科助教から九大の准教授に昇任されたばかりの鵜飼哲矢さんもパーティにきていた。これは難波和彦先生のご厚情によるものである。

花火は9時半でフィナーレ。不況のせいか数は少なくなったような気がする。それでも光と色は心を高揚させ、破裂音は悪しきものを断ち切る決断力を与えてくれるかのよう。

ところでMAT Fukuokaの準備もかねて、ひさしぶりに吉田美奈子のFLAPPERなんかを聞いている。70年代つながりということでね。でも、よいね。ソウル、ブラックもありながらソフト&メロウもちゃんとはいっている。

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2009.08.01

五島の島めぐり

7月29日と30日は、長崎、佐世保、五島の教会巡りツアーであった。長崎県、長崎市、佐世保市、新上五島町の関係者の方々、B協会のYさん、ほんとうにお世話になりました。ありがとうございます。

2日間で、出津、大野、黒島、五輪、江上、土井ノ浦、青砂ケ浦、堂崎の教会を制覇した。専門家たちがオーガナイズしたので、とても効率がよかった。

五島の景観がとても美しいので、だまされがちではあるが、教会堂の美的判断については用心してかかるべき、などということを心がけて見学には臨んだ。とはいえ美的解釈を共有するのはとても難しい。べつに威張るのではないが、いちおう西洋建築史の専門家であり、個人写真10万点に及ぶほど建築を見続けているぼくにとっては、その美的判断が言葉ではなかなか通じないということも体験した。

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歴史的連続性の問題。16世紀のイエズス会による布教、禁教、隠れ、19世紀の再布教といったプロセスの連続性、不連続性。このことを関係者たちはいつも気にしていた。ぼくは布教される側ではなく、布教主体すなわちローマ・カトリックの意志に還元して考えると、その意志は連続していると考えられると主張した。また初期の布教、隠れ、云々は世紀をまたいでの対話だと考えられる。

素人が様式を云々することの問題。まず19世紀から20世紀の建築が、純粋にロマネスクである、ゴシックである、などと判定できるわけがない。基本的にこの時代は「折衷主義」である。だから正確には、ゴシックもどき、ゴシックのつもり、といった言い方が正確だ。しかも鉄川といった建築家が、どれほどゴシック様式の理解に自覚的であったか、は再検討の必要がある。

建築も切り取りようでは「モダン」といえる。たとえば下の写真。この光景はとてもモダンとはいえ、建築全体が、建築家がモダンとないえない。言葉の意味が及ぶ範囲を、いつも慎重に識別しなければならない。

Img_1530  Img_1533

既存の写真集は、建築の魅力を引き出していないのではないか。そこまでいわなくとも、写真の取り方を工夫するといったことで、新しい視点や価値が生まれてくるはずだ。

Img_1707  Img_1716

様式の完成とはなにか?もちろん鉄川の様式理解もしだいに進化したであろうし、ロマネスク的設計の連作系統もあるので、そのなかで様式の完成というようなものもいえるであろう。しかしだからといってそれは様式の、ということはある時代ある地域の集合的美意識としての様式の完成、とはいえない。

交流とは。19世紀は世界全体が交流モードであり、多少の時間差はあっても情報はどんどん伝わる。そんな状況で文化の東西交流などということが目玉になるのであろうか。むしろ基底として、おなじ課題を共有していた、というような発想と皮膚感覚が求められるであろう。100年前の同時代感覚をもっと考えるべきというのがぼくの意見である。

いろいろ考えながら、案内していただいた県や市や協会のひとたちと話し合った。

長崎の教会堂の原型は、同時代のパリのそれである。この確信がますます強くなった。

フェリーや鉄道の移動中は、読書をする。雨宮処凛『ロスジェネはこう生きてきた』平凡社2009。ぼくの教師としてのキャリアは彼らロスジェネに教えることからはじまった。文章はリズムがいい。檜垣立哉『ドゥルーズ入門』ちくま新書2009。流動/非流動の話しは面白かった。佐々木俊尚『2011年新聞・テレビ消滅』文春新書2009。マスコミを代表する新聞記者が、マスコミの崩壊を語る。語るべきことを所有している人びとが、たとえばブログのような手段で語り始めたら、世は変わってくる。『思想地図』2号、2008。特集は「ジェネレーション」。雨宮処凛の書と重なる。団塊世代の子供たちがロスジェネである。その世代間論争はどうもピンとこない。

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