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2009.07.04

世界の虚構性について

村上春樹の1Q84についていろいろ書評が書かれてきた。目に入るものがあれば読むようにしているが、とくに驚くようなものには出会っていない。

ある意味で、この小説はとてもわかりやすい。それは戦後の学生運動、左翼運動その変換されたものとしてのエコロジー、共同体運動、新宗教、帰農、健康ブームなど、一連の背景がプロットされているからである。そういうものの虚構性が現実というものをはるかに凌駕している現代というものが枠組みとして描かれている。現実と虚構という二元論ではもはやない。虚構と自分自身、あるいは虚構において生身の人間であることの意味、その「生身性」というようなことであろう。

この小説と特別連動しているのではないが、ぼくの学生のひとりが卒論を書いている。建築写真の虚構性というようなテーマである。残念ながらぼく自身にとってはそれほど切実なテーマではない。が、この昭和最後かひょっとしたら平成最初の世代が、この世界は虚構であった、というようなことに気がついて右往左往している、そのような状況がいろいろ印象的であった。

その彼(おそらく1990年前後生まれ)がおもに参照しているのは、1970年前後生まれの建築評論家のような人びとの書き物である。1960年代生まれ以降の世代が、メディアという虚構の世界に意図的に生きようとしているようなことも、あらためて感じられるということが、再確認できる。がそれはそれとして、若者が参照しているものも、自分自身から下の世代というようなことが発生しているわけである。このことはぼく自身、現実からの距離がますます大きくなったことを意味しており、そのことは虚構性がますます増したことをも示唆しているのであるが。

さてぼく自身にとっての「虚構性」の目覚めはどんなものであったか?はっきり記憶していないがSF漫画かSF小説であったように思う。人体から切り取られた脳が、栄養を補給する溶媒のなかで生きている。その脳へは、あらゆる情報や刺激が送られているので、彼はもはや身体や世界もない脳だけの存在であることにはまったく気がつかない。脳だけの存在でありながら、友人と語り、映画を見、食事をし、ごくごく普通の生活を送っている(つもりである)。究極の虚構を生きている。そんな物語を小学5年生のころ読んだ記憶がある。

するとぼく自身の現実というものも、このように脳に送り届けられた信号にすぎないのであって、周囲にあるものは実在しないのではないか、という不安にかられた記憶がある。

この不安は、どうも東西冷戦における核のバランスというものに連動していたように、自己分析できる。なにかのはずみで世界が滅亡する可能性があるという不安である。

なにかのはずみで。脳への栄養と信号の補給がスイッチオフにより止まる。核ミサイルのスイッチがオンになる。そんな「はずみ」で。

いずれの不安も、ぼく的に面白いことに、自転車に乗っているときに発生しているというディテールがあるので、よく覚えている。もちろん子供がだれでもいだく不安として、自分自身が存在していることの根源的不安もあるのだが、そういうのは就寝時ときまっていた。自転車という、安定/不安定の弁証法的関係においてあらわれる特有の不安というものもあったようだ。

それはそれとして世界という虚構のなかで自分をとらえることは、やはり難しいことのようであって、村上春樹が読まれるのも、そんな理由からなのであろう。

虚構の世界はどのうように成り立つのか?よく指摘されるように、主人公「僕」は、奥さんに逃げられたり、部屋をだれかに荒らされたり、編集者からへんな仕事を持ち込まれたり、ようするにトラブルが到来することで、立ち上がる。徹底して受動的な「僕」である。

1Q84は小説家志望の男性が主人公ということで、村上の自伝的(自己記述的)側面もあるのではないかと思った。小説を書く、小説を書く自分をネタに小説を書く、それをネタにまた書く、といった自己内包型のメタ構造が、自己運動のように続く。

そんなことを考えると「なぜぼくは存在するのか?」という不安は「自分が生きている世界はじつはぼくの脳に送り届けられる電気信号の総体にすぎないのではいか?」という不安と表裏一体なのであろう。

というわけで今は宮下志朗訳のラブレー『ガルガンチュア』を読んでいる。この荒唐無稽な人物にかんする伝記も、ディテールをよめば16世紀におけるフランス(という虚構?)の立ち上げのようにも読める。ただそこに必要であるのは、精密な理論化ではないような気がする。「物語り」という虚構の形式なのであろう。

そこで虚構性ということに戻ると、理論化、批評によっては「虚構であることへの気づき」しかできない。しかしそこにはかみ合うこと、がないのではないか。かみ合うには「物語り」という形式そのものへの言及が必要であろう。それは別の「物語り」を求めるのであろう。分析するのではなく、分析の対象となる「与件」そのものを、分析が追いついていけないほどに、つぎつぎに生産してゆくこと。そのようなことなのであろう。

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