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2009.07.25

磯崎新と村上春樹と大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿---構造しかない日本』

23日、キャンパス内で講演をおこなった。図書館長の企画で、本を出している教員にそれについて講演をしてもらおうというので、最初はぼくというご指名であった。

ということで磯崎さんについて、ほんとうに久しぶりに話すことになった。『対論 建築と時間』についてであった。

磯崎作品のスライドをすこし鑑賞し、思い出話もすこしして、時間論的な磯崎論をご紹介した。まず分裂症という自画像。木村敏を参照して分裂症=時間意識の病、という説明。時間論ということで、真木悠介による時間の4類型、とくに近代の「終わらない時間」「リニア時間」。近代的な時間を批判的にとらえた磯崎さんによる「孵化過程」「切断論」「廃墟論」についてのプロジェクトなどなど。さらに最後に、例の「父を刺し、母を犯せ」(彼によるマイホーム批判)はもちろんオイディプス・コンプレクスなのだが、これもまた時間論に関連している、というような見取り図を説明した。

このままだと10年前なので、最近読んだ大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿---構造しかない日本』とからめてみた。

これも大塚英志によるサブカル論が下敷きになっている。今回面白かったのは、1920年代すでにロシア・アヴァンギャルドの映画手法と、ハリウッドのアニメが、日本におけるアニメ・漫画の成立をうながし、その流れが手塚治虫にもあり、80年代以降に世界を席巻した日本アニメ、ひいてはそれに代表されるサブカル文化もその延長である、という指摘である。

さらに大塚は、柄谷行人のサブカル批判(「アニメには構造しかない」)を引用しながら、20世紀における文化人類学、ロシア構成主義などの、構造/代入項目の図式が、前衛にもサブカルにも見られることを指摘している。さらに物語りの構造、あるいは構造をもっている物語とは、たとえば神話(この世と黄泉の国を行き来する)とか、探偵小説、人格形成小説(依頼やミッションを引き受けなしとげることで成長する)とか、いったことである。

そこでぼくがふと考えたのは、建築家もまさに「依頼と成就」という構造によってなりたっている。建築家という存在そのものが「物語の構造」なのではないか?

大塚理論に戻ると、村上春樹もまさにある構造を下敷きに、いろいろな変数を代入することで、さまざまな物語を生産しているという。そういうことでいえば村上もまたロシア・フォルマリズム的20世紀の嫡子であり、80年代日本サブカルとも連動し、そういう点では95年に事件をおこした新宗教教団とも底通しているのであった。

村上春樹の小説は、個人的には、作中人物よりも物語り構造そのものに魅力を感じていた。だから大塚さんの指摘は、図星でありつつ、読者としてまだまだ未熟だということの指摘にもなっている。

ただ意外な展開でぼくが気づいたのは、村上春樹と磯崎新の、まさに構造的な相似性である。

まず「オイディプス・コンプレクス」。村上春樹は、「僕」の成長物語りとして書くのであるが、しかし「僕」はいろいろな災難の受け身になっているだけで、たくましく行動しているのはじつは脇役か「僕」の分身である。だから大塚は、成長物語りなのではなく、「成熟の不可能性」、「大人になれないこと」の物語りなのだという。そういえば磯崎さんも、ぼくが指摘した「父なる建築、母なる日本」はそのとおりだが、克服はできない、指摘するのみ、というようなことを書いていた。

たとえば「主体の解体」というコンセプトは成熟の拒否なのであろう。すると「主題の不在」「主体の解体」などはオイディプス・コンプレクスの克服というより、むしろ大人になること=主体になること=19世紀的理想、の否定なのである。

さらに分裂症的ということ。村上春樹も、大塚によれば、みずからに「文学」が憑依してくる感覚があるという。たとえば最近作『1Q84』も一種の「文学」そのものをテーマにする作品であるという。そういえば天吾は編集者に未熟な原稿のブラッシュアップを依頼されて、新宗教事件に巻き込まれてゆく。天吾は文学というある超越的なものを関知し、憑依させるメディアという意識をもっている。ぼくが思うには、だとすれば、天吾とはまさに村上春樹の代理であり分身であり、この小説は、村上自身が小説を書くことの自画像的な構造解析となっている。それが小説となっている。天吾が小説を書く、ことについての小説。だから自己を内包した、二重構造の、別な形式の私小説なのである。

こういう文学が憑依してくる村上春樹がいるとしたら、建築が憑依するのはまさに磯崎新なのである。磯崎さんはまさに自分のなかにさまざまな他者が占拠してくると書いているし、80年代に分裂症と大文字の《建築》を平行して語っていたのは、まさにそういうことなのである。

そうすると少なくとも20世紀の建築家物語りは、依頼(ミッション)と成就(の失敗?)という構造ですべて描けるのであろう。世の建築評論家を自称するみなさん、その方向で書いてみてはいかがでしょうか?

PS.

それはそうとして、昨日の大雨で、研究室(といっても期間限定であずかっている部屋)が床上浸水してたいへんでした。村上春樹風の、ふってわいた災難ですね。

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