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2009.07.15

《ミッション》

DVDを借りてきて《ミッション》を観た。

これは1986年のイギリス映画である。ロバート・デニーロが演じるイエズス会士宣教師を描いたものであった。学生時代に予告編だけみて本編はみそびれてしまっていたので、なにがなんでも観たかったもののひとつであった。

舞台は1750年南米パラグアイ。くだんの宣教師は先住民グアラニー族の心をつかみ彼らをキリスト教コミュニティに再編することに成功するが、スペインとポルトガルの領土分割が確定したことで、先住民たちは移住を命じられる。しかし彼らはそれを拒否し、宣教師らとともに殉教してしまうという物語りである。

映画はいきなり、十字架に縛られた先代宣教師が滝を落ちてゆく光景から始まる。この高い滝と断崖絶壁は、スペイン人入植者のテリトリーと、先住民たちの生活圏のバリアとなっている。その距離感のなかでグアラニー族は教会や住居を建設し、一種の宗教ユートピアを建設してゆく。

見ようによってはユートピアの不可能性を描いているようでもある。

結局、少数の子供たちだけが生き残り、先住民はずっと存続することになる。映画の最後のメッセージは、先住民たちはいまなお民族的・文化的アイデンティティを守っていること、イエズス会士たちはキリスト教を広めつつ彼らの独自性を守ってきた、ということの指摘であった。

宗教と世俗国家の対立といった構図がセリフのなかで親切に解説されていた。しかし補助線を引かせていただくとすれば、ぼくは1750年という年代設定が本質の大部分であると思う。つまり18世紀後半は、ポルトガル、スペイン、フランス・・・などでイエズス会は追放されてしまう。そしてローマ法王もヨーロッパ諸国の意向を拒否できず、結局、イエズス会を解散させてしまう。19世紀になって再結成されるが、海外布教というミッションは著しく制限されてしまう。たとえばアジアでの布教をまかされたのは、19世紀以降は、パリ外国宣教会である。

ことの本質はイエズス会の体質そのものにありそうだ。一般にイエズス会士たちはたいへんインテリであり、また各地でいろいろな経営をして、強固な経済的基盤を構築していた。十字軍を契機にして設立された修道会もそうなのだが、巨大な冨を集めた宗教団体は、そのうち世俗勢力と競合し、つぶされることになる。イエズス会も基本的にはそうなのであろう。ほっておくと会そのものが巨大な多国籍企業となって、国家単位の経済・交易活動にとって強力なライバルとなるであろう。

《ミッション》は、強くなりすぎたイエズス会が追放、解散へといたる道筋を象徴している映画である。ひとりの宣教師の殉教にとどまらず、組織の運命をあらわしている。

ユートピアの不可能性。つまり宗教のみによって理想郷をつくるのは難しい。なぜなら宗教以前に、国家や市民社会といった枠組みがなければ、宗教そのものも許されない状況となっている。18世紀はそういう時代である。だから滝と断崖絶壁という舞台装置がないとリアリティが生まれない。その高低差は理想/現実、信仰/社会のギャップでもあったようだ。

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