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2009.05.28

建築家の世襲制についての話が脱線して・・・・

建築家の家系が続くのも珍しい話ではない。

フランスではブルボン家のもとの建築家マンサール一族のように、王政時代は建築家の家系はけっこう存続するものであった。王権そのものが世襲制なのだから、その庇護のもとで活躍する建築家もまた世襲なのであるのは、当然のことであった。

もちろん複数のアーキテクト家系が、婚姻によって縁組みしたり、斜めの継承もあって、けっこう複雑なのだが。

しかしそれで様式が保守的になるかというとそうでもない。ルネサンス、古典主義、バロック、ロココ、新古典主義と、しっかりと変遷する。

19世紀の近代社会になると、アカデミーでの学校教育が発展して、かならずしも世襲制が支配的ではなくなった。しかしそれでも地方では、地域の建築家=名士というような存在の例は多かったようだ。

・・・なんてことを鹿児島県の某温泉宿で、東京から飛行機でいらっしゃった建築関係者たちと放談する。風呂にはいるまえの小一時間ほどのおしゃべりである。

20世紀の近代建築運動はもちろん「運動」であったことが重要である。それは近代であったことよりも運動であったことが、重要であった、というような意味である。つまり建築を受け入れる社会がより公共性、公正さ、普遍的価値、を要求するようになり、運動によって自由に表明された理念を、社会がこれまた自由に判断する、というようなことがなされた。そこで支持を受けることがその理念の正統性の証しとなるのであった。

あたりまえだが社会が安定すると世襲制の比重は大きくなり、改革の時代はそれが小さくなる。日本の近代建築だって二世建築家がけっこう多く、それは日本の建築文化の安定をものがたっているのである。日本の近代建築は、民間企業、大学、自由建築家など、世襲体制をあらたに確立し、いまはそれが安定した時期(あるいはそんなものがあった)かもしれない。

最近、政治の世界で世襲制を制限しようという動きがあるが、これは政治家自身が時代の変革を嗅ぎとり、みずから時代の変化に対応しようというものかもしれないし、あるいは世襲にたいする国民的反対が展開されるまえに、そこそこの限度をつけることで、許される範囲の世襲をはっきりさせようということかもしれない。

新自由主義経済の崩壊で懸念されるのは、格差が大きくなりすぎて、ある世代が事実上崩壊してしまったり(将来の消費者の購買能力がきわめて脆弱になって経済が崩壊する)、国民の一体感がなくなって国家が崩壊する、といったことであることを、社会学者や評論家たちが指摘している。

社会学者が指摘しているように、個人を支える社会、つまり個々の人縁や地縁や社縁のようなものが崩壊しつつあるので、それを再構築しなければならない、というようなことであれば、これから求められる建築とは、住宅地のなかの小さな施設のようなものあっても、趣味やパフォーマンスをとおしてささやなか自己実現があり、それが新しい人縁を生み出し、ネットの情報では伝えられない生きるための知恵のようなものを伝えてゆく関係性を築けるなにか、なのかもしれない。

・・・とはいえぼくの教え子のなかにも二世建築家はけっこういる。かれらはどん欲でタフであり、じゅうぶん期待できる。

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