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2009年5月の5件の記事

2009.05.31

『1Q84』

村上春樹の新作を読んだ。

専門家はきっとまっとうな解説をするのだろうから、自己流の感想文だけを書いてみる。

背景として描かれているのはコミュニティ。まず過激な左翼運動、それを起源とする農業コミュニティ、それが転化した新宗教の団体や、ふたたび過激派となって結局は事件を起こしてしまう集団の流れ。ここで描かれているのははっきりしている。制度や国家からは自立した共同体というある世代の理想である。

ディテールとしては一種の帰農集団というのが日本には伝統的なのだと思った。それはひょっとしたら、江戸時代の下級武士が(たとえば薩摩の西郷隆盛のように)武士でありしかし農業もやってというライフスタイルの古層なのかもしれない。しかし、若者の異議申し立てを共有しているフォークの神様Oや、コミカル派のフォークの人であったSが、しっかり帰農しているのはたんなる偶然ではないのは明らかに思える。これは現在の有機農業の出自にみられる傾向からも連想される。

「リトル・ピープル」は、共同体は自立しうるものではなく、外部からあるいは背後からの特定できない侵入者たちによって操られるということの喩えのように思われる。

天吾と青豆の自我は、しっかりした中心はない。それは欠落を中心として成立する自我であり、また欠落をコアとするメカニズムそのものが、自我の根拠であるという感じである。

ふたりにとって共通しているのは「家族」も「共同体」も崩壊しているという事実である。

青豆。彼女の両親は新宗教にはまっていた。それを受け入れられず家出する。家族と共同体とから同時に逃走した。

天吾。母親は赤ん坊であったときにいなくなっていた。父親は血が繋がっていない。10歳のころ、NHK受信料徴収人であった父の仕事を手伝わないと宣言し、家族を拒否する。学校には所属するが、収入を得るようになっても、組織のしっかりしたメンバーであろうとはしない。

「家族」からも「コミュニティ」からも疎外された人間はどのように生きてゆくのか?「家族」とも「コミュニティ」もなくなった人間にとって、世界は揺らぐ。月が二重になるのは、そういうことの表現であろう。天吾/青豆というのも一種の二重化かもしれない。彼らはともに新宗教と戦うのである。

彼らは欠落によって生きてゆく。ふたりは互いに愛し合いながら20年間会うこともできず、生きてゆく。こういう設定は、構造的なものであって、もちろんリアルなものではない。つまり欠落を抱えながら、ふたりが互いに欠落であるような構造において、ふたつの人生が支え合っている。対話もなく、接触もなく。

天吾は、大切な人には会えない、意志を伝えられない。母親はいない。父親とは対話がない。認知症になった父親に語りかけるが、こんどは父が彼のことばを理解できない。

彼は「不可能性」を生きる。みつけようと思った青豆はもういないはずである。ある意味、黙示録的でもある。彼とふかゆりの関係は、新たな新宗教の創設さえ暗示させる。

いちど二重化したものは、にどと一重化できない。

小説家志望の天吾は、少女ふかえりの原作をもとに、『空気さなぎ』を書く。それは虚構が現実を浸食してゆくような感じで描かれる。この架空の小説は、小説内小説である。劇中劇のように。それが村上春樹の自伝的というか、作家であることの検討なども含んでいるのかもしれない。しかし、この物語には結末がない。それは結末などありえないという構造があるのだ、ということを意味したいかのようである。BOOK3、4と続くのだろうか?

そしてかつての左翼運動からも、近過去の新自由経済からも、自由で無縁であろうとする個。その個が、さらに擬似的なコミュニティ、新宗教からも無縁であろうとすれば、それはいかにして可能なのだろうか。それは内なる神話を構築すれば可能であろう。そして、いかにしてそんな神話を書くことができるのであろうか?

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2009.05.28

建築家の世襲制についての話が脱線して・・・・

建築家の家系が続くのも珍しい話ではない。

フランスではブルボン家のもとの建築家マンサール一族のように、王政時代は建築家の家系はけっこう存続するものであった。王権そのものが世襲制なのだから、その庇護のもとで活躍する建築家もまた世襲なのであるのは、当然のことであった。

もちろん複数のアーキテクト家系が、婚姻によって縁組みしたり、斜めの継承もあって、けっこう複雑なのだが。

しかしそれで様式が保守的になるかというとそうでもない。ルネサンス、古典主義、バロック、ロココ、新古典主義と、しっかりと変遷する。

19世紀の近代社会になると、アカデミーでの学校教育が発展して、かならずしも世襲制が支配的ではなくなった。しかしそれでも地方では、地域の建築家=名士というような存在の例は多かったようだ。

・・・なんてことを鹿児島県の某温泉宿で、東京から飛行機でいらっしゃった建築関係者たちと放談する。風呂にはいるまえの小一時間ほどのおしゃべりである。

20世紀の近代建築運動はもちろん「運動」であったことが重要である。それは近代であったことよりも運動であったことが、重要であった、というような意味である。つまり建築を受け入れる社会がより公共性、公正さ、普遍的価値、を要求するようになり、運動によって自由に表明された理念を、社会がこれまた自由に判断する、というようなことがなされた。そこで支持を受けることがその理念の正統性の証しとなるのであった。

あたりまえだが社会が安定すると世襲制の比重は大きくなり、改革の時代はそれが小さくなる。日本の近代建築だって二世建築家がけっこう多く、それは日本の建築文化の安定をものがたっているのである。日本の近代建築は、民間企業、大学、自由建築家など、世襲体制をあらたに確立し、いまはそれが安定した時期(あるいはそんなものがあった)かもしれない。

最近、政治の世界で世襲制を制限しようという動きがあるが、これは政治家自身が時代の変革を嗅ぎとり、みずから時代の変化に対応しようというものかもしれないし、あるいは世襲にたいする国民的反対が展開されるまえに、そこそこの限度をつけることで、許される範囲の世襲をはっきりさせようということかもしれない。

新自由主義経済の崩壊で懸念されるのは、格差が大きくなりすぎて、ある世代が事実上崩壊してしまったり(将来の消費者の購買能力がきわめて脆弱になって経済が崩壊する)、国民の一体感がなくなって国家が崩壊する、といったことであることを、社会学者や評論家たちが指摘している。

社会学者が指摘しているように、個人を支える社会、つまり個々の人縁や地縁や社縁のようなものが崩壊しつつあるので、それを再構築しなければならない、というようなことであれば、これから求められる建築とは、住宅地のなかの小さな施設のようなものあっても、趣味やパフォーマンスをとおしてささやなか自己実現があり、それが新しい人縁を生み出し、ネットの情報では伝えられない生きるための知恵のようなものを伝えてゆく関係性を築けるなにか、なのかもしれない。

・・・とはいえぼくの教え子のなかにも二世建築家はけっこういる。かれらはどん欲でタフであり、じゅうぶん期待できる。

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2009.05.17

シルク・ドュ・ソレイユを見たのでサーカスについて社会勉強

大型連休のあいだにディズニーランドにいきました。竹中工務店が設計したシルク・ドュ・ソレイユ・サーカス場に見学させていただきました。建物だけかとおもったら演し物《ZED》も見せていただきました。いや感激。というわけでWEBであちこちのぞいで社会勉強をする。

フランスはブルターニュ地域圏にサン=マロという港町がある。昔からの航海都市である。そこにジャック=カルチエ(1491年頃誕生)という航海士がいて、要するにコロンブスみたいな人であった。彼は1534年に最初の航海で、カナダのセントローレンヌ湾(フランス人にとってはサン=ロランSaint-Laurent湾)を発見し、1541-42年の航海ではセントローレンヌ川沿いにいよいよ本格的に植民地建設に着手した。これがケベック州の発祥である。当時の国王はフランソワ1世で、カール5世との勢力争いのため植民地経営に力をいれたのであった。

なぜ昔の話をするかというと、シルク・ドュ・ソレイユなるサーカス団は1984年ケベックで創設されたが、それはジャック=カルチエがカナダ(ケベック)に到着した450周年を記念するためであったからだ。財政援助をしたのはケベック州である。

そののちカナダのいろんな地方、アメリカ(1987年)、イギリスやフランス(1990年)、日本(1994年)に巡業を展開する。巡業(ツアーショー)と常設(レジデントショー)の二本立て。ちなみに《ZED》は常設場である東京ディズニーランドのためのオリジナルコンテンツである。

音楽担当はルネ・デュペレ、ブノワ・ジュトラ、ヴィオレーヌ・コラディらで、オリジナリティーの高いもの。世界各地の音楽を取り入れつつアレンジしたもの。

サーカスといっても動物は登場しない。起承転結のはっきりしたストーリーはないが、道化もふくめ、狂言回し的なパーソナリティもいて、ストーリー性のようなものはある。全体がひとつの夢か幻想のようにある種の構造をもっている。その枠組みのなかで、ジャグリング、力技、空中ブランコ、バトントワラーなどの高度なパフォーマンスが展開される。オリンピックの体操から勝負を取り除いたらこうなるのであろうか、といいような感じである。

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・・・ところでぼくはサーカスなどまったく興味はなかったし、ステレオタイプなイメージしかなかった。別に子供のころ、悪さするとサーカスに売られるよ大人に脅かされたこともなかったし、サーカスの子はいっぱいお酢を飲んで柔らかい体にするのだという説も信じることもなかったのだが。しかしパリで19世紀の建築家イトルフの作品をみていて、そのなかに《パリ冬のサーカス場》(1852年:写真上)があることはずっと知っていた。

サーカス場だから円形平面である。様式はグリーク・リバイバル。ギリシア神殿のフリーズが行進する人びとを描いたレリーフで埋め尽くされていたように、軒下や壁の帯には、赤地に白で、さまざまな演技者たちのレリーフが彫られている。

イトルフは北駅やいくつかの教会堂を建設しており、それほど有名ではないかもしれないが、19世紀のパリをつくった人である。19世紀はスペクタクル建築の世紀であった。オペラ、各種劇場、展覧会、百貨店、温室・・・などと列挙してみると、常設のサーカス場があるのは自然なことと思える。巡業のため放浪する特殊職業人といったのはほんとうにステレオタイプのようだ。

動物の調教のみならず、フィジカルなパフォーマンス、筋肉技、道化、音楽、舞台装置、などと必要アイテムを列挙してゆくと、これもオペラ、バレー、演劇のような総合芸術なのである。フランス語のサイトでは担当ミュージシャンのことをやけに詳しく解説しているのもうなづける。

《パリ冬のサーカス場》も160年間、興行主は交代することはあっても、ずっと興行をおこなっているらしい。「道化」もとうぜんひとつのジャンルであって、スター道化を集めたのがここであったようだ。

ところで戦後の演し物のひとつに《Cirque du Soleil》なるタイトルがあったそうだ。パリとケベックの関連があるのかどうか、興味ぶかいところです。

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2009.05.07

《上野伊三郎+リチ展》を見て

連休であったので、標記の展覧会をみにいった。伊三郎の妻リチは、ウィーン工芸学校を出てウィーン工房で働いたデザイナーであった。展覧会では、伊三郎についての初公開資料とともに、リチの作品も多数展示されていた。

伊三郎の未発表資料についてだが、ぼくはそもそも建築家・上野そのものをはじめて見たといっていい。ブルーノ・タウトを日本で案内したことと、せいぜい群馬の工芸学校との関わりくらいを、歴史的に重要であった事件として知るのみであった。

で、建築家上野伊三郎はどうかというと、あまり論評はしたくない。島津邸はアドルフ・ロースによる住宅のあるものを思わせ、ウィーン仕込みかなどと思わせる。作風として解釈するといろいろだろう。しかしぼくは経歴に惹かれる。京都の宮大工の家系で、父親も工務店を経営していたという事情は、さもありなんと思わせた。伝統の力とはこういうものだろう、と思う。ヨーロッパでも20世紀初頭まで、建築家の家系というものが存在した。そうしたものが建築を伝えるメディアであった。20世紀は学校の時代であった。

この展覧会そのものが「ウィーン=京都」という枠組みである。伊三郎とリチは、ウィーンで知り合い結婚し、京都に戻って活躍する。そんな文化交流ができたのも、やはり京都だからだろうと思うと、うらやましい気にもなる。地方都市がどうにも及ばないのはこういう部分である。

リチの作品も、はじめて見るようなものであった。ウィーンでヨーゼフ・ホフマンに習ったというので、どんなもんであろうかと思った。もちろん前衛ではないが、基礎がしっかりしているという感じ。色のバランスがすばらしい。徹底的に奥行きをなくし、表層にすべてを還元しているところが、ウィーン世紀末からの流れといえそうか。

カタログには機関誌「インターナショナル建築」のさわりが紹介されていた。1927年に結成されたインターナショナル建築会の機関誌である。

そのなかで本野精吾の宣言と綱領などが採録されている。30年ぶりくらいに再読する。

書かれていることは簡単で、インターナショナル(重要な言説のなかでは1923年グロピウスが初出)という路線と『真正なる「ローカルティ」』という方向性である。いずれも受け売りの感はもちろんあるが、こうした言説の歴史的位置づけというものも冷静におこなっていてもいい。

「インターナショナル」ということばは、今とは違う意味をもっている。それはMoMAでフィリップ・ジョンソンが展覧会を開催し、そこでインターナショナル・スタイルというキャッチコピーを提案するより前である。だから本野らの言葉は、正確な定義を欠いているが、反面、それだけまだ見ぬものへの希求に満ちている。ジョンソンが博識にして狡猾であったとしたら、本野らは相対的に純朴であった。

「ローカルティ」や「真正なる民族的地方色」の位置づけは、19世紀的折衷主義への批判とするか、20世紀初頭の地域主義への批判とするか、微妙なところであろう。しかし現段階では、むしろぼくは、19世紀的なものへの批判が支配的であった20世紀初頭ウィーンの空気などがそのまま反映されているととらえたい。

本野は「人類の進展に伴ない必然的に生るじるべき様式」という。ちなみに堀口捨巳は「様式なき様式」という。「様式」について、近代建築運動のイデオロギーはまだよく整理されていない。つまり19世紀的な様式概念は、とても深いものであって、その基盤のうえに近代建築運動は展開した。表面的には、モダンは19世紀にたいして攻撃的であったとはいえ、基本的には親子喧嘩なのであった。

たとえば民族性、地方性(気候、素材、文化などの特性)などの総合的なバックグラウンドからある様式が生まれてくる、というのが19世紀的建築観である。20世紀は20世紀の近代の技術や生活を反映したものでなければならないという近代主義の主張は、19世紀のそれと、まったく同じ構造をもっている。

それはともかく上野たちは、自分たちがモダンを理解していることをまったく疑わなかった世代である。インターナショナルとは、むしろ自分たちはインターナショナルな人間になったという自負の表明である。同時にヨーロッパの建築家たちも日本建築を知っており、それを評価していたといいう事実から自信をもっていた。だから「ローカリテイ」を主張できたのではないか。帝冠様式的な日本趣味とは異なる日本的なものが共有されていたのであった。

ところで伊三郎の軌跡を解釈するためには、モダンがなにかというマクロな視点もいいが、よりミクロな観点もとうぜん必要だろう。京都であった。国家的な建築とは関係が薄かった。社会が急速に右傾化した。世界恐慌によって建築の枠組みがまったく変わってしまった。現在でもバブルになったり、はじけたり、グローバルになったり、数年で空気はまったく変わってしまう。上野伊三郎が生きた時代はそれ以上であったはずだ。

「ローカリテイ」に戻ると、この展覧会によって伊三郎+リチを回顧することそのものが、ローリティなのである。この展覧会が開催されたのも、京都の大学が所蔵していた関連資料を提供したことにはじまるし、図録をまとめられた専門家も、基本的に関西の建築史家たちである。それは京都力といえるものである。

それ以外の地方はというと、町を埋め尽くしているのは近現代建築なのに、いざ歴史叙述をしようと思うと近代がない(語ってもしょうがない)なんてことになる。

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2009.05.02

若桑みどり『聖母像の到来』(青土社)を読んで

うかつにも、最近やっときづいたのだが、若桑みどり先生の遺作(標記)が、半年ほどまえに出版されていた。

ぼくがときどき考えている長崎の教会と、同じような構図で考えることができる。つまり地方の文化財にすぎないと思われていた絵画や建築に、真の意味で国際的なあるいはグローバルな視点をもたらすことで、その深い意味を再構築できる可能性がある、というようなことである。なので、とても面白かった。

これはちょっとまえに流行った世界システム論とも重なっている。まあそれはそれとして。

論じられているのは、宗教改革がおこり、さらに対抗宗教改革がなされた16世紀という時代。ペヴスナーもまた美術を論じることをつうじて16世紀をヨーロッパ精神の危機ととらえるのだが、その視点がふたたび取り上げられている。

この書で具体的かつ綿密に述べられていることを、ぼく流に乱暴に要約してみる。つまり宗教改革は、カトリックにとっては、ヨーロッパ内部布教という点ではおおいな勢力喪失であった。カトリックはその代償を海外布教に求め、スペインの力も活用して、新大陸やアジアに布教する。そのときに「聖母マリア」崇拝を土着の人びとの教化のために活用するという、文化政策をとった。

キリスト教という普遍宗教は、ヨーロッパ内部の布教においても土着宗教と習合することで教化を進めたが、おなじ手法が、アジアでもなされたわけだ。そして日本ではそれは「マリア観音」としてあらわれた。

若桑の壮大な世界観によれば、マリア観音は中国の「子授け女神」や日本の「小安大明神」というアジア的な母性への土着信仰が、キリスト教の聖母子像と一体化したものである。

さらに彼女の指摘で興味深いのは、16世紀に日本にもちこまれた聖母像の芸術的レベルである。従来説ではヨーロッパの二級品にすぎないとされてきた。しかし実際は、海外布教のために念入りに制作された一級品であったという(p.128)。そのヨーロッパの一級品が、やはり高度に成熟していた安土桃山文化と一体化して、すばらしいマリア観音像を生み出した、というのである。

そういわれれば、今まではたったく逆の説明ばかり聞かされていた。マリア観音とは禁教のなかで信仰を守るための隠れ蓑であった、とか。その美術史的な位置づけや、さらにはアートとしての価値の客観的な評価などほとんど聞いたことがない。

そうではない。、マリア観音は、時代の狭間に生まれたエピソード的なものではなく、ヨーロッパのマニエリスム、日本の安土桃山文化の正統な嫡子であり、きわめて芸術的価値の高いものである、という説明である。

・・・・こうした16世紀の状況は、ぼくが考えている19世紀末から20世紀初頭の状況ととてもよく似ている。

フランス革命となり、教会権力は世俗権力の前におおきく後退する。教会は、ヨーロッパ内部での失地を、海外布教によって埋めようとする。16世紀にそうしたように。

カトリックはイエズス会ではなく、こんどは「パリ外国宣教会」に布教をゆだねる。19世紀のはなしはすでに書いたのでバックナンバーを読んでいただきたい。ようするに、パリ経由で長崎にやってきた宣教師は、当時のパリの教会建築の様式も参考にして、日本に教会堂を建設したっておかしくはない。

人づてに聞いた話であるが、この3月に海外の文化財専門家が呼ばれて、長崎県で教会についての国際シンポジウムが開催されたらしい。長崎県の教会堂については、地元学者らの研究成果もある。しかし現物を見た専門家たちは、ヨーロッパの同時代のものと似ている、とのみ指摘しただけで、ほとんど興味を示さなかったらしい。というわけで世界遺産登録のハードルはすこし高くなった。

ぼくなりに問題点を整理して、考え方の道筋を提言したい。

(1)外国人の視点や価値観から長崎県の教会堂がどう見えるかというイマジネーションがなかった。これは日本の文化財研究が、やはり一国建築史的な視点において閉ざされており、まだまだ国際化していないからである。

→とはいえ日本人研究者もグローバルな展開をしている。そういう新しい発想を取り入れることをためらってはならない。最近ではアジアの建築も、植民地時代を経験している。だからアジア建築専門家もイギリスやフランスのアーカイブまで遡及して調べている。長崎の教会堂を調査するために、フランスのアーカイブを調査することは、現在ではミニマムだと思われる。

(2)しかし外国の専門家が、既知感があるから面白くない、日本の土着建築と混交したのなら面白いが、というように考えるのも、一方的な態度だと思う。

→既知感があるのなら、なぜその既知感がもたらされるかを分析するのが、研究のシーズである。マリア観音も、ぼくが興味をもっている長崎の教会堂も、アーティストらがなんとなく模倣したのではない。その模倣、参照、引用のなかに、当事者たちの深い理念が反映されている。「普遍的」価値とは、そのことを踏まえて初めて明らかになるのであって、たんなる名作主義のことではないはずである。

(3)長崎の教会堂は、しょせん擬洋風であり、世界遺産などという西洋的基準で計ることそのものに無理がある。九州遺産でいいではないか。長崎遺産でいいではないか。・・・こういう意見もある。しかしこれもおかしい。

→擬洋風というのがそもそも自虐歴史観であってよくない。幕末明治の職人たちが見よう見まねでつくった擬洋風建築、といった30年前の語り口である。ぼくは、「単なる擬洋風」だと思われていた長崎の教会堂を、西洋の専門家がはじめて文化的な視点から真摯にかつ批判的に観察する。そのことの歴史的な意義をもっと大切にすることであろう。最初の見学でよい評価が得られなかったことで意気消沈し、180度方向転換するのもどうかと思う。西洋からの見方も一方的なものなのだから、反論し、対話し、主張することだと思う。そういう文化交流さえできなければ、普遍的価値など云々できない道理であろう。

・・・などということを考える次第である。ぼくの愚見はともかく、若桑みどりによる「マリア観音」再評価は、よりダイレクトに長崎の教会堂云々への力強い追い風であるはずだ。

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