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2009.03.24

福岡の学生デザインレビュー

先日、福岡で開催された「学生デザインレビュー2009」(通算第14回目)というものに司会+ジュリイとして参加した。

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(写真は実行委員会からいただいたものです)

これはいくつかの大学を横断して開催される学生課題講評会である。卒業設計だけでなく、学部2年生、3年生、そして修士課程の設計課題をも持ち込んでの講評会である。14年まえ、地元の大学を出て組織設計事務所に属していたり自営で設計をしている中堅建築家有志が大学教員や地元企業に働きかけて成立したものである。地方には論壇も、建築ジャーナリズムもなく、建築家たちが建築を議論する場がない。そのことにフラストレーションを感じていた彼らが、学生の作品を自由に論じあうことで議論の起爆剤にしようという、一石二鳥的なことを考えていた。フラストレーションを感じていたのは大学の教員も同じであり、それぞれの大学で設計教育にたいする周囲の無理解を痛感していたので、これを機会にカリキュラムや教育コンテンツの検討も考えた。だから最初の2回ほどは、各大学の設計カリキュラムとコンテンツを見せ合って、いろいろ議論したものであった。学会の外でこんなことがフランクになされるのは珍しいと思う。

ちなみに2001年の企画で、東北大学の教授が招待された。彼が仙台に帰り、福岡のものをアレンジして「卒計日本一」というものにした。今日ではこちらがメジャーであり、全国的な卒計展の牽引車なのであって、福岡のほうはそれに引っ張ってもらっている感がある。イベント性では仙台がすぐれている。しかしカリキュラムそのものの相互検討などまで踏み込んだ真摯さでは福岡がまさっていたと思う。

しかし福岡が老舗ですよということだけではなく、フリー建築家有志が発起人ということで、まさに草の根的なのだし、彼らの理念を大学人や企業人や建築関連諸団体が受け継ぎ育てていった、という経緯は特筆に値すると思う。

1995年度(1996年3月)を初回として、今回が第14回である。世紀をまたがっての企画である。あと数年すると1995年生まれの学生たちが参加するだろう。そのとき、開会の挨拶では、君たちが生まれたころに誕生したこのデザインレビューはね、なんてことをいうのだろうか。

最初の数年は、大人の建築家や教員たちがたきつけて学生を鼓舞して参加させていた。しかし仙台や首都圏の卒計展が展開するにつれて、大学や地域をこえた学生のネットワークができ、友情とライバル意識も高まり、それが福岡の学生モチベーションを高めているように感じられる。今回、学生は指示待ちではなかったし、企画をドライブしているのはまさに学生たちの意欲であるということを肌で感じた。20回目まではいってほしいものである。

1996年3月の初回のデザインレビューでは、審査員として伊東さん、岡部さん、葉さん、隈さんらがきていた。ぼくも地元代表で参加した。14年後、その伊東さんとふたたび同席することになって、感慨深かった。

さらに今回は、ぼくの教え子で自営建築家になっている人もジュリイのメンバーとなっていた。こんなにはやく時が流れるなんて、なんということか。

審査は未知との遭遇であり、ほかの審査員の発言にもとても影響される。学生のプロジェクトについては、ぼくはその問題点を指摘するような批評はできるだけ控える。もちろんそういうこともひととおりするのだが、それはチェックリストを埋めるようなものだ。ぼくはむしろ、学生プロジェクトの可能性をどこまで探せるか、設計者当人が考えが及ばなかったしかし潜在的にあるはずの意味や価値をどれだけ追加できるか、ということに自分の専門家としての存在意義をかけているようなところがある。誰も信じないかもしれないけれど、ほめるのが目的である。

今回もそういうことを心がけたのはいうまでもない。

それから久しぶりに建築家たちとお話して感じたのは、やはり建築とはそのつど超越的なものだ、ということ。

この「超越的」というのは誤解を招きやすい。西洋の古典主義とか、アジアのコスモロジーとか、近代の合理主義とか、そんな超越的なものと短絡されやすい。超越的なのは良くなくて、もっと草の根的で、住民参加的で、目の前の具体的な問題や生活の実感からからたちあがったような、そんなアプローチが大切だ、なんて反論がなされる。

でも建築をやるということは「そのつど超越的」なのだと思う。「そのつど」ということと「超越的」の2点あることが大切だ。つまり常時超越的なものはときに抑圧的だが、でもそうではない、その場その場での超越は必要だ。設計の与条件はそのままではフラットで、平面に投げ出されているだけだが、プロジェクトとして成立させるには、それらを構造化し、主軸を決めなければならない。これは「超越化」とでも呼べるのではないか。

2009年3月のデザインレビューでは、ジュリイの建築家から、たとえばひとつのエレメントを軸にするというアプローチ、都市や環境を構成する領域と領域のはざまのエッジを重要視しているというアプローチ、現場の特性の読み取りをきわめて精緻に誠実にこなすアプローチ、構造を造形の手がかりとするアプローチ、などが説明された。それらは普通は、アプローチ、方法論、などと呼ばれ、なにか手続き、てがかり、の問題でしかないように位置づけられる。でもそれは、どんどんコピーがファイルを厚くしてゆくだけの情報の一次元的な蓄積をのりこえて、「そのつどの超越性」をあたえることで、世界を構造化しているのだ。そういう意味で、建築家がいかにこの超越を組み立てること、この営みそのものが建築なのだ、といえる。

そういう意味では歴史家の研究も、建築家のこうした超越性探求と同じようなものだと思う。ぼくは審査員賞として、建築いろはカルタを提案したプロジェクトを選んだ。かわいい建築、よわい建築、などと建築を形容詞で分類し、それで「いろはにほへと・・・」として建築プロジェクトを分類する。ぼくはただちに妹島さんのよわいキューブ計画を思い出したのだし、学会の「かわいい建築」特集も言及された。つまり建築の理論的考察において、スタイル、用途といった分類軸は不可欠なのだが、ひとつの理論的試みとして、形容詞によって建築を分類するというようなことはとても魅力的だ。実際、18世紀の西洋ではそのような建築理論も書かれている。

なんてことを考えた。ぼくにとっても収穫の多い講評会であった。

でもそれ以上に、学生たちはとても立派で輝いていた。がんばれ。

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コメント

私は「いろは歌」の学生を指導した高原と申します。

学生デザインレビューごくろうさまでした。
当日のクリティークは久々に興味深く楽しい時間を過ごせました。

学生たちのプロジェクトを過分に評価していただきありがとうございました。

彼らのプレゼンは緊張のあまり真っ白になっていたので補足しますと・・・

「いろは歌」の主題『浅き夢みし酔いもせず』という無常観を
47人の日本人をモデルとしたダメストーリーから建築を導き出して表現する
といったプロセスだったと思います。
世界同時不況の今日的テーマ『浅き夢みし酔いもせず』という主題を
学生が上手くしゃべれなかったので残念でした。
 
建築学生たちを熱くするための機会である学生デザインレビュー、
来年もがんばってください。
 

投稿: 高原 | 2009.03.25 03:49

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