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2009.03.09

難波和彦『建築の四層構造』をいただきました

難波先生の最新著作をいただきました。ありがとうございます。

沖縄の学会に2泊3日の出張をする機会に目をとおした。行きの機中でざっと目をとおし、帰りの機中で下書きを書き上げた。

10年以上前、ぼくはある建築雑誌の月評を書くために、難波さんの「箱の家」001を見学させていただいた。吹き抜けの居間がそのまま庭へ、そして狭い公道へ繋がっている、その直截さが印象的であった。子供のプライバシーをあえて制限したのは、施主の教育的配慮で、雑音や他者のふるまいといった妨害にもまけずたくましく勉強する強い子供にしようということであったことは、知らなかったが。でも生活がなりたつ日常というものにたいし、虚飾も気負いもない、その率直さが印象的であった。

その箱の家が、サステイナブル・デザインに、そして「約束住宅」、MUJI+INFULL木の家」、「アルミエコハウス」などと多様な展開をもたらすことは、予想しなかった。でも確かに池辺陽の立体最小限住居の展開として「箱の家」はある。だから、この原型からの展開、という作業を1度で終わらせず、展開し続けるということなのである。

この書は、過去に書かれた論文をまとめた、ある意味で総括的なものだが、なるほどまとめて縦断的に読んでみると、彼独特の思考の型、というものがすこしはっきり浮上してくるようにも思える。「箱の家」の「ハコ」性とは、他者から見れば異質と思えるものをつぎつぎと包含してゆき、さらに高次の統一を目指しているように、彼の読書と思考も、より高次の統一を目指すのである。

たとえば映画《エイリアン》についての解釈も、理性/怪物、合理/非合理という二元論ではなく、むしろエイリアン的なものが合理主義的なものを裏から支えているというような(そういう表現はしていないが)解釈をする。より高次の普遍化を目指すのであって、善悪二元論、二者択一論ではない。

建築や思想については、アレクザンダー『形の合成にかんするノート』『パタン・ランゲジ』他、マイケル・ポラニー『暗黙知も次元』、などが言及されている。

20世紀初頭、モダニストはさまざまな反動と戦ってきた。それは陸屋根/勾配屋根、幾何学/装飾、機能/記憶、の闘いであった。このタイプのモダニストたちは、別の建築モデルと闘っているがゆえにモダニストであった。それはあれ/これの二者択一を求める二元論であって、すべての根本にある普遍的に有効な原理を探求する態度ではない。

またモダニズムを、技術の合理主義による決定論、経済論理の効率追求などと同義なものだと短絡して解釈することも、よくない。昨今ではいわゆる「モダニズム建築」などというものが話題となっている。この和製英語が言語として間違っているだけではない。モダニストとして生きることはどういうことなのか、という本質的な問いかけを忘れているのである。

難波は二元論的闘いのモダニストではなく、普遍性を目指す、もうひとつのタイプのモダニストである。世界に亀裂をひくのではない。むしろすべてを包括しようとする。合理主義の哲学によって、世界を再征服する。それが難波の立場である。

彼の理論的探求は、私見によれば、「建築とはなにか?」を真摯に、一貫して、深く問いかけることにある。建築の本質は、彼自身の言葉によれば、生得的なものであり、すでに人間の脳や身体にインプットされているものだ。だから建築のエッセンスは、人間性の深い探求によってもたらされる。それは「建築的無意識」と呼ばれたりもする。引用してみよう。

「生き生きとした建築や空間には、生まれつき人間の身体=脳に組み込まれている感知能力に共振して「感動」という反応をひき出すような「質」が内在している」(pp.57-58)

「アレグザンダーは、誰もが生きたパタンを生み出す能力をもっていると主張する。生きたパタンを感じ取る力は、人間に生まれつきそなわっている生得的な能力だという。」(p.221)

このように難波は、人間性の基底にはこのような建築のエッセンスがすでにプリントされていると考える。それは歴史主義を相対化し、さらに歴史主義/モダニズムのかつての葛藤さえ乗り越え、普遍的建築原理があることを期待させる。

もちろんそんなエッセンスがあるはずだ、という仮説は示されるが、それがなにであるか、具体的にかつ体系的に説明されることはない。

建築家としての彼の全体像からすれば、この問いかけかたそのものが、彼をしてモダニストたらしめているのだ。そしてこの生得的建築イデアというものは、彼が探求し続ける「箱の家」と無関係ではないはずだ。

他方で「箱の家」は、核家族という20世紀的モデルにもとづき、やはり最小限住居という20世紀合理主義を引き継いだもので、そういう意味では20世紀的なものを最大限に引き受けているのとまさに比例して、徹底的に私たちの日常である。それは多くの人びとが「箱の家」を受け入れ、そこに住んでいるということではない。それは私たちの日常を映す鏡のようなものである。nLDKが数的には支配的でありつつ、それへの批判的立場をしめる立体最小限住居は、理念において日常を反映している。

そんな日常というものと、建築の普遍的原理が出会うというのだろうか。ほんとうに出会うかどうか、歴史家的にはわかならない。しかし日常と原理が出会うということを信じてたゆみなき探求を続ける難波の存在こそが、歴史家にとってはひとつの重要な事実であり与件であることはたしかである。

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