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2009.02.10

アレゴリーとシンボルの20世紀

修士論文発表会であった。ベンヤミンについて書いた学生がいて、その審査員になったので、ひさしぶりにベンヤミンについて考えてみた。

ベンヤミンはほんとうに久しぶり。彼は永遠の存在かどうかが知らないが、時代が変わるたびに、くりかえし再読されるようなタイプの思想家であるようだ。

1960年代はマスメディアの発展を背景にして『複製技術時代の芸術』がよく読まれた。

1980年代のバブル時代は一種の消費社会論として『パサージュ論』が注目された。この時期は、アレゴリーとしてのパサージュのみならず、実物のパサージュについてのモノグラフが刊行されたり、その修復が話題にされたりもした。

WEBなどで調べると21世紀の初頭のこの時期、初期の著作や、アレゴリー論が注目されているようだ。今アレゴリー論が語られるべき背景とは何か?専門家がなにを言っているかを調べるまえに(調べたりせずに?)、自分でかってに想像してみる。

彼は1920年代中盤に『ドイツ悲劇の根源』を書いて、シンボルを批判して、アレゴリーに注目する事が大切なんだと力説した。

しかし1923年のおなじころカッシーラーは『シンボル形式の哲学』を書いた。ぼくは学生のころ、彼の『実体概念と関数概念』を読んでとても面白かった。哲学の事情はまったくしらないけれど、日本では、ハイデガーが当初から注目されていのにたいして、カッシーラーの主張は1980年代以降にやっと完訳がでたようで、まったく遅い。ぼくが大学の教養課程でドイツ語をならった先生が、下訳をつくっているようだ。

それはともかくベンヤミンはアレゴリー論を書き、その対概念として批判的にシンボルについて論考したころ、まったく同時代に、カッシーラーが、哲学、科学、美術のコアに「シンボル」を措定して、それが人間の精神活動の基本的な図式であることを前提としていたことを、知っていたのであろうか?

彼がそう意識していたかどうか、ぼくは知らない。なのでご存じである専門家がいらしたら、おしえていただきたいと思う。

そう意識していたにしろ、いなかったにしろ、アレゴリー/シンボルという構図は、20世紀そもののであったと思う。そういう意味で、ベンヤミンを、カッシーラー以降の系譜と対比的に位置づけてみたい。

パノフスキーは、カッシラーにおおくを負っていると述べながら、『イコノロジー研究』や『シンボル形式の遠近法』などを書いた。イコノグラフィーとイコノロジーの相違などを解説していた。学生のころ、この区別がいまいちわからなかった。なぜアレゴリーとシンボルを区別するのか。どのみち、ある図像は、なにか図像そのものでないこと、概念、などを意味している。鳩は、たとえば鳩そのものではないもの、たとえば精霊とか平和を意味している。そんなことを論じるために、なぜ区別が必要か、ということ。

しかしパノフスキーは芸術ではこのように区別されますよ、と説明しているのではない。彼は自分の方法論はこうだ、と宣言したのである。私と私の学派は、この意味付与のしかたを、2層に階層化して考えるのですよ、といっていたのだ。つまり鳩は精霊といったまず下層の解釈のその上に、いくつかの図像が組み合わさって一つのタブローを構成するときのその全体的な意味、そしてこうした別の何かによって意味されることのシステムにより、芸術を構築する精神に営みそのものを「シンボル形式」として考えようというのである。

そこではパノフスキーは、シンボルは上位、アレゴリーは下位、とはっきり階層化した。これならベンヤミンは激怒するであろう。そのあたりをぼくはよく知らない。ふたりはお互いの仕事を知っていたのだろうか。ベンヤミンは、同時代にカッシーラーがシンボル哲学を構築していたことをうっかりして知らなかったのだろうか。どっちだろうか。でもベンヤミンが他の研究者のことを知らなかったとしても、それならいよいよ、シンボルとアレゴリーの対峙というものは、意味深である。

『シンボル形式の遠近法』。空間や視覚そのものが成り立つための、見方の図式のようなもの。これは個々の見え方のより上位にある、普遍的な「見方そのもの」はなにか、を問うようなものである。

ウィットカウアはそれを継承する。高次の意味解釈を建築に適用する。ルネサンスからバロックを、ネオプラトン主義の系譜としてとらえた。彼によれば、この時代のイタリアは、まさにひとつの形式を構築しようとしたのであった。そこでは個々の建築はそれぞれ異体であり、上位のイデア的なもののさまざまなバリエーションなのであった。

コーリン・ロウは、ウィットカウアのパラディオ分析を引用しながら、おなじ図式がル・コルビュジエにも見られると指摘した。16世紀にも20世紀にも通用する形式があったという指摘、それはまさに建築というイデアの存在の指摘である。

これは20世紀のアメリカ建築思想の底流となる。ピーター・アイゼンマンは建築というのはひとつの数学形式であると宣言したが、これはパノフスキー/ウィットカウア/ロウの路線にとても自然に位置づけられる。

ベンヤミンは、自分が批判的に位置づけた「シンボル」がこんなに20世紀を支配するとは想像しなかったのではないか。しかしそれだからこそ、シンボルではない、アレゴリーは、20世紀におけるもうひとつの可能性であったものとして、輝きつづける。

『パサージュ論』はアレゴリー論の自然な展開である。本来の意味から切り離され、パサージュのショウウインドウに陳列される。本来の実用的意味はなくなり、回想、素材、原型の図像、など別のさまざまな意味が付着してゆく。しかしそれらは、構造化され、上位のイデア的意味に回収されることだけは、徹底的に拒否するのである。

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