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2009.01.16

フレノ神父と浦上天主堂(長崎)

日本における教会建築の歴史についての研究は、どうも一国史的、国内史的だなあとおもっていた。建築はまず事業者があって実現し、それから利用者がつかう。教会建築の場合、利用者である信者たちの立場から見ているが、建設主体である宣教師たちがいだいていた建築理念、デザイン感覚、などは二の次である。

宣教師の側からみた教会建築史は、ありそうでないので、そういうものを書かねばならないとはおもっていた。そうこうするうちに、アマゾンで19世紀に日本にきたフランス人宣教師のモノグラフ(2008年8月刊)を発見したので、さっそく購入して読んでみた。

ピエール=テオドール・フレノ神父(1847-1911)である。石工・大工の家系だが、カトリックの家系でもあり、カトリックの中等教育を受け、パリにある外国宣教師養成施設にはいって、1873年に長崎にきた。

とうぜんずっとフランスにいて、教会堂でミサをし、パリでは当時の教会堂建築も見ていたはずで、日本にきて浦上天主堂を建設しようというときに、そうした宗教者としての経験がまったく反映されないことなどありえない。しかも神父はみずからプランを作成したのである。

そして19世紀末は、ヨーロッパではすでに近代のさまざまな建築設計の新しい方向性が模索されていた。その近代性という視点から、長崎の教会堂建築を考察するべきである。またそれは可能なはずだ。

そしてそのとき、カトリック教会と、フランス世俗国家、神父が育ったジョンザクという都市とその地域、の19世紀近代における新しい関係を見なければならない。当然だが、フランスはすでに伝統的社会から脱皮して、社会における教会の新しいかたちを模索し、葛藤をくりひろげていたのである。日本における教会堂建築も、たとえ間接的であるにせよ、そうした同時代状況のなかにあった。このことを忘れてはならない。

ぼくが入手したフレノ神父の伝記がかかれたきっかけは、2007年に長崎大司教がフランスの上記地域の司祭であるパスカル・ドラジュ神父に手紙を書いたことによる。つまり長崎司教は35人の巡礼者を従えてジョンザクをちかぢか巡礼する、というものであった。

ジョンザクにとっては青天の霹靂であったらしい。つまりご当地出身であり長崎に布教にいって貢献した神父の存在など、だれも憶えていなかった。だからこれはジョンザクの人びとにとっては再発見であった。そしてもてなしとしてフレノ神父についてのコンフェランスを開催することとなった。そのためにアーカイヴを発掘して、神父の足跡をたどる小冊子を数週間でまとめた。・・・これがぼくが入手した文献のもととなった。

当時のフランスにおける教会/世俗社会の関係をあらわすエピソードをご紹介しよう。

フレノ神父がそだった町でも、教会は困難な時代をへていた。まずフランス革命で教会堂が破壊される。ピエール=テオドール司祭はこの教会堂を修復するために、市や市議会にはたらきかける。苦労のすえ1854年に聖別される。・・・ここで司祭が、市(=世俗権力)に働きかけるという意味がわかるでしょうか。つまり革命によって、教会組織は特権集団ではなくなり、世俗社会によって管理されるものとなった。これは教会にとってはほんとうにつらいことである。

フレノ神父は中等教育としてモンリユ神学校に入学する。この神学校は、1906年、政教分離法によって閉講となる。つまり宗教は、教育の場から完全に追放される。これを「世俗化」(ライシテ)という。ライシテは世俗社会、とくに共和派がつよくいだいた理念であった。これもまた世俗社会と教会のあいだの闘いのひとつ。

渡日する直接のきっかけは、日本にいた宣教師から、パリの宣教団体本部に「テレグラム」で連絡がはいり、新たに宣教士を派遣するよう要請したからである。宣教師は、つねにハイテクを利用していたのだった。

神父の母親は健康がすぐれなかった。また神父は日本にゆこうとしていたし、当時は、フランスに帰国する可能性などまったくなかった。だから家族は、1872年ころ、最後の家族旅行をした。その先が、スペイン国境ちかくのルルドであった。このルルドもまた、19世紀中盤に少女が聖母マリアの姿を見てその言葉をきいたということで、カトリックはそれを奇跡として公認し、ルルドは大巡礼地として発展した。

1872年、「鉄道にのって」故郷からパリにゆき、宣教団体に入会する。鉄道開設の直後であった。

1873年、訪日するために、マルセイユで船にのり、レセップスが1869年に建設したスエズ運河を通過する。そんなに運河は大きくない、というのが彼の印象であった。

・・・などなどです。

このように宣教師のモノグラフを描いてみると、そのディテールを一別しただけで、時代性がつよく反映されていることがわかる。あたりまえのことだが、宣教師たちもつねに、いま、ここ、を生きている。彼らもまた近代性のただなかで海外布教に携わった。では彼らのその近代性のなかで、建築はどう思念されていたか?そこがこれからの課題である。

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