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2008年12月の8件の記事

2008.12.26

再びバビロンで

1920年代にしこたま儲けたアメリカ人たちは、ヨーロッパ中をめぐって放蕩の限りをつくしたり、パリにやってきてはどんちゃん騒ぎをしたりしたが、大恐慌で一文無しになったり、真面目な勤労者生活にもどったり、・・・。フィッツジェラルド『再びバビロンで』では、そんな典型的人物チャーリーが、妻をそのさなかに病死させたり、娘を法定後見人から取り戻そうとしたりしながら、バブリーな時代への追憶にひたる。

1920年代ニューヨークという、おそらくネロ皇帝時代のローマに匹敵するであろう錯乱状況をレトロスペクティヴに描いたのがコースハースであった。それは近代人がグローバルに共有するトラウマといったものであろう。1977年に書かれた『錯乱のニューヨーク』は近未来へのシナリオではなく、近代という時代の古典、典型、であり、それはあるい意味で、破綻という局面において顕在するような類の典型なのであろう。

チャーリーは、大恐慌ののちふたたびパリに戻り、ホテルのバーでウイスキーをなめる。しかし前回羽振りのよかったアメリカ人たちは誰もいない。自分といえば、娘を取り戻すことも、一時頓挫して、しばらくペンディングである。

フィッツジェラルドは『こわれる』という短編も書いていて、いかに人が、ということは自分が、内面から崩壊するかを書くのであるが、しかも、回復したと自覚したまさにそのときに、自分はすでに壊れてしまったことを、発見するのである。床のうえに粉々になった皿を発見するように。

でもここで悟りをひらくのであるが、近代(性)を生きるということは、こわれののちを生きることであり、こわれそのものを生きることである。

昨今の金融危機で、いろんな情報を耳にするのであるが、そんな状況でフィッツジェラルドを読んでみるのも面白いだろうね。今読むととても普遍的なことを書いているように思える。

80年前と現代とは違うのだけれど、その大恐慌を思い出してみるのも悪くない。日本では金融の大再編成がなされて、とくに地方の銀行などは完璧に淘汰された。ヨーロッパでは、たとえば住宅供給への公的介入というずいぶん前から議論されていた方式に、大胆にシフトすることとなった。公的資金をつかったハウジング、社会的住宅、の供給。そこに合理性や機能性が要求されるのは当然のことである。だから20世紀の合理主義とは、単純化していてば、公共資金をいかにつかって社会的住宅を建設するか、そのために投資の合理性・透明性、それと表裏一体になった、住居のプラン、構造、構法、融資システムそのものの機能性・合理性が追求された、ということがコアになっている。つまりお金持ちが普請道楽としてたてる豪華住宅に、機能主義だのというものは、そもそも必要ないのです。だから歴史的には普遍的に存在する、もっと一般的な合理主義などとは区別しなければならない。

それはともかく「100年に一度」の危機によっていろいろ変わるでしょう。

ひとつはアメリカの次期大統領がはやばやと打ち出していたインフラ整備という大方針。これは新ニューディール政策とも呼ばれている。ちなみに中国でも成長率がやや低下することで多くの失業者がうまれ、それへの対策として大規模公共事業が始まるという。もともとアメリカは、橋が崩壊したり、道路も悲惨な状態であったり、ハリケーンの惨事からわかるように堤防もそうであったり、インフラに寿命がきている。そこをテコ入れすることは不況対策と同時に将来の成長へのよい投資となるであろう。すでにソフト業界などはその方向にシフトしているという報道もある。

年末なので来年以降のことも考えたりしますし、良きシナリオを悪いシナリオも世間から聞こえてきます。資本主義の崩壊、アメリカの崩壊(覇権喪失、アメリカの社会主義体制化)など。でも日本人はアメリカ好きであるのに比例して反米派もいるので、グッバイアメリカ派はどうも以前からある反米派のようです。でもアメリカはけっこう元気を回復するかもしれない。

ヨーロッパも苦しいし、今度の金融危機でも、多くの工場(そのなかにはアメリカの自動車工場もあった)が閉鎖され、建設マーケットも成長鈍化(というか不動産マーケットははっきり縮小)、フランスなどでは自動車産業を守ることは国家の最重要課題という認識が示される、などなど。トヨタの純益減少などの比ではない。そしてマーケットはまだまだユーロを信頼してはおらず、やはり強いのはドルのようです。日本の報道は円/ドルのことしかいわない。ドルが弱くなった、ということは対円の話しであって、国際マーケットではそうではないのですが、ぼくのようなシロートはしっかりしないと騙される。

楽観的なシナリオもあります。世界不況から、公共事業投資、とくにインフラ整備が活発になる。それが先進国内だけでなく、途上国にも実施される。すると所得向上、出生率低下という好循環になり、懸念されている世界人口爆発が抑制され、地球環境にとってもよろしい、というものです。これなどはぼくは生きて確認はできないような長い時間スパンのものですが、ありうるシナリオです。

理論的には、世界不況が現実のものとなった2009年は、いろいろ変化が起こるでしょう。2009~2010年からまったく違う時代だ、というようなことを知人とよく話しをします。以前にも書きましたが、バブルすらも実感として知らない世代がいよいよ活躍しはじめると、いっきに変わるかもしれません。

そのあと人は「こわれ」を発見して、フィッツジェラルドのように、そのこわれの認識によってバランスをとる、といったことになるかもしれません。

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2008.12.19

日本語と外国語のはざま

移動(旅とはいわなくなった)の途中で、弁当、週刊誌はほとんど古典的装飾である。車中で駅弁をいただき、週刊誌に目をとおすのは、旅人としてのロールプレイをしているようなもので、戦前デコイチで旅したときはこんなかんじだったのかな、なんていうことを考えたりする。旅そのものが古典的営みとなった。旅は、旅そのものをなぞる。

今回の移動では週刊文春をぱらぱらめくる。この週刊誌は活字離れ、週刊誌離れの趨勢のなかで、いにしえのテイストをよく残している。

書評で水村美苗『日本語が亡びるとき---英語の世紀の中で』について解説を読む。なるほど。書評だけで内容がわかるのは、その内容そのものが明快ですばらしいからである。そんな書評であった。

英語がますます国際語になってゆく。生活用語としての各国語はおそらくそのままのこる。しかし学術語は格段に英語に統一されようとしている。テクノロジーや医学ならいいが、まさに言語を対象とする文学とか、言語により意味づけをおこなう文化にまで波及すると、どんなことになるか。

言語は、考えを伝えるメディアではなく、思考をなりたたせるのに不可欠である。つまり言語は、思想、イデオロギー、そして人格、などの「そのもの」である。だから日本語は論理的思考を促さないという批判がある一方で、日本語は日本語アーカイブを背景にそなえたそれなりに豊かな知性インフラである。それを放棄して英語で学問をするということは、どういうことか。

これは抽象的な話ではない。きわめて具体的で、すぐそこまできている話である。

たとえば日本建築学会は、韓国や中国の学会と協力して、英語の建築学術誌を出している。当初は関係者たちはたいへんな苦労であった。アジア発の英語雑誌、国際的に認められるかどうか。そんな懸念。あるいは日本語の学術雑誌を英語化すればいいじゃないか。別個に英語雑誌などわずらわしい。そんな声もあった。

しかしこの多国籍アジア発英語学術雑誌は、英語圏の学術雑誌ネットワークに認証され、その一員となった。これは論文の書き手としてのアジア人のみならず、それら論文を審査するアジア人たちが英語圏内で認めらたということで、たいへん喜ばしい。

しかし、世界と直結するとどうなるか。同じ内容なら英語で書いたほうが、より世界に直結したものとなる。日本語で、国内雑誌に書いたものは、外国人には読めないから永遠に鎖国的状況である。

すると意欲的な人は英語で、そうではない人は日本語で、という棲み分けに発展し、やがて日本語は淘汰されるのではないか。あるいは研究者の階層化が生じる。

さらに、今では学術論文翻訳業者などというものがあって、お金さえ出せば、そして日本語論文の内容さえあれば、「世界に通用する」論文はどんどん書けるであろう。こうした「産業化」も英語化を促進するであろう。

翻訳文化としての日本文化はどうなるのであろうか。日本が近代化したとき、architectureを「建築」に訳すことから始まって、日本人は、英語などのヨーロッパ語、伝統的な教養としての中国語、そして母国語としての日本語という、多言語的状況のなかで、それらの統一として日本語を選んだ。そのために徹底的に訳語をつくるということをした。それを、最初から英語にしておけば単純ですんだものを、などといってはならない。

たとえば伊藤ていじの「結界」概念も、もともとは仏教概念であったものを、建築や空間のことばとして「翻訳」したものだ。この国内翻訳、あるいは原義をさらに展開するというようなことは、同一言語内ではできる。しかし日本人が、spaceやborderなど英語をつかっていたら、結界などを再発見する伊藤ていじという人そのものが、あらわれなかったであろう。日本語は、思考を展開させるエネルギーをまだまだもっているのではないか。言語はたんなる道具ではない。辞書的定義を超えたさまざまなものを引きずっているがゆえに、歴史的でもあり、言語そのものがアーカイヴのインデックスなのだ。言語を捨てるということは、このアーカイヴを捨てることである。

先日、ぼくが京都で参加した日仏建築シンポも、こういう意味では面白かった。つまり日本建築を研究しているフランス人たちは、20世紀初頭における「住宅」という造語、上に述べた「結界」、「駅」などに、(ぼくからすれば)異様な関心を示すのである。やたら語源はなにかにこだわる彼らのアプローチは、ぼくならばそうはしないという感想をいだくのであるが、他方で、彼らは日本語という空間を尊重し、その空間がきわめて生産的であるということを大前提としている。その意味で、当然のこと、英語が世界を征服すればなにかいいことがあるだろう、などとは彼らは思っていないだろう。

ぼく個人としては、フランス人たちと連携する今日的意味は、普遍的な英語の世界がすべてではないことを証言し、立証し、英語圏の外側でも豊かなことをしうることを実践することである、と思う。

ぼく自身はバイリンガルなどにはもうなれないし、せいぜい日本語+αにしかすぎない。しかし本当に、あるいは学術的な意味でバイリンガルとは、ぺらぺらに会話ができる、ということではない。英語なら(英語でなくとも西洋の言葉なら)、ラテン語、ギリシア語、あるいはそれらの文学を、そこそこ知っているということが必要だ。これは漢文、古文、あるいは近代日本文学を抜きにした現代日本語が、知性インフラとしてどれほどのものか、を考えるとすぐわかる。

・・・とはいえ植民地時代が長く、また国内学会がまだまだ成熟していない国においては、たしかに母国語で学問するデメリットより、英語でそうするメリットがはるかに大きいだろう。それは選択の余地のないようなことである。もとからの英語圏は、もちろん問題はない。

日本という、19世紀において努力して母国文化を立ち上げた国は、それを継続させるのに、これから大きな努力をしなければならない。建築でいえば、近代において日本人建築家たちが日本語でおこなった、観察、思索、考察、分析、理論化、その総体がやがて文化遺産となるでしょう。それを維持してゆく。ご苦労様だが、それはそれでしかたない。識者たちは「国際的に通用する人間を育てるためにも、まず日本語教育を」という。そのとおりだと思います。

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2008.12.16

時差ぼけウイークと日仏建築シンポ

時差ぼけはつらい。

知覚するものに現実感が欠けている。人のことばが、たんなる音に感じられる。意味が即座に伝わってこない。音を、言葉に、さらに意味に翻訳しなければならない。文字がインクのシミに見える。これまた解読しなければならない。「う~ん、よっこいしょ」といった感じで翻訳・解読する。普通は、知覚すると同時に意味は伝わっているのだが。現実=意味がベールに覆われている。離人症と同じなのです。つらい。

疲労感、睡魔、というのも通常とひと味違う。ふつうは眠るとき、ああ眠くなってきたという実感があって、つまりたとえ短くとも移行期があって、眠る。しかし時差ぼけの居眠りは、電気のスイッチをオフにするように、突然襲う。「プチッ」といって意識が消え、「パッ」とよみがえる。電車にのって座っていると、乗り過ごしそうになる。だから目的地まで立ったままでいる。こんなとき、ぜったい車の運転はしてはいけない。

今まで、サウナ、フィットネス、ストレッチ、サプリ、とにかくがんばる、いろいろやったけれど全部効果なし。年に地球を何(十)周もする人がいるけれど、よっぽど時差に強いのだろうね。ぼくがやったら2ヶ月で過労死でしょうな。

でもいちばんいけないのは、なにもしないこと。一番ひどかったのは、出張帰りのあと休暇だった場合。自宅でごろごろだと、2週間はぼける。

今回は日仏建築シンポで京都にいった。Nさんのご招待である。

一昔前とはちがって、日仏双方とも層が厚くなり、それぞれの「ノリ」もわかってきて、率直にいろいろいいながら、ときに手厳しく、でも和気あいあいで、いい感じである。

コメンテーターのM先輩は、発表者の内容をどんどん広げるようなコメント。さすが。ぼくから見た彼は、かつては若手の代表者であったが、今では、ご自身の体験そのものまで今の若手に伝えるべき立場になってきている。いろいろと世代的義務も抱えていらっしゃるようであるが、ますます頑張ってほしい。

・・・こんなふうに緊張感をもって一日中講演を聴いて、ホテルにもどってプールで一泳ぎ(ぼくのこだわり)して、仕事のメールして、充実感をもってビール飲んで、12時に爆睡して、そこまではいいけれど、なんで2時に「ぱっちり」と目がさめるの?

ぼくの発表はオーラス。日本建築という概念の誕生、フランス建築という概念の誕生、をそれぞれ論じ、比較するという意欲的なもの(意欲しました!)。おかげさまでなかなか好評でした。フランスの研究者からの熱いまなざしも伝わってきた。この内容はいずれ報告書となって刊行されるでしょう。こうご期待。

フランス人たちの発表を聞いての感想。もちろんひらがな/漢字文化のハードルは高いのだけれど、もはやオリエンタリズム的距離はなく、それぞれ堅実な問題設定という感じである。ただ根本的に違うのは、彼らの大陸合理主義的な本質と、日本人の経験主義的アプローチ。こういうのは永遠の平行線であろう。最初に定義がないとなにも始まらない彼らと、とっかかりはテキトーでもすこしずつ骨格をつくってゆく日本人の違い。こうした違いは、調停するより、もっと際だたせたほうがよいのであろう。

懇親会は、フランス人研究者と名刺交換とか、日本人研究者とも初対面の挨拶とか、なんといいますか、これは社会復帰ですかね。アルコールがどんどんはいって、時差ぼけとの相乗効果でかなり危なくなってきたので、一次会だけでホテルにもどる。でも元気な人びとは、2次会、3次会と、朝5時まで楽しんだらしい。世間ならおじいちゃんの世代なのだけれどね。フランス人たちも日本モードに切り替えて楽しむすべを知っているようだ。

翌日は待庵の見学。日仏の建築専門家たち17名が押し寄せる。まえから見たかった名作であるが、それを語る資格はぼくにはなさそうだ。加藤先生のご説明を直立不動で拝聴する。こうした名作をコアにして成立するコミュニティというものがある。ぼくは作品そのもの、そして作品が成立させている世界の傍観者にしかすぎない。

京都から新幹線で帰宅。翌日から大学で、書類書きと通常の仕事。

さて今日は支部研の梗概を仕上げて、ほかにたまった書類をしあげて、・・・・時差ぼけもだいぶ解消したな、と思ったら、喉がひりひりする。こんどはカゼです。もう好きにしてください。

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2008.12.07

《魔笛》とシャイオ宮

仕事疲れでも夜は観劇する。

バスティーユのオペラ座では《魔笛》をやっていた。

定番、安牌とおもってなにも考えずに見たのだが。《魔笛》はさまざまに上演されてきたので、演出も出尽くした感じがあるのだろう。今回の演出は、とことん機械仕掛け、IT仕掛けであった。

Flute

まずほとんどがヴァーチャルリアリティ的舞台装置である。舞台はほんとうに白い直方体の内部。そこにさまざまな図像を投影するのが舞台装置。

ほかに巨大透明マットレスを駆使しして、それをさまざまに組み立て構成して、場面をつくっていく。アイディアは悪くはないのだが、劇が進行中も、すりすりと、それらが床をこする音が聞こえて、やはりすこし興ざめではあった。

劇はひとつのゲームでるということになっていて、3人の子供が端末をもって登場するところからはじまって、ストーリーそのものはそんなにいじっていないが、最後はふたたび子供たちがあらわれて、「game is over」なる文字が投影される、という入れ子構造。

それはそれで楽しめたのだけれど。しかし学芸会ですね。

建築の聖地というわけではありませんが、シャイオ宮の建築・遺産都市にもいってきた。

常設展は旅の終わりにみるとなごむ。中世建築の部分は1983年に最初に見学したときいらい、数回目であるが、ITによる画像展示も追加され、基本は同じとしてもつねになにか発見がある(とはいえ全部見ていない、忘れる、などによるものだが)。今回、CGによって当初の彫刻の多彩色であった状態から、現在の無彩色の状態に移るようすがディスプレイ上に示され、よかった。

上の階に新設された近代建築の展示は、すでに報告したとおり。でもしつこく書こう。

ル・コルビュジエの《ユニテ・ダビタシオン》のモックアップ。これは森ビルの展覧会でもあったが、それとはまったく違う。森ビルではすべて白であり、空間のスケールしかわからない。しかしシャイオ宮では、PCパネル、床を支えるH鋼、木の棚、鉄板の郵便受けなど、素材そのものも復元されていた。さらに重要なのは、ル・コルビュジエの有名な写真で、RCのフレームにユニットを挿入するものがあるが、それを彷彿させるように、RCのスケルトン(さすがに本物のRCではない)に、H鋼の補助構造、内装壁などでできたユニットがインフィルされたことが、そとからはっきりわかるように、展示されている。

こまかいことはいろいろあるし、200年の近代建築の流れがよくわかるようになっている。

しかしここの展示の本質はさらにある。それは「現代と歴史をつなげる」ということにある。

たとえばヴィオレ=ル=デュクの大ホールプロジェクトの模型がそっとおかれている。鉄構造をつかった大架構である。彼は理論家でもあり、骨格/皮膜、支持/被支持、など普遍的な概念によって、ゴシック建築を普遍的建築モデルとして構想した。そしてこの理論と模型があると、ペレの劇場、ル・コルビュジエのドミノ、ユニテ・ダビタシオンも一直線であるとよくわかる。

日本は逆である。現代と歴史のギャップはどの国でも大きい。問題は、乖離してしまった両者を、ふたたびつなげようとする意志があるかどうかだ。事実性ではない。意志であり、指向の問題である。そして日本では、歴史と現代をはっきり切断する方向に、意志がはたらいている。

ついでにいえば下の階にあるゴシック建築ともほとんど一体化している。

地下では、フランス建築大賞を受賞したLacaton & Vassalの展覧会。日本の現代建築とはほとんど時差がなく、というか、国境もないようであった。さらにいえば、中世とも19世紀とも太い糸で繋がっていることもはっきりわかる。

現代と歴史をつなげる、かあ。それならIT仕掛けの《魔笛》も、認めなければいけないのかもね。

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Archilab2008とオルレアン大聖堂

旅もそろそろ終わり。今回は余裕をもたせ、ストレスレスのさわやかな旅となった。いいかげん歳だからさずがに中庸を考えるようになった。

とはいえ週末と夜はいろいろみたいもの。思い出すままにランダムに書きます。

オルレアンの《Archilab2008》展は、やや期待はずれ。パリから半日の日帰りで、時間も損しなかったし、まあいいか。

もちろん市町村、地方、国というこれまでのヒエラルキーの上位に、さらにヨーロッパが追加され、プロジェクトの枠組みが変わったし、ヨーロッパの文脈のなかで構想しているのももちろんわかる。また国ごとだと、予算、年度、期待成果、がはじめから計算ずみということになっている「計画」でよいのだが、ヨーロッパという枠組みだと都市間競争(「ヨーロッパ文化首都」など)もあって、自律性のまとまりである都市や地域ごとに「ストラテジー」(戦略)をたてなければならないのもわかる。インターレグなるシステム、ヨーロッパがプロジェクトを喚起し、評価し、予算措置を講じる主体であることもよくわかっております。

しかし展示されたプロジェクトは面白くはなかった。もちろん建築家たちが構想するヨーロッパ全体像とか、多様なものを俯瞰できる視点があるとか、それはよかった。もうひとつひとつのプロジェクトは、いかに個々にすばらしくとも、そのすばらしさは多くの変数のうちのひとつになってしまう。むしろ「俯瞰的視線」が、傍観者もすでに共有していることが肝心であるようです。つまりこうすることによって、新たなヨーロッパ像そのものをつくっているようです。

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とはえ展示設営はよかった。多くの色が使われながら、まるで虹のように、そっとグラデーションが示されている。これは古い教会を利用したもの。教会だから身廊と、その両側の側廊からなる。展示はその身廊にすぽっと内蔵されたかたち。側廊からみると、アーチでできたスケルトンに、パネルやななんかがインフィルされたように見える。

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パリに戻る途中で、オルレアン大聖堂を見る。

堂内で老人に声をかけられた。彼は語る語る。・・・・この教会堂は長さ120メートル、天井の高さ38メートル。着工から完成まで数百年もかかった。だからあそこではまっすぐであるべきリブが歪んでいるし、壁も、柱も、じつは垂直ではない。長い建設の歴史のなかで、とくにアンリ4世と、ルイ14世が関わったことは、私たちの誇りである。それにたいしてプロテスタントたちは!聖堂をとことん破壊しようとした。傷跡はまだ残っている。あの入口飾りのペディメントもそう。すっかり装飾がそぎ落とされているだろう。修復されたこっちと比べてみたまえ。(この像は聖ピエトロですかね?)いやいやそうではない。この種の図像は、当の教会を創建した最初の聖人か聖職者なのだよ。それにしてもさっき言った王たちは、プロテスタントが痛めた傷を、修復してくれた。ステンドグラスも、昔のものではない。色はすぐに変色してしまった。オルレアンでは彩色の専門家がいない。現在あるのは、薔薇窓で有名なシャルトルの職人がきてつくってくれたのさ・・・・・。云々。

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京都の人が応仁の乱を語るように、老人はプロテスタントによる破壊を語っていた。おそらく名物爺さんなのであろう。でも基本はおさえた語りである。感謝。

破壊と修復という構図では、日本では戦争や高度経済成長が主な悪役だが、フランスではプロテスタント、フランス革命なのである。

ところでゴシックもまた、当初はパリ盆地でできた地方様式であったが、すぐにヨーロッパ内における国際様式となり、普遍化した。中世の建築様式だが、これだって立派なヨーロッパ・プロジェクトである。なんてことを考えたら、EU的なものは急に始まったのではない。とはいえ、過去にできた統一ヨーロッパ像にまで言及するのはどうかな、です。

つまりEUというのは歴史的には、こうした古代ローマ帝国や、ナポレオンや、第三帝国に比較されることもできるのでしょうが、現在においては、知っていてあえてそうした過去のヨーロッパモデルには言及しないことが、不文律になているようです。

おそらく何十年もして、EUがさらに客観的に回顧されたとき、もっと昔のヨーロッパ・モデルと比較して語られるのであろうなあ。

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2008.12.03

ボザールで「身体の図像」展をみた

投稿の順番がごっちゃですが、パリに移動してとりあえず「身体の図像」展をみてました。何日に見たかも忘れました。「パリの未来派」展からハシゴしたような気がする。展覧会見学が本職ではなく、あいまに見ているだけですので、こんなことになります。

この展覧会は、ぼく的には、今季のベスト、必見でしょうね。ボザールの書庫・アーカイブからいい素材(ダヴィンチからある)をピックアップし、17世紀以降、美術教育・研究において身体図像がいかに進歩的なテーマであったか、時代ごとに独特のアプローチがあって、前衛からみて古いどころか、むしろ同時代の前衛よりもはるかにアップツーデートなことに取り組んでいたかが示されています。

ところがボザールは伝統的で因習的というレッテルが貼られ、おおいに誤解されつづけてきた。

つまり西洋文化のコアは人文主義であり人間中心主義であり、とくに絵画や彫刻、それに建築も、そうであった。これら3分野の根本は「人体デッサン」であり、若い芸術家たちはエコール・デ・ボザール(美術学校)で石膏デッサン、裸体デッサンにより腕を磨く。このような教育が、イタリアでは16世紀のアカデミア・デル・ディセーニョから、フランスでは17世紀にコルベールが設立した絵画彫刻アカデミー、建築アカデミーから始まる。それは少なくとも20世紀初頭まで続いているし、根本的にはいまだにそうだといえます。

こんな「アカデミズム」という背景があるからこそ、たとえば「バウハウス」の革命性、最近のデジタル芸術の斬新さがいえるのです。

でもこれは保守/革新という構図でとらえるのはあまりにクリシェ化しすぎといえます。

「アカデミズム=保守」と決めつけたのは20世紀の前衛アーティストであり近代建築運動です。彼ら前衛の主張をとりいれて歴史を書いたのがたとえばニコラウス・ペヴスナーです。この碩学は、単純なイデオローグではなく、古代から現代までの建築を誰よりもふかく理解していたので、近代建築の流れを念頭において歴史を再構築する描き方を誰も否定できなかった。

一例がペヴスナー『美術アカデミーの歴史』です。この書は、「人体デッサン」がいかに西洋の美術教育の脊柱であったかを説明しています。ですのでルネサンス期における裸体デッサンの復興、マニエリスム期におけるその技巧化、17世紀フランスの古典主義時代における絶対化・カノン化、18世紀後半の新古典主義期における機械的適応化、など、おおきなパースペクティヴで説明しています。

とくに新古典主義の時代は、美術学生は、まず(たとえば)手の石膏モデルを模写し、つぎに頭部、脚部、胴体、とすすみ、それから全身石膏、裸体モデルというように、総合に進む、というようにペヴスナーは説明しています。ああ、なんたる機械的な教育か!というわけです。

でもこの「身体の図像」展はまったく異なる歴史をみせてくれる。

つまり、ルネサンスから17世紀までの、数学的比例、幾何学図式といった絶対的カノンの時代、18世紀のより解剖学的な時代、骨格、筋肉、神経組織、血管組織への注目。皮膚をはぎ取った筋肉が露出した身体彫像の製作(実物を想像するとグロテスクだが彫塑なので抽象化されている)。19世紀のダーウィン的進化論の導入し、人体のみならず動物が研究対象になったこと。さらに19世紀末に、病人、小人症、ヒステリー、ハンディキャップなどのいわばマイノリティ身体が研究されたこと。写真という最新テクノロジーを導入し、連続写真をつかうことで、運動、瞬間などにおける身体をスタディしたこと。

とくに連続写真がスタディされていたことはなかなか面白かった。つまり未来派の絵画で、階段を降りる裸婦といった有名なものがある。しかしそれよりボザールは20年も先行しているのである。

ぼくにとっては「パリの未来派」展とこの「身体の図像」展をほとんどつづけて見たことはたいへんよい勉強でした。いちおう建築史をやっているので、日本人が前衛を重要視しすぎること、ほんとんど前衛的価値観で歴史全体を見てしまうという逆パースを犯してしまう傾向にあることなど、もちろん気がついていた。

でもふたつ展覧会を前後してみると、なぜ前衛があれほど声高に反アカデミーを叫ばねばならなかったかも、よく理解できる。つまり、アカデミーがとても古いからではない。逆にそこでは、とても本質的であり、根本的なことが取り組まれていたからなのです。

アカデミーでは、理想的身体のみならず、その徹底した器官的解剖、崩れた身体、反理想的な身体、瞬間への微分、流れる時間への展開、すべてがなされてきました。

つまりアカデミーはすでに前衛を内包していました。

だからこそ、そのアカデミーから脱出するために、前衛と称する人びとは、決死の覚悟で、いまだにヴィニョーラだ、いまだにダヴィンチだ、という虚位の捨て台詞をはきながら、自分たちの独自性を主張しなければならなかった。

未来派の人びとが「もうぼくたちは塵芥と断片でもってしか創作しない」と叫ぶとき、それは荒野に分け入る開拓者というより、追いつめられた者の悲鳴というように、ぼくには感じられます。そして社会は、じつは包容力に満ちていて、既成概念からはずれるがゆえに無視しつつ、じつはおおいに期待していたのではないでしょうか。保守も、前衛も。

さてそれではボザール、アカデミーのほんとうの限界はなにか?それはあと50年、100年しないとわからないかもしれない。しかし視野の狭いぼくの直感、ぼくなりのカンでいえば、最終的にフォルム(形態、形式)として、彼らは考えていた、というようなことでしょうか。フォルムそのものを否定したら、アートはなくなってしまうかもしれない。でもたとえば、アルゴリズムで考えるアーティストもいた。彼らはそういう意味ではボザールの欠陥を補っていたのかもしれない。しかしそれでもアルゴリズムはそれ自体の形式があるがゆえに、再フォルム化の陥穽はつねにあります。

・・・などなど。結論は100年後でもいいのではないですかね。

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2008.12.02

不法占拠や《ライモンダ》など

日曜日なのに原稿書き。といってもありがたい話なのだが。京都のN先生からお誘いをうけたので、12月に京都で開催される日仏シンポに発表することとなった。その発表原稿である。

手元にまったく資料なしで学術的なことを書く。とはいっても文献名、刊行年などはフランス国立図書館のWEBカタログで確認できるし、ウィキペディア(もちろん英語版・フランス語版)も記憶違いを修正するためになど、いろいろ便利。いい時代になったものです。そんなこんなで1日まるまる使って、8000字を書き上げ、メール添付で送る。内容はまた後日書きます。

月曜日は、大学や研究室とメールでやりとりして事務作業を進める。なんだこれでは研究室にいるのと同じではないか。WEBは非場所化を推進してしまう。でも大学の業務なのだから、なにがなんでもしなければならない。あとデジカメ接写した資料をすこし解読しはじめる。

15時から、パリの建築大学の学生であるA嬢とB君とあって、研究指導。彼らは交換留学生として来日し、Q大のぼくの研究室で1年過ごしていた。うん、ひさしぶり。彼らは卒業研究に相当するものとして、日本の現代建築についてスタディしている。詳細は彼らのために書けないが、昔と比べて日仏の距離はとても小さくなっている。

いろいろ雑談。ぼくが調査している対象建築についてフランス人がいだく一般的イメージ。日本については、コンビニ、ホームレス、狭小住宅、不法占拠、68年、戦後の引き上げ、メタボリズム、川添登、菊竹清訓、沖縄博のパヴィリオン、70大阪万博、黒川紀章、中銀カプセルタワー、東孝光の塔の家、道路拡幅、宅地区画、などなど。いろいろ話しているうちに、こちらも整理できてくる。公共空間/私的空間の閾は、伝統的に、西洋/日本では異なっている。欧米視察団の時代から、日本人は気がついていた。市役所前広場も、日本は官僚がしっかり管理しており、西洋と広場とは違う。以上は通説。しかしこの空間における公/私はいろんな形で再登場しているのではないか。戦争直後のさまざまな不法占拠、大学紛争における解放区=アジール、ホームレス、コンビニや路上空間におけるカスタマイズ化、など。

あっというまに3時間たつ。ふう。またね、いつでも連絡して、といい残して、とりあえず一度アパルトマンに戻る。

着替えて、19時半からオペラ座で《ライモンダ》である。

なぜぼくがパレエを観劇するかはいろいろ事情があるので割愛するが、ともかくおもしろかった。これは3部構成で、3時間以上かかり、3幕すべて見た人間はファンでも限られているそうだ。しかもバレエをろくに知りもしないのに全部見た、きわめて希な日本人のひとりに、ぼくはなった。

《ライモンダ》はハンガリーが舞台。ライモンダとその婚約者ジャン。ジャンは十字軍に出征する。彼女は、サラセンの王子アブデラフマンから求愛される。帰還したジャンはアブデラムと決闘し、勝つ。国王アンドレ二世臨席で、ジャンとライモンダの結婚式。というようなお話しである。

つまり19世紀末の状況がよく反映されていると思われる。もともとハンガリーは、部分的にオスマントルコの支配をうけていたなど、ヨーロッパと東方の狭間にある。19世紀はオーストリア=ハンガリー帝国であった。なにせ「十字軍」です。これはオスマントルコ的なものの否定のポーズです。

というようなオペラ=民族自立文化説を思い出すのである。そんな背景を考えるとちょっと生々しい。

それはそれとして、ともかくも豪華キャストであった。ニコラ・ル・リシュはアブデラム役で登場するが、この敵役をデンジャラスに美しく演じていた。

とりわけアンリエット役のドロテ・ジルベール(Dorothée Gilbert)はすごかった。なんでも最近めきめき力をつけてきたらしい。ともかくライモンダ役のマリ=アニェス・ジロを完全に喰ってしまう技量と人気と拍手喝采なのであった。素人目にもはっきりわかるのは、首・肩・腕・指先がひとつのものとして連動するさまが、まったく次元が違う。彼女の身体がほんとうの身体だとしたら、ほかのダンサーは不完全でぎこちないCG動画に思えてしまうほど、なめらかだ。そして魅惑的だ。挑発するように。難しいステップがどうのこうのは、ぼくには論じられない。しかし彼女はたんに足で踏ん張っているのではない。足先で、床をマッサージしているかの、床をさまざまな力のいれぐあいでそっとタッチしているかのようなのだ。・・・ほんとうにいいものを見せていただきました。極楽。

舞台セットもよかった。広い広い大きな布を、巨大な天蓋のように、いっきに展開してみせるなど、なかなか効果的。こういう建築的装置、というか建築的に解釈したくなるような装は好きである。

というようなことで、アパルトマンでビールをいただくころには深夜。すぐに爆睡しました。

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2008.12.01

「パリの未来派」展

ポンピドゥ・センターで「パリの未来派」展をやっていたので、のぞいてきました。アート全般については専門外なので、印象しか書きませんが。

まずかなり的を絞った展覧会であったこと。絵画のみ。それから時期的にもほとんど1910年代が中心。でもそれだけ、細やかで、わかりやすかった。

背景。未来派が最初のマニフェストを発表したのがパリの新聞であったので、日本から見ると、ヨーロッパ全体が背景であったかに思えてしまう。でもそうではない。パリからみると、これはあくまでイタリアの運動である。

未来派の人びとはマニフェストを発表し、そしてパリに乗り込んでキュビスムとの抗争を展開する。最初は、未来派にとって、キュビスムは前衛芸術のようなふりして、いまだにアカデミズムにとらわれているにすぎなかった。そしてそのように批判した。しかし交流がすすむと、お互いに理解し合い、理念を交換するようになった。などなどである。

さらにロシアの未来派は「キュボフュチュリスム Cubofuturisme」と呼ばれる。しかしロシア人たちはある意味でイタリア人より先行しより急進的であった側面もある。ともあれそれは具体的な人的交流にもとづいている。

さらにアポリネールが「オルフィスム」とようだものも、未来派が触媒となってキュビズムから派生したものであった。

というようなことが、どのような人的交流で促進され、いかなる絵画作品となって結実したかが、10のコーナーで分節化して説明されており、とてもわかりやすい。

ただイデオロギーの紹介としてはありきたりだと思った。運動、機械、騒音、ある種のマチョイズム、云々。展覧会の出口脇にはマニフェストの一部が大きな文字で掲示され、それによると、すべてのアカデミズム(ヒューマニズム)をうち捨てて、ゴミと断片から創造するのである・・・といった主張は、たしかに20世紀後半の先取りではあるし、未来派が20世紀全体を支配していたとしても、ぼくはかまわない、のだが。

あとは素人なので暴論を箇条書きします。

パリでの展覧会なので、日本にいるときとは別の視野で未来派を眺められる。つまり日本からみると、どうしても未来派もキュビスムも構成主義も、おなじヨーロッパを土壌にして生まれてきたおなじモダニズムのさまざまな派生でしょう、などと考えやすく、いろいろなものを十把一絡げに「モダニズム建築」などとする発想はここから生まれる。しかしパリにいれば、未来派とキュビズムは、名前が違えば中身も違う。そしてパリにとって、未来派は向こうから乗り込んできた、トリックスターである。このような諸運動の空間がわかるというのが、現場ならではです。

うまい/へた、は隠しようもない。ピカソやブラックの絵も参照として展示されていたが、やはりオーラがちがう。思想の革新性、試みの斬新さはそのようなものとして評価されるでしょう。しかし作品の完成度、アーティストの力量もまた、それとは別の基準で判断されます。おなじ会場で一度にみてしまうと、その差は残酷なまでに明らかなようにも思えます。

未来派は抽象度が足りない。つまりすべてが具象であり、人体、風景、を非アカデミックな方法で描こうとはしているが、その成功度はまちまちです。だから全体を見ていると、やはりイタリアを中心とする西ヨーロッパの人文主義的伝統のなかで、人文主義から結局のところ逃れられないような宿命のなかで、しかし、そこから別のものを創造しようとしている悪戦苦闘がむしろ印象的です。そうか、これだけ苦労するのだから、東洋、アフリカ、など別世界に活路を見いだそうとするのも自然です。

戦後のジャクソン・ポラックなどは、過去を引きずっていないので、圧倒的に抽象度が高い。この展覧会をみると、戦後のアメリカのことなど考えてしまう。

アカデミズムへの態度。未来派は、キュビズムは隠れアカデミズムだといって批判しました。でもそういう未来派も、まさにそう批判することで、隠れアカデミズムであるかのように思える。むしろアカデミズムは、きちんと批判される対象であることで、その役割を果たし、アートの中心軸であったのだなとも感じました。

展覧会のキュレーターが指摘するように、未来派は、反アカデミズムであり、ゴミと断片からすべてを構築するアートであったとしたら?でも的を絞った展覧会であり、絵画以外のその他の分野は今回は対象外なのだから、そこまで大風呂敷でなくとも、という感じはしますけど。

謝暴論暴言。

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