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2008.11.16

ギメ美術館にやっといけました

パリのギメ美術館は東洋美術のコレクションで有名である。ただなかなか行けなかった。建物が修復工事中であったからである。それだけならよくある話し。この件がすごいのは、ぼくは留学生のときから待ち続けた、ということです。80年代後半に留学生していたときも閉鎖。就職して余裕ができた00年代も閉鎖。いつオープンしたかは知らずじまい。でも今回やっといけた。

特別展は香川県の琴平宮所蔵のコレクションの展示。とくに面書院の襖絵などである。そのなんたるかはしかるべき文献とサイトで説明されているから省略する。ただフランス人の関心の高さと、理解の深さには感心しました。書院造りの、部屋が鎖状につながってゆくその空間ヒエラルキーにそって、襖絵のテーマは、鶴、虎、竹林の七賢人、そして山水、と変わってゆく。襖だから可動間仕切りなのだけれど、その部屋になければ成立しない。空間シークエンス=絵画シークエンスだからです。そういう意味では、絵画が建築から分離して自由になった近代絵画とはちがって、西洋のフレスコ画などのようなものに比較できるでしょう。またインテリアを、山水、竹林、などランドスケープの図像で演出するのだから、ますますヨーロッパ人にとっては理解できるもののようです。

展示は、日本的空間を部分的に再現するものとなっていた。つまり書院の空間シークエンスをおおむねそのとおり再現しながら、しかし会場を畳で敷き詰めるわけにもいかないから、縁側にそって襖絵がならんでいるような演出である。う~ん。なんともいえない。ご苦労が想像できるから。

現代作家の紹介もされていた。襖絵を、現代作家の現代絵画にしたときの作品も紹介されていた。これはオペラ座の観客ホールのドームをシャガールの絵で飾るようなものであろう。

方丈を現代アートで飾った僧侶の話はあまりきかない。この場合はお宮だが、やはり宗教人は保守的かもしれない。しかし襖は、テンポラリーに交換できるのであるから、常設的襖をときどき、まったく別の現代作品に交換して、そしてさまざまな作家にトライさせて、それぞれの作品のできばえを鑑賞するのは悪くない。そのとき、伝統的日本空間は、もっとおおらかに芸術を受け入れる枠組みとして機能するようだ。

たとえば式台から上段の間までの空間のヒエラルキー。通常は、鶴、虎、竹林、山水で飾られる。これは常設展。しかしときどき現代作家にまかせて、この空間の襖絵を創造させ、2~3週間、展示する。そして常設展にもどす。そして別の機会に、別の作家にまかす。

そうすれば美術館に幽閉されるのではない、別の形の生きた展示できます。

こうした試みはどこかでやられているはず。ご存じのかたはコメントください。

常設展も見ました。アジア美術のコレクションは豊か。インド、西アジア、東南アジア、中国、朝鮮半島、日本とめくるめくパノラマです。ちょうど20年ほどまえ、ボンベイ(ムンバイ)博物館でヒンドゥー教美術等のコレクションを見て、その豊穣さに感銘したときいらいの感激でした。

その内容もさることながら、地球的パースペクティブで眺めていると、やはり100年ほどまえの美術史家リーグルのことなど思い出さないではいられない。彼もまた古代美術を、オリエント、エジプト、ギリシア、ローマ、ビザンチン、イスラムと広大な空間と数千年にわたる時間とのマトリクス上で、構想した。そこではパルメットなどという装飾モチーフをパラメータにして、それが諸文明を縦断しながらさまざまな表現を生んでゆくことを明らかにした。

シバ神、ヴィシュヌ神などがどのように異なって描かれてゆくか、という興味である。

リーグルにもどると、彼の様式伝播の構図でひとつの軸になっているのが、具象/抽象である。植物文様は、実際はさまざまな形態をとるひとつの植物を、模様化する、つまり図像としてパターン化する。つまり具象でありながらすこし抽象化する。それが様式伝播の過程において、もともとも具象性が弱くなり、装飾がそれじたい自律してしまい、ほとんど抽象となってしまう。つまり古代ギリシアは具象の世界なのだが、イスラムは完璧な抽象の世界だ。

おなじようなことがアジアでも感じる。ヒンドゥは徹底的に具象です。抽象的な神々まで、人体像であらわそうとする。そしてその肉付き、体のしなし、姿勢など、その具体的な姿によってなにかを語らせようとする。しかし中国、日本に伝わってくると、すでに成立した図像を、マニュピレイトすることが残される。すると簡素化したり、パターン化したり、というような抽象が始まるのではないか。

つまり人間は、完璧に虚心坦懐にものを見るということができない。既成の図像的な図式にそって、ものを見て理解するにすぎない。だから人類史的に見れば、たとえばヒンドゥー美術の図像が最下層にあって、それをさまざまに変換した図像が、文化の根底にOSのように定着していたらどうか。それをうけとって発展させるのちの文明は、相対的に具象的であったものを抽象化させてゆく、という方向性しかないのではないか。

具象というのは大文明の中枢において創案される。しかし周辺部にゆくほど抽象化される。現代アートは、あるいみでこの具象/抽象=中枢/周辺という構図を露わにし、批判することだったのではないか。

つまり日本や台湾などの文明の周辺的存在の地域は、大陸文化の保管場所という機能(西アジア、ヨーロッパにたいしてイギリスのように)をになうだけではなく、「抽象化」という役割を、地政学的に任されているのではないか、というたいへんな暴論を、ギメ美術館のなかを歩き回りながら、考えていた。

もちろん抽象=幾何学的形態というように短絡してはいけない。抽象とは、抽象的に見てしまう、観察意欲でもある。・・・これは難しいなあ。すでに同じ論考をされたひともいるかもしれません。その場合もコメントしてくれると感謝です。

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