ヘルツォーク&ド・ムーロンのNY高層アパートをめぐる仮想内覧会
オンライン版ビルディング・デザイン紙の記事『ヘルツォーク&ド・ムーロンはニューヨーク高層アパートのデザインを公表』(2008年10月14日)によれば・・・
レオナルド通り56番のこの高層住宅は、57階建て、3万9500平米、145戸。住戸はそれぞれ間取りが違い、各戸に屋外空間がついている。ごらんのように上下のアパートは、いっけん無造作に、食い違いを気にしないで積層されている。アパートは、130平米から600平米で、広い。天井高は4.25メートルで、小壁も腰壁もないから、見晴らしはよい。インテリアも彼らであり、浴室の壁はモザイクタイル、流しのトップは大理石、フローリングは白オーク材・・・・と、不動産広告かな、これは。
・・・・てなわけで有名建築家たちが招待され、内覧会が開催された(としよう)。
あれ、先生。ご高名な先生にきていただいて嬉しいです。
やあ。NYだというのに、ゴッドファーザーがきてないね。彼がいないとコンセプトもまとまらないだろうに。
いろいろ事情がございまして。先生は建物をごらんになって、いかがですか。
彼をさしおいて僭越だけどね。まあ、ぼくのベルリンやシカゴの計画とそっくりのようで、そうでない。床を積層させ、壁は透明。でもぼくはクラシシズムがわかっていたから、ちゃんと全体の輪郭を考えた。しかし輪郭を決めつつ、外の風景を映す万華鏡にしたり、都市の一員として、スーツにネクタイをさせたのさ。でもこれはフォーマルのようでそうではない。
そうですね。NYスカイスクレーパーの仮装大会をもういちどやるとすれば、これはどんなキャラにんるんだろうか。
でも階ごとに見ると、先生のガラス張り建築ですよ。
いやいや。個としてピュアに、集団としてもピュアに。これがぼくたちのダンディズムだった。最近の人ときたら。
でもさあ、これってぼくの郊外住宅のようでもない?失礼、ぼくLAから来たんですけど。ぼくが設計した住宅からLAの夜景が見えます。グリッド状の道路。おなじようなものが、ここ、NYでも見れるじゃないですか。
NYとLAをごっちゃにしてはいかんよ。
そうですよ。ここからは水平線、地平線を見るのです。アメリカ的なランドスケープは、崇高な性格のものです。みみっちいガーデニングではないのです。
そうかしら。摩天楼だけがアメリカ的ではないわ。私たちのように、土間のような、ほぼGLの床の上にすむのもほんとうにアメリカ的だわ。先生のように大地から切り離された住まいに住むのはまだ旧大陸の追憶があるからだわ。わたしたちはしっかり新大陸に根づきましたの。
これこれ。
いやいやお嬢さんのフランクさは嬉しいですよ。
あ、先生もお見えに。
こんにちは。盛り上がってるね。それはそうと、このタワーは、数値的には周囲より高くても、大きいとはいえない。何十年もまえからぼくはNYの超高層は大きくないといったとおり。なにもかわっていない。
でも先生。先生の「大きさ」はすこし含蓄がありすぎる。単純な大きさが、大きさと思います。単純な大きさだって、つきつめれば質の変換にいたる。NYはぼくのルーツとも無関係ではないので、挑発してもいいことはないんです。ストレートな肯定もいいのではないですか。
まあきみはね。
同感ですね。ぼくだって斜に構えて生きているわけではないですよ。でもNYは完全に垂直主義と水平主義に支配された都市。これを止揚するには斜めしかありません。先生はドミノを主張しながら、スロープなり吹き抜け、ボイドなり、じつはプロトタイプを変形し、破壊することで創作したのです。それは挑発でも批判でもなく、自己否定的な創造、真の創造なのです。
おお。ラディカル。いちど遊びにおいで。議論の続きをやろう。
グローバル化した現代にはラディカルもコンサバもないんですけどね。
そうですよ。上下のものをずらすって、NYではわたしたちが最初だと思います。
あなたは。いやいや失礼しました。でもあなた方はボリュームのずらし。彼らのはスラブのずらしです。
それも詭弁ではありません。ずらしても輪郭を強調する手法もある。ヘルツォークさんたちは、霧のように、輪郭を曖昧にしているのです。
そういえば、NYのタワー群は輪郭競争をしているともいえる。しかしそれを相互補完的などとまとめにはいるのは凡庸ですよ。
はいはい。
そういうことでいえば、ぼくも超高層プロジェクトを公表したよ。そこで考えたのはグラデーション。とくに素材によるグラデーション。それからアトリウムというというと平板だけど、共有される空間。だってやはり都市だもの。
そうですねここでは突出した個が、無関係に積層している感じ。
そう。それがNY。ゴシック、クラシック、モダンさまざまなスタイルの超高層が、それぞれ突出しようとしているのがここ。彼らのものは、ひとつのタワーのなかで、個の突出を演出し、それがひとつのタワーとして他とはちがう突出をした。NY的であろうとして、他とはまったくちがうアプローチでありながら、他よりずっとNY的になるという。
あ、またシメ的な言説を・・・・
(というわけで議論は際限なくつづく)
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