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2008.10.09

『シュリンキング・ニッポン』を読んだ

大野秀敏先生のご高著を賜りましたので(ありがとうございます)、読みました。副題は「縮小する都市の未来戦略」です。

ファイバーシティ構想が背骨となっておりますので、感想もまたファイバー的に書きます(ようするに断片的に)。

日本はこれから人口も社会も縮小するのだから、まっこうからの問題の取り上げ方で、反論もなにもない。ただ縮むから必然的にファイバーとまでは思わない。もちろん成長都市計画は、インフラ、軸線、成長ベクトルといった骨格を描きやすい。一九世紀までは同心円状の成長構造が考えられた。一九六〇年代頃の都市成長イメージは、軸線にそって、生物のように拡大するというものであった。このように成長は構造化しやすい。しかし縮小とは、この構造までもがなしくずしに崩壊してゆくのだから、スキームや構造をアプリオリには設定しにくい。

ぼく的には、縮小というのは状況、ファイバーシティはひとつの認識方法、というふうに別々にとらえたい。もちろんある方法で認識する。その認識のうえにプロジェクトを展開するのだから、完全に無関係ではないが。

ただ、ヨーロッパではかなりまえから都市組織、ティシュ・ユルバン、という、都市をひとつの織物として考えることが、当局的都市計画においても見られる。ティシュとはtissuであり、ティッシュペーパーのそれであり、織物、布地、組織、である。フランスでは一九六〇年代ころから社会、政治、都市などのたとえとして使われているようである。

「ファイバーシティ」とは、都市がさまざまな繊維からなる組織体であるという発想だから、tissuとは矛盾はしない。両者に共通しているのは、都市や社会はひとつのシステムが貫通しているのではなく、糸やひもがさまざまにからまったり、結び目をつくったり、レイヤーが重なったり、というイメージである。ただtissuが反物になった布を想像しがちなのにたいし、ファイバーのほうがよりアナーキーな力がありそうである。

どちらがどうというのではなく、tissuもファイバーも、認識の方法である、ということである。「モデル」や「プラン」が上位からの押しつけ方、演繹的であるのにたいし、ファイバーは帰納法的であり、まず読むこと、発見すること、分析すること、既存のものの存在を認めることからはじまる。そして人間は点としては存在しにくく、リニアに動き移動することで社会や他者との関係をつくっていくのだから、ファイバーは都市における人間のモデルである。もちろん電車や道や物流といったもののモデルでもある。

さてエネルギーや環境を考えるとコンパクト化は必至のようにも見えるが、それをいうのは行政の人、そして学者である。しかし竹内直文という行政に近い人もコンパクト化へのマインド形成が難しいと指摘しているし、吉見俊哉も都市のモチベーションとしてコンパクト化はなるかどうか疑問視していた。それもそうだ。現状では、強権発動、よっぽどのインセンティブ、あるいは破局からの反省、がないとそうかんたんにはいかないであろう。もちろん大野先生自身も、行政のコンパクト構想もまたあまりに性急な方向転換であって、そのことの弊害も大きいと指摘している。そうなのです。人生80年のあいだに、政策も、都市像も、プランニングもどんどんかわってゆく。だからひとりの人間(とくに日本人)にとっては、親方日の丸がコロコロ都市哲学をかえてゆくのだから、信じるものなどない、といった状況でしょうか。若者が年金を信じないのと同じです。

ついでにいうと、コンパクトシティを可能ならしめる政権はどれか?その推進役となる産業はなにか?もしそれらを想定しないのなら、いかなるメカニズムで?

さらについでに。ファイバーシティはかなり影響力があって、去年、ぼくが担当している設計課題において、福岡市をファイバーシティ化するプロジェクトをひとりの学生がスタディして提案した。自主的に、しかし大野先生のスキームにかなり忠実に。するとほとんどの市街地を緑に還元できる。しかもほぼ博多湾を一周する環状都市となり、地理になじみ、美しい。翌日、非常勤の先生と唐津までドライブした。そこでの実感。コンパクトにはできないよねえ。やはり鳥の視点と、虫の目にはかなりギャップがある。もちろん虫の目は大切なのであるが。

・・・・とはいえ「ファイバー」概念は建築史をやっているぼくにも面白いのです。つまり都市は、いきなり全体像や普遍性をいうのではなく、微分し、積分するものである、という哲学はたいへん重要だからです。

最近ヨーロッパ都市研究をぼちぼち再開しましたが、あらためて気がつきました。日本人がとくに近代化の過程のなかで、ヨーロッパの都市や建築を学習し、そこからモデルや理論を抽出するのですが、そこに過度の理想化、イデア化がなされてきました。しかし実際は、城壁で囲まれていて視覚的にコンパクトな都市であっても、矛盾する諸要素の共存であり、きわめてヘテロジーニアスです。

するとおかしなことが起こる。日本の都市史研究者は、中世から近代において、多元的であった権力が一元化される、これは日本とヨーロッパに共通する現象だ、などといいます。しかしヨーロッパでは、権力は一元化されてなどおらず(ごく一時期にそう見えただけ)、中世か現代まで多元的諸権利の調停というのが社会の原理です。しかし日本は、一元的・普遍的モデルとしてヨーロッパを都合良く曲解しているので、ヨーロッパを誤解し、そして間違ったモデル化をして、それを日本に適用している。それでどうなったかというと、日本はきわめて中央権力が強い国となったし、それはヨーロッパ以上です。

都市を読み解く方法としては、ぼくはヨーロッパ都市はさまざまなプロジェクトの堆積、重ね書き、重層として解釈すると、かなりいいのではないかと気がつきました。様式論や計画論(これらも一種のイデア化)というモデルに頼らないで、ひとつひとつの都市形成行為、都市介入事業を分析し、そこにおけるステークホルダーをカウントすることで社会がわかる。それにたいし、理想都市論などは、都市や社会が一元的イデアに従っているなどとする思想であり、現実に反するし、おぞましい。理想都市論はあくまで批評として意味があるのであって、ようするに、現実からは乖離しているからこそ意義のあるものの典型例です。

都市を構成する「ファイバー」は現実にできてしまうものも含まれるでしょう。それでも都市という全体をどうほぐしてゆくか、解釈において、分析において、どう分節化していくか、という点で、ぼくにとってたいへん示唆に富むものでした。ぼくはぼくで都市を「プロジェクト」にほぐしてゆくというのが、歴史研究としては面白そうで、しかも歴史と現代を関係づける、しかも実践というレベルで関連づけるいい方法になるのではないか、と思っています。

「ファイバー」を建築家の都市論として位置づけるなら、反モデル主義的、反イデア主義的であり、脱構築的な方向性を、現実の問題群のなかで実践的に展開しているという可能性がある、ということかもしれません。

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