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2008.10.16

クロード・パラン著『斜めにのびる建築』

標記文献を、翻訳者から贈呈された。ありがとうございます。

例の公開講座で開演をまちながら読んだ。講演者はぼく自身でしたが、ベテランなのでもう余裕しゃくしゃくです。

面白いのは、違うふたつのことなのに、前後して体験するとつながってしまうこと。つまり福岡の大建築家とクロード・パランさんが、です。つまりどちらも普遍的であろうとし、過剰であろうとした。

パランは日本ではほとんど知られていないが、フランスでは大きな存在である。Vivre à l'obliqueなる原題は、斜に構えて生きるとも読め、けっこうシニカルです。このコンセプトにもとづく「斜めの都市」という展覧会もあったようです。

ようはル・コルビュジエのドミノ、つまり水平な床の積層として構想される近代建築は、水平ではない階段とかエレベータによって補助されねばならず、必然的に垂直都市となる。それはすでにさまざまな問題を呈している。だから斜めの空間という、ドミノにかわり、新しいコンセプトを全面的に展開しよう、という考えである。

これが最近注目されるのは、ジャン・ヌーヴェルやコールハースの作品、はたまたランドスケープ化した建築において床や地面が傾斜している、ことなどの現代の潮流を、すでに何十年もまえに予見し、また精神的支柱であった、からです。

翻訳を読みながらいろいろ感じた。また念のため、WEBで彼自身の声やドローイングをみながらぼくなりに想像をふくらました。

http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2005/08/10/la-ville-oblique-de-claude-parent-3-5_671034_3246.html

ヌーベルやコールハウスの実作よりこちらのほうが刺激的である。そしてこの奇異なる思想を生み出したパリという場の力はなにか、と自問したくなる。

パリやNYにはとても及ばないが、福岡にもそれなりに場の力があって、それが葉祥栄を生み出した。パリにはパリの場の力がある。

つまりこのパリの場が、モダンとかモダニズムというものなのか、ということである。フランス人やパリの建築家の標準的な意識としては、ギーディオンやペヴスナーは、自分たちの業績の一部を編集して近代建築史なんて書いてるけど、自分たちは自分たち、(知っているけど)知ったことではない、といった場と時代の意識である。

斜めの空間とは、水平な床を否定し、垂直な階段をも否定し、その両者ではない斜面によって構想される建築や都市である。つまりそれはきわめて思弁的なものである。そうして、斜に構えるといった立場を選択し、しかしそれを貫くことで思想に昇華させる、場の力というものである。

ぼくは彼の影響や、理論的な射程のことはそんなに重要と思わない。しかし彼自身の語りとドローイングが提示する、思想の展開、その生々しさ、というようなことだ。つまり抽象的な図式や方程式に還元されない、思想の肉体性、身体性のようなものである。

だから磯崎さんとは違った観点でヴェネツィアとのアナロジーを展開する。斜めの都市は、この島=都市のように、孤立し、旧市街地網から孤絶しなければならない。やはりユートピアである。堅固な大地、そのものである。

翻訳はじつにこなれた日本語となっていて、解説を読んでも、翻訳者の力量が感じられる。ただ若い世代らしく表象文化論的な角度をふくめ多角的に解説しているが、ややもすると総花的になっていて、どんな葛藤の場にパランがいたか、ぼくの感覚とは違う。おそらくこの解説は、まったく独立した、翻訳者自身の建築論として展開されるべきであろう。

パランは当然のこと近代建築との関連で論じられるのであろう。20世紀を構成した重要な思想家として再発掘され再解釈されるのであろう。でもその課題は、ぼくは他の人にまかせておきたい。

それはともかく「過剰」はいかにして可能なのだろうか。この設問に戻るのである。

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