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2008.10.07

商店街のパレード

先週の日曜日、商店街のお祭りでした。

昔なら山下達郎の《ダウンタウン》でしょうが、いまならケツメイシがあいそう。

最初はパレード。たぶん中学生のブラスバンド、白馬にひかれたミスなんとか商店街、よさこい風の踊子隊、町内会の大人たち、などが雨中にもかかわらず元気に練り歩く。

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巨額の経費を投入しているのではないことはすぐわかるが、しかし人びとのノリはよい。

この商店街がユニークなのは、ふだんから歩車分離がないこと。もちろん強制的にホコ天の時間帯はあるが、それ以外の時間のほうが人も車も入り乱れて?ここらしい。10年後は残っているかどうかわからない雰囲気だ。市はやはり道路拡幅して歩道などをつけたいのだろうね。新築のマンションをみればよくわかる。現代の制度は、歩車分離が原則だ。しかしこの原則に従っていないけれど、経験的に、ちゃんと車と人が共存しているかにみえる例外的な生態系として、認めていい。この曖昧さ、長さにして数百メートルを、貴重な都市生活文化遺産とてあげてもいいなあ。

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マンションがこれから建つ敷地が臨時の広場となる。餅つき、屋台、出店・・・。結局、お昼は宮崎の地鶏になってしまった。路上ではバナナ売りのパフォーマンス。

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商店街のお店も、この日は出店を構える。スペアリブと生ビール。最後はこれですねえ。

盛り上げるぞ、なんていうテンションはない。悲壮感もない。楽しそう。つまりまったりしている。この水平飛行的感覚がよい。つくづく商人の町である。つまり実質主義、合理主義、レスポンスの良さ。都市的とはこういうことである。都市的とは都会的ではない。都市的とは身も心も最初から都市。都会的とは、それまで外にすんでいた人びとがあらたに都市に住み着いて身につける作法のこと。

日本人は1960年代からの都市化の時代に、都会的であろうとし、そこそこうまくやった。でもほんとうに都市的なのは、やはり江戸時代からのなんらかのものを引き継いでいるところ、といったこともはっきりしてきた。

でこんな雑多な町のありようは、15年前なら、アジア的などと形容したのであろう。細かく言えば、純粋に日本的ともいえないし、アジア的とももはやいえないし・・・。で、ぼくなりの偏見から言えば、これはじゅうぶんヨーロッパ的。つまり庶民の住む商店街は、経済レベルがさほど違わなければ、同じような質をもつようになる。ときたまの祝祭、そこそこのほどよい盛り上がり、専門店のならび、人びとの間の絆・閾の高さ低さ。そこには東洋だの西洋だのはあまりないような気がする。これはアメリカにはなかなかないものでもあります。いちどヨーロッパの商店街に住んでみるとすぐわかります。

ぼくはニューアーバニズムやコンパクトシティなどという上位から降ってくるような概念はあまり好きじゃないのだが、それはなぜかというと、それらはライフスタイルとしては古典的であり、ずっと前からあるものであるからだ。つまり既存のものの再モデル化なのだが、専門家が新しがっているいっぽうで、その古いとされたものをまだしっかりと身体化しつづけている人びともいる。そこんとこをわかっていないとね。ぼくなどはコンパクトライフをずっとやってきた。そのメリットもよく知っている。ただ社会のなかでそうした概念が運用されるされ方は、操作的、管理主義的であって、内省的、自発的ではないからだ。専門/素人のときに反転したねじれ関係はいつの時代にもあるものです。

結局、お昼時の1時間と、夕方30分、路上散策をたのしみました。そのほかは部屋にいて悲しくも仕事してましたが、すこし遠くから聞こえてくるお店のかけ声や音楽は気持ちよかったなあ。

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